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「一つになるために」

2005年3月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピ 2章1節~11節

    

心を合わせ、思いを一つに

 「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わた しの喜びを満たしてください」(2節)。畳み掛けるように言葉を重ね、パ ウロはフィリピの教会が一つとなることを求めます。

 しかし、心を合わせること、思いを一つにすることは、なんと難しいこと でしょうか。私たちは血の繋がった親子や兄弟であっても、あるいは神の御 前に誓約をした夫婦であっても、それが困難であることを知っています。た った二人の人間であっても、一つとなることは困難です。数多くの人間がい ればなおさらです。しかも、教会には多様な人々が集まっています。正確に 言えば、主によって《集められて》います。自分たちが集まったのでも、集 めたのでもなく、《集められた》ゆえにそこには多様な人々がいます。当時 の教会には、ユダヤ人もいればギリシア人もいました。奴隷もいれば自由人 もいました。男も女もいます。元気な人がいれば弱い人もいます。それが教 会です。パウロは、そのような教会に対して、「同じ思いとなり、同じ愛を 抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」 と言うのです。考えてみれば無茶な話です。

 しかし、そのことをパウロが求めているのは、前提があるからです。「そ こで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊” による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」(1節)と彼は言っ ているのです。「あるなら」と書かれていますが、彼は決して「ないことも あり得る」などと考えているわけではありません。内容的には「あるのだか ら」とさえ訳し得る言葉です。彼らはキリストの励ましに既に与っているの です。愛の慰めに与っているのです。これは明らかに、《神の愛の慰め》と いうことでしょう。そして、聖霊による交わりが与えられているのです。そ こに語られているのは、三位一体の神による救いの恵みです。その恵みに共 に与っているはずなのです。それが教会です。ならば同じ恵みに与っている ものとして、《一つとなっていること》は教会にとって本質的に重要なこと なのです。

 考えてもみてください。パウロはこの時、獄中にいるのです。この手紙を 読みますとき、彼が殉教の死をさえ予感していることが分かります。そのよ うに、生きるか死ぬかというところにありながら、彼にとって何よりもの願 いであったのは、フィリピの信徒たちが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、 心を合わせ、思いを一つにする」ことでありました。その実現において、は じめて彼の喜びは満ちるのです。

 しかし、もう一方において、このように書かざるを得なかったのは、現実 には分裂や対立が存在していたということでしょう。4章では同じ勧めが名 指しで書かれています。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧 めます。主において同じ思いを抱きなさい」(4・2)と。彼らは洗礼を受 けて間もない信徒ではありません。福音のためにパウロと共に労してきたフ ィリピの教会のリーダーたちです。その彼らが同じ思いになれなかった。パ ウロにとって、この二人が一つの思いになれないことは、投獄そのものより も大きな心の痛みであったのだと思います。

 私たちはさらに、主イエスが弟子たちと共に祈られた最後の祈りをも思い 起こすべきでしょう(ヨハネ17章)。主イエスは、自分が間もなく捕らえ られ、十字架にかけられようとしている時に、弟子たちのために、そして後 に彼らの言葉を聞いて信じる人々のために祈られました。すなわち私たちの ために祈られたのです。何を祈られたのでしょう。彼らが、そして私たちが 一つになることです!

 繰り返します。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一 つにする」ことは、教会にとって本質的な意味を持っているのです。個々の 人間が救われていたら良いではないか、一人一人が神の恵みに与っていたら それで良いではないか、ということにはならないのです。

利己心や虚栄心からするのではなく

 では、どうしたら良いのでしょうか。そこでパウロは次のような具体的な 勧めの言葉を記しています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、 へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のこ とだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3‐4節)。

 どう思われますか。実に拍子抜けするほど、ありきたりのことしか書かれ ていません。このような言葉なら、聖書でなくても、どこにでも書かれてい そうではありませんか。皆が利己心や虚栄心によって動いているならば、一 つになどなれやしない。当たり前のことです。自分を他の人間よりも優れた 者と考える高ぶりが共同体に分裂をもたらすことぐらい、誰だって分かりま す。ここに書かれていることは、なんらユニークな勧めではありません。

 しかし、そこで考えたいと思うのです。確かに、ここに書かれていること はありきたりのことかも知れません。しかし、そのありきたりのことが本当 の意味で問題とされ得るのは、神の御前においてではないでしょうか。この 言葉においてライトが当てられているのは、人間の行動の内面にある最も深 い動機の部分なのです。そして、この部分は通常いくらでも繕うことができ るのです。「このようにしているのは、私のためではなく、あなたのためな のよ」と言うことができるのです。「これは世の人々のためなのだ」と言う ことができる。「神のために、キリストのために」と言うことのできるので す。しかし、本当にそこにあって人を動かしているのは、利己心や虚栄心か も知れないのです。へりくだっている素振りは見せることができるかも知れ ません。しかし、本当にそこにあるのは傲慢さであり高ぶりであるかも知れ ないのです。その深い部分が本当の意味で問題とされ得るのは、光が当てら れ得るのは、人間との関わりにおいてではありません。神の御前において、 神との関わりにおいてなのです。

 ですから、ここに書かれている勧めの言葉は、その受け手がキリストを信 じ、神を礼拝する《教会》であるということと切り離すことはできないので す。私たちもまた、礼拝において、主の御前において、この言葉を聞いてい るのです。そのことこそが、決定的に重要なことなのです。

キリストによって救われた者として

 それゆえにパウロは、当時の教会の礼拝において歌われていた讃美歌を引 用するのです。6節以下を御覧ください。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執し ようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者 になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十 字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あら ゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のも の、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イ エス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」 (6‐11節)。

 たいへん美しく整ったキリスト賛歌です。この歌と先ほどの「何事も利己 心や虚栄心からするのではなく、へりくだって…」という勧めとのつながり は明白です。この歌の中に「自分を無にして」という言葉や「へりくだって 」という言葉が出てくるからです。まさに《まったく利己心に生きなかった 方》《徹底的にへりくだられた方》としてキリストの姿が提示されているの です。

 しかし、パウロは、単に「このイエスさまの姿に倣いましょうね」という 意図でこの歌を引用しているかと言えば、そうではないのです。注目すべき は8節の「十字架の死に至るまで」という言葉です。この歌は読んですぐに 分かりますように、前半後半に分かれます。前半は6節から8節です。後半 は9節から11節です。しかし、実は前半部分の方が少し長いのです。歌と してのリズムを乱しているのは、この「それも十字架の死に至るまで」とい う部分です。これは引用する際にパウロが書き加えた言葉であると言われま す。彼があえて書き加えたということは、すなわちここにパウロの強調点が あるということです。

 他の手紙を見ましても分かりますように、パウロが「十字架の死」につい て語る時、彼の念頭にあるのは、「わたしたちの模範として死なれた」とい うことではありません。「わたしたちの罪のために死なれた」ということで す。ここに歌われているのは、「キリストはへりくだった立派なお方だった 」ということではありません。キリストの従順を通して実現された、十字架 の死を通して実現された、神の救いの御業が歌われているのです。ですから、 最終的に、「すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、 父である神をたたえるのです」という言葉に至るのです。

 キリストは神と等しい者であることに固執しようとは思われませんでした。 御自分を無にして、僕の身分となられました。人間と同じ者になられました。 そして、徹底的に低くなられて十字架の死に至られました。何のためですか。 誰のためですか。私のためであり、あなたのためです。罪人である私たちを 救うためでした。腹の底にある利己心によって動き、虚栄心を満たすために 事を図り、大義名分によって高ぶりを覆い隠している、罪深い私たちを救う ためでした。人を貶めて満足し、自分が高くされることばかりを追い求めて いる、そのような私たちを救うためでした。そのような私たちの罪を贖い、 私たちが赦されて神と共に生きるようになるために、キリストは神の栄光を 捨てて十字架の死に至るまで従順に、神の御心に従われたのです。

 これは恐らくフィリピの教会の人たちが、繰り返し歌ってきた讃美歌なの でしょう。彼らが礼拝をする時に、パンを裂き、ぶどう酒を分け合い、キリ ストの死を覚えつつ礼拝するなかで、この歌をうたってきたのでしょう。ま ことに私たちのために十字架にかかってくださったイエスこそ、私たちの主 であると歌ってきたのでしょう。そのように、彼ら自身が口にしてきた歌を、 彼ら自身が口にしてきた信仰を、今、パウロは彼らに指し示すのです。「こ れがあなたがたの信仰でしょう」と。

 そうです、私たちもまた、そのように歌い、そのように信仰を言い表し、 そのようにキリストの体と血にあずかる者として、神の御前にいるのです。 そのような者として、私たちは先の勧めの言葉をも受け取るのです。「何事 も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よ りも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意 を払いなさい」。そこにおいてこそ、私たちは初めて一つとなることができ るのです。

 
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