「ぶどうの木のたとえ」
2005年2月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 15章1節~17節
今日の聖書箇所は《ぶどうの木のたとえ》として知られている箇所です。 このたとえが教会を表現していることはすぐに分かります。教会が幹なるキ リストと枝である信仰者の生命的なつながりとして表現されているのです。
なぜぶどうの木のたとえなのか
教会があるイメージをもって語られる背景には、そのように語られなくて はならない事情があるものです。その事情とは何であるかを考えますときに、 目に留まりますのは同じ章の18節以下です。ここには迫害について語られ ています。つまりここにおける一連の主の御言葉は、迫害と試練を経験する 教会ということが前提として語られているのです。迫害や困難、試練がある ということは、そこで一人一人が「つながるのか、離れるのか」が問われる ということを意味します。それゆえに「個々の信仰者とキリストとの関係」 を表すぶどうの木のたとえがここに出てくるのです。
もう一箇所を開いてみましょう。少し前の12章42節以下をご覧くださ い。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂か ら追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなか った。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである 」(12・42‐43)。福音書というのは、単なるイエスの伝記ではあり ません。そこには福音書が書かれた時の教会の状況が反映しているのです。 「信じる者は多かった」。しかし、心の中で信じているだけならば良いのだ けれど、その信仰を「公に言い表す」ならば会堂から追放されてしまう(つ まりユダヤ人のコミュニティから追放されてしまう)という状況について書 かれています。
このようなことは、主イエスの時代に起こったことと言うよりも、むしろ ヨハネによる福音書が書かれた頃の教会を取り巻く状況でありました。キリ スト教会は、当初「ナザレ派」などと呼ばれてユダヤ教の一派とみなされて いたのですが、ヨハネによる福音書が書かれた紀元一世紀も末の頃、キリス ト教会はユダヤ教社会から完全に切り離されることになったのです。それは ユダヤ人の迫害の対象となることを意味しました。そしてまた、ローマの公 認宗教であるユダヤ教界から追放されるということは、ローマ帝国の迫害の 対象となることをも意味していたのです。教会は大きな試練に直面すること になりました。そのような試練の中で、教会から離れていく人々もいたよう です。あるいは、心の中では信じているけれども、公には告白しないという 形で困難を回避する人々もいたに違いありません。それは教会が問われる時 代でありました。キリスト者とは何であるかが問われる時代であったのです。
それゆえに、ヨハネはこのたとえを書き記したのです。「わたしはぶどう の木、あなたがたはその枝である」と主は言われたではないか、と。ここで 主イエス御自身が「まことのぶどうの木」(1節)であると表現されている ことは重要です。「ぶどうの木」という比喩は、旧約聖書においては神の民 イスラエルを表すために用いられています。教会がまことの神の民であると いう理解は古くからありました。つまり、教会こそ「ぶどうの木」であると いうことです。しかし、ヨハネは、キリストこそが「まことのぶどうの木」 なのだ、と言うのです。ですから、そのキリストにつながる生きた枝であっ てこそ、はじめてその枝もぶどうの木であり得るのです。つまり、様々な困 難と試練の中で、教会そのものよりも、個々のキリスト者が問われているの です。それがこの《ぶどうの木のたとえ》なのです。
さて、これは国家的な迫害に向かう厳しい状況のもとにある教会に限定さ れた問題でしょうか。そうではないと思うのです。私たちにも違った形で、 キリストから私たちを引き離す力が働いているのです。教会とは何か、聖徒 の交わりとは何か、キリスト者とは何かが問われる事情というのは、いつの 時代にもあるのです。そこで私たちもまた、私たち自身が生きた枝としてキ リストとつながっているかが問われることになるのです。
わたしの言葉がとどまるならば
そこで重要になるのは、生きた枝として《キリストにつながる》とはいか なる意味か、ということでしょう。このことについて、今日は特に二つのこ とを心に留めたいと思います。
まず7節をご覧下さい。「あなたがたがわたしにつながっており、わたし の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。 そうすればかなえられる」(7節)。翻訳では分かりませんが、原文におい ては「つながる」(あるいは「とどまる」)という言葉が二回繰り返されて おります。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなた がたにつながっているならば(とどまっているならば)」と書かれているの です。
ここで「わたしの言葉が」と書かれていることは重要です。ある人は、心 に何か特別なものを感じることを《キリストとのつながり》と考えるかもし れません。あるいは単に、キリストのことをいつでも想っていることである、 キリストに毎日お祈りをしていることである、と考えている人もいるかもし れません。しかし、ここで主イエスはあえて「わたしの言葉があなたがたに とどまっているならば」と言われるのです。キリストとのつながりが、キリ ストの言葉とのつながりとして語られているのです。
ではキリストの言葉がつながる(とどまる)ということは、どのようにし て、どこにおいて起こるのでしょう。主イエスがおられた時には、当然のこ とながら、それは主イエスの声が届くところ、主イエスの周囲において起こ りました。しかし、ヨハネによる福音書が書かれた時には、主イエスは地上 におられないのです。その意味では、私たちもその時代の人々と同じです。
ではキリストの言葉とのつながりは、どのようにして起こるのでしょうか。 聖書の中に書かれているキリストの言葉を毎日読むということでしょうか。 いいえ、そうではありません。そもそも今日のように各自が印刷された聖書 を持っているわけではないのですから。キリストの言葉が聞かれ、そしてと どまるのは、イエスの名によって集まる礼拝の場なのです。ユダヤ人の会堂 から追放されたキリスト者が集まる礼拝の場なのです。
先にも申しましたように、イエスの名において集まり、礼拝することは大 変に困難になりつつあったのです。イエスへの信仰を公に言い表す群れの中 に身を置いて、共に礼拝をするということは大変に困難になりつつあったの です。個人で祈っているほうが、個人としてキリストを想っているほうがよ ほど簡単なのです。ユダヤ人の会堂において礼拝をささげ、トーラー(律法) の言葉を聞き、心の中だけでキリストを信じていれば、問題はないのです。 しかし、そのような形では、キリストにつながることはできないとヨハネは 言うのです。困難であろうが何であろうが、イエスの名によって共に集まり、 キリストの言葉を聞くのです。そして、聞かれるキリストの言葉がその人の 内にとどまる。そのことがすなわち《キリストにつながる》ことに他ならな いと、主イエスの言葉は教えているのです。
わたしの愛にとどまりなさい
そしてもう一箇所、9節以下をご覧下さい。「父がわたしを愛されたよう に、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わた しが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたし の掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(9‐10節)。
ここには三回「とどまる」という言葉が出て来ます。前に出てきた「つな がる」というのと同じ言葉です。そしてここでは「わたしの愛にとどまりな さい(つながりなさい)」と語られています。《キリストにつながる》とい うことが、《キリストの愛につながる》と言い換えられているのです。
まず、キリストが私たちを愛して下さいました。「父がわたしを愛された ように、わたしもあなたがたを愛してきた」と書かれている通りです。しか し、愛することは一方通行でもあり得ますが、愛における交わりは一方通行 ではあり得ません。応答あっての交わりです。現された愛への応答は信頼と 従順です。キリストは、父なる神との愛の交わりを、父への信頼と従順によ って示してくださいました。同じように、信頼と従順において、人はキリス トの愛にとどまるのです。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまってい るように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまって いることになる」と主は言われました。ここでの「わたしの掟」は複数です が、その複数の掟は究極的には一つの掟へと収束していきます。それは12 節に記されているとおりです。「わたしがあなたがたを愛したように、互い に愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15・12)。
つまり、私たちは互いに愛し合うことにおいて、キリストの愛にとどまる のです。キリストにつながるのです。「互いに愛し合う」ということにおい て語られているのは、単に「和を保つ」ということではありません。単純に 「困った時に助け合う」という次元のことでもなさそうです。そこで問われ ているのは、公に信仰を言い表し、共にキリストの言葉を聞く共同体に留ま るのか、それとも離れていくのか、ということだからです。愛をもってとど まり、愛することによって他のキリスト者と共に、教会と共に生きていくの か、それとも離れていくのか、ということなのです。キリスト者が「ぶどう の枝」であるならば、「わたしは一人でキリストにつながって生きていきま す」などということはあり得ません。他の枝がつながるぶどうの木に自分も 《共に》つながってこそ、生きたぶどうの枝であり得るのです。
主は言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人 は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからであ る」(ヨハネ15・5)。これは最後の晩餐における主の訣別説教の言葉で す。主は私たちを生きたぶどうの枝とするために命を捨ててくださったので す。