「弟子の足を洗うイエス」
2005年2月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 13章1節~20節
この13章から、ヨハネによる福音書の後半に入ります。ここまでは、主 イエスが各地において行われた「しるし」と、その「しるし」に伴って語ら れた主イエスの御言葉が記されておりました。ここからは一般的なユダヤ人 たちに対する語りかけではなく、弟子たちに対する説教が中心となります。 今日の箇所はその冒頭部分です。「さて、過越祭の前のことである。イエス は、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子 たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13・1)。そして、その愛が いかなる愛であるかを、主イエスはひとつの行為によって表現されました。 主は弟子たちの足を洗われたのです。
主イエスの洗足
これは《最後の晩餐》と呼ばれる食事の場面です。この食事との関連で私 たちが通常思い起こしますのは、聖餐制定の行為と言葉でしょう。主イエス はパンを弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。これはわた しの体である。」また杯を彼らに渡して言いました。「皆、この杯から飲み なさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、 契約の血である」。しかし、この福音書を書いたヨハネは、誰もが知ってい たであろう聖餐制定の言葉を書き記しませんでした。その代わりに、もう一 つの忘れがたい主イエスの行為を書き記したのです。主が弟子たちの足を洗 われたという出来事です。
この主イエスの洗足の行為は、それが行われた場面と結びつけて理解され ねばなりません。そうでなければ、単なる謙遜や奉仕の大切さを教える教訓 話になってしまいます。イエス様が謙ったように、私たちも謙りましょう。 イエス様が仕えられたように、私たちも他の人に奉仕しましょう。もしその ようなことを教えるだけならば、何も《最後の晩餐》でなくてもよいのです。 これまでに幾度となく弟子たちと食事を共にしてきたわけですから。
これが《最後の晩餐》において行われたということは、この洗足の行為が 主イエスの死と分かち難く結びついていることを示しています。それは「過 越祭の前のことである」と書き始められていることからも分かります。主イ エスが十字架にかけられて殺されるのは、過越祭の準備の日、過越の羊が屠 られるその日のことです。主イエスはそのことを既に知っておられました。 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」と書 かれているとおりです。死にゆく主イエスが弟子たちの足を洗われたのです。
最後の晩餐において主が手渡されたパンとぶどう酒は、十字架において裂 かれる主の御体、そこにおいて流される血を指し示していました。主が象徴 的な行為によって示されたように、十字架の出来事とは、まさに主イエスが 「この体を食べなさい。この血を飲みなさい」と言って、自分自身を私たち に差し出してくださるということに他なりませんでした。
同じように、弟子たちの足を洗うという象徴的な行為もまた、主の十字架、 罪を贖う主の十字架を指し示していたのです。主イエスは奴隷のように膝を 屈めて、汚れた弟子たちの足を洗われました。そのように、主イエスは低く なられ、僕の姿となられ、自ら流し給うその血潮をもって、私たちの罪を洗 い清めるために、十字架にかかってくださったのです。主が愛してくださっ た、この上なく愛し抜いてくださったとは、そういうことなのです。
もちろん、この食事の場面そのものが、主イエスの死と直接的に結びつい ていることを、弟子たちは知ろうはずもありません。そのような弟子たちに とって、主イエスの行為はまさに異常な行為以外の何ものでもありませんで した。ですから、ペトロは驚いて問うたのです。「主よ、あなたがわたしの 足を洗ってくださるのですか」(6節)と。すると主は答えられました。 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるよう になる」(7節)。
その意味は後の日まで閉じられているのです。やがて主イエスが十字架に かかられ、そして復活され、後に聖霊が降ってその意味するところを弟子た ちに悟らせてくださるまでは、閉じられているのです。ですから、ペトロは その時、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言って、主イエ スに洗っていただくことを拒否したのでした。あまりにも畏れ多いと思った のでしょう。しかし、そのペトロに主はこう言われたのです。「もしわたし があなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる 」(8節)。
「あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」――実に厳しい言葉 です。しかし、ペトロと共に私たちもこの言葉をしっかりと聞いておかなく てはなりません。それは、キリストと私たちとのかかわりが何によって成り 立っているのかを示しているのです。
私たちとキリストとの関係が成り立つのは、私たちがキリストに教えられ て何かを行うことによってではありません。キリストを模範として何かを行 うことによってでもありません。キリストを愛することですらありません。 私たちとキリストとの関係は、十字架において表されたキリストの愛を受け 入れ、キリストによって洗っていただくことによって成り立つのです。
「それはまことに畏れ多い」「それではあまりに虫が良すぎる」という真 面目な理由であったとしても、このキリストの愛を受けることを拒むなら、 「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもな い」と主は言われるのです。逆に言えば、どんな人であっても、キリストの 愛を受け入れ、洗っていただいたならば、その人は確かにキリストとのかか わりの中にあるのです。
キリストの模範に倣う
そして、キリストによって洗っていただいた者に対して、そのようなキリ ストとの関係にある者に対して、主はさらに言われるのです。「ところで、 主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがた も互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおり に、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(14‐15節)。
「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗 い合わなければならない」。それは34節以下においては次のように表現さ れています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わ たしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互 いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、 皆が知るようになる」(34‐35節)。
このように、キリストによって洗っていただいた者として、キリストとの かかわりをいただいたなら、同時に他者とのかかわりもいただくことになり ます。「互いに愛し合いなさい」。この「互いに」は、第一義的には、キリ ストの弟子としての「互いに」です。「まずこの世に出ていってすべての人 を愛しなさい」と言われているのではありません。愛し合う弟子の群れを形 成して生きることが求められているのです。要するに、教会と切り離された、 他の弟子たちと切り離された信仰生活、「わたしは一人でただキリストと共 に生きていきます」などという信仰生活など、あり得ないということです。
そこで重要になるのは、主イエスが示してくださった姿です。主は上着を 脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を 洗い、手ぬぐいでその足を拭いたのです。先にも申しましたように、この行 為が指し示しているのは主イエスの十字架です。しかし、主イエスが十字架 の上から「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、 模範を示したのである」と言われたら、その言葉を受け取ることは不可能で しょう。そもそも、キリストの十字架における罪の贖いそのものは、神の御 子による唯一無二の御業なのであって、私たちがそれを模範として繰り返す ことができるようなことではありません。しかし、これが「足を洗う」とい う姿として手渡されるならば話は別でしょう。主はそのように、私たちが受 け取ることができるような形で手渡してくださったのです。
考えて見てください。そもそも主が「わたしがあなたがたを愛したように、 あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語ってくださること自体、驚くべき 恵みではありませんか。《キリストが私たちを愛してくださったこと》と 《私たちが互いに愛し合うこと》の間には、天地の開きがあるのです。《罪 を贖うために十字架にかかること》と《だれかの足を洗うこと》の間ほどの 開きがあるのです。しかし、その結びつくはずのない二つを、主イエスは結 びつけてくださるのです。実際、人と人との間において「互いに愛し合う」 ことなど、たかが知れているではありませんか。しかし、そのような愛を、 主イエスは御自分の愛と結びつけて見てくださる。「わたしがあなたがたを 愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とはそういうことでし ょう。
つまり、言い換えるならば、私たちが愛し合うとき、「わたしがあなたが たを愛したようだ」と主は言ってくださるのです。私たちが互いの罪を赦す ことができたとき、「わたしがあなたがたを赦したようだ」と言ってくださ るのです。私たちがお互いに受け入れ合うことができたとき、「わたしがあ なたがたを受け入れたようだ」と言ってくださり、私たちが互いに足を洗い 合うとき、「わたしがあなたがたを洗ったようだ」と言ってくださるのです。 主が洗ってくださったということの意味を考えるならば、私たちがお互いに していることなど、本当に恥ずかしくなるような程度のことでしょう。しか し、それが許されているのです。それが主イエスによって受け入れられてい るのです。それが教会における互いの関係なのです。
ならば、私たちはまず、主イエスの洗足のぎこちない物まねから始めてみ ようではありませんか。主イエスの洗足が指し示す大いなる十字架の愛を思 いつつ、私たちに注がれた驚くべき赦しの愛を思いつつ、小さく膝を屈める ことから始めてみようではありませんか。「洗足として示された主の模範に 倣うとは、私にとっていかなることか」と考えるなら、本当に小さなことか もしれないけれど、この教会のお互いの間において、愛すること、赦すこと、 受け入れること、執り成しの祈りを捧げること、重荷を負うことなど、具体 的に為し得ること、為すべきことが見えてくるのではないかと思うのです。