「エゴー・エイミ」
2005年3月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書18章1節~18節
祭司長たちとファリサイ派の人々は、既にイエスを殺すことを決めており ました(11・53)。しかし、主イエスの周りには常に群衆が取り巻いて おります。昼間に町中でイエスを捕らえでもしたら、それこそ大騒ぎになる かもしれません。彼らとしては、最も相応しい場所と時間を選ばねばなりま せんでした。そのために一役買ったのがイスカリオテのユダでした。食事の 後には、いつものようにキドロンの谷の向こうにある園へ行き、主イエスと 弟子たちだけで祈りの時を持つことを、ユダはよく知っていました。そこで ならば確実に捕らえることができます。その最適な場所へと案内する手引き をユダは引き受けたのでした。
主イエスとペトロ
ユダの裏切り――何度読んでも謎に満ちています。なぜ彼は裏切ったのか。 彼の心の動きについて、様々な憶測は可能です。しかし、それは好奇心を満 足させること以上の意味は持ちません。もっと重要なことがあります。聖書 は単純にこの出来事を次のように表現しているのです。「既に悪魔は、イス カリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(13 ・2)。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」(13 ・27)と。
「悪魔」「サタン」「この世の支配者」「悪い者」――そのような言葉を もって表現されているのは、人間が今日に至るまで常に経験してきたリアリ ティです。すなわち、人間を神から引き離し、罪の奴隷となし、滅びに至ら せる恐るべき力が、現にこの世界に働いているという事実です。「サタンが 彼の中に入った!」ユダに働いた力は、私たちにも働いているのです。その 力は、「この世の支配者」として、この世界をも、私たちの人生をも支配し ようとしているのです。
ユダは「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役 たち」(18・3)を引き連れて、再び主イエスの前に現れます。「一隊の 兵士」という言葉は600人からなる一部隊を意味します。いささか極端に も思います。しかし、そのような言葉をもって福音書は、まさに巨大な闇の 力、悪魔の勢力が、キリストを捕らえるために襲いかかろうとしている場面 を描き出そうとしているのです。
そして、キリストは捕らえられ、引いて行かれます。まるでキリストはサ タンの力に屈して引かれていくかのようです。しかし、ヨハネはこの場面を 注意深く描きます。キリストは敗北者ではなく、無力のゆえに引かれて行っ たのでもないということを、伝えようとしているのです。
1節にはこう書かれています。「こう話し終えると、イエスは弟子たちと 一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエス は弟子たちとその中に入られた」(1節)。主イエスはいつもの場所へ行く 必要はありませんでした。ユダが裏切ったことを主はご存じだったのですか ら。別の場所へと向かうことによって、ユダの思惑を打ち砕くことができた はずなのです。しかし、主イエスはあえていつもの場所へと向かいました。 そして、4節には次のように書かれております。「イエスは御自分の身に起 こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と 言われた」(4節)。主はすべてをご存じの上で、あえて自ら前へと進まれ たのです。
主イエスは、父なる神への完全なる信頼と従順のゆえに、自ら前へと進ま れたのでした。その時ペトロが大祭司の手下に剣で斬りかかりました。しか し、主イエスは言われます。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった 杯は、飲むべきではないか」(11節)。主イエスはこの苦難を、父からの 杯として、静かに受けとられたのです。逮捕され、裁かれ、十字架へと引か れていくキリストの姿があります。しかし、私たちはそこに、父なる神への 信頼によって、既に悪魔の勢力に打ち勝っておられる方を見ているのです。
さて、同じ場面には、弟子の代表であるペトロの姿も描かれております。 彼は勇敢でした。彼は大勢の兵士たちがいるその場所で、自ら剣を抜いたの です。かつてペトロは主イエスに言いました。「あなたのためなら命を捨て ます」(13・37)と。ここでペトロが見せたのは、そのような行為でし た。剣を抜けば、結果として兵士たちに殺されることもあり得たからです。 しかし、その一見勇敢に見えるペトロさえ、本当の意味で悪魔の力に打ち勝 ってはいませんでした。15節以下には驚くべきことが記されています。一 隊の兵士たちの前で剣を抜いたあのペトロが、とっさのこととはいえ、一人 の門番の女中の言葉に恐れを覚え、主イエスとの関係を否定してしまうので す。「門番の女中はペトロに言った。『あなたも、あの人の弟子の一人では ありませんか。』ペトロは、『違う』と言った」(17節)。その後、25 節以下では同様のことが二度繰り返されます。彼はついに三度イエスを否ん でしまうのです。すると鶏が鳴きました。かつて主が「はっきり言っておく。 鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(1 3・38)と言われた通りになったのです。
聖書は人間の姿をなんと正直に描き出していることでしょう。一見勇敢に 見える無謀な行為。後先を考えない無茶な決断。しかし、それは必ずしも真 の勇気を意味しません。同じ「命がけの行為」でありましても、ペトロの姿 は、父なる神への愛と信頼によって十字架へと進んでいったキリストの姿と は異なります。悪魔に打ち勝っていないなら、いつしかその弱さが暴露され ることとなります。しかし、このペトロの姿こそ、私たちの姿に他ならない のです。
エゴー・エイミ
さて、私たちはこの聖書箇所から、いかなる語りかけを聞くのでしょう。 ペトロのような者であってはならない。主イエスのようにならねばならない。 真に神に信頼し、「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」と言い得 る者とならねばならない。そういうことでしょうか。
いいえ、そうではないのです。私たちがまず心を向けるべきことは、「私 たちはどうすべきか」ということではなくて、「イエスはいかなるお方であ るか」ということなのです。
5節から9節までをもう一度お読みいたします。主イエスが「だれを捜し ているのか」と問われたところに続きます。「彼らが『ナザレのイエスだ』 と答えると、イエスは『わたしである』と言われた。イエスを裏切ろうとし ていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが『わたしである』と言われたとき、 彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが『だれを捜しているの か』と重ねてお尋ねになると、彼らは『ナザレのイエスだ』と言った。する と、イエスは言われた。『「わたしである」と言ったではないか。わたしを 捜しているのなら、この人々は去らせなさい』」(5‐9節)。
ここに「わたしである」という言葉が繰り返されています。この言葉はこ の福音書に度々出て来ますが、特に一つの印象的な場面を思い起こさせます。 6章に書かれていますガリラヤ湖上での物語です。6章16節以下をご覧く ださい。彼らガリラヤ湖で嵐に遭い、波と風に翻弄されていたのです。する と、キリストが湖の上を歩いて舟に近づいてこられたのでした。そして言わ れたのです。「わたしだ。恐れることはない。」この「わたしだ」というの が同じ言葉なのです。
原文では「エゴー・エイミ」という言葉です。「わたしはある」と訳せる 言葉です。「わたしはある」となりますと、また一つの場面が思い起こされ ます。かつて神がモーセに現れた時、御自分の名を「わたしはある」と呼ば れた、あの場面です。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるとい う者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたし はある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」(出エジプ ト3・14)。この「わたしはある。わたしはあるという者だ」という部分 を、ある人は「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と訳しました。つまり 神は共にいます神である、ということです。
主イエスはその言葉をここで用いておられるのです。つまり、主が「わた しはある(エゴー・エイミ)」と言われたとき、それはすなわち「わたしは 神である」という宣言に等しいのです。さらに言えば、このお方こそ「わた しがいるのだ、確かにいるのだ」と言われる、共にいます神である、という ことを意味しているのです。ですから、荒れ狂う湖の上でも主は「エゴー・ エイミ」と言われ、「恐れることはない」と言われたのです。主イエスこそ、 真に「恐れることはない」と語り得るお方なのです。
そして、今日の箇所についても、全く同じことが言えるのです。主イエス の「わたしである(エゴー・エイミ)」という宣言のもとに、悪魔の力を象 徴する夥しい兵士たちとユダが地に打ち倒されたのです。そして、弟子たち は守られるのです。「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。 」そう主は言われるのです。いわば、主イエスお一人が矢面に立ち、闇の力 の前にその身を投げ出して、共にある弟子たちを守られたのです。それはた だ弟子たちが殺されずに済んだ、というだけではなく、それはまた、キリス トお一人の犠牲のゆえに、彼らが永遠の命の内に守られることを象徴するよ うな出来事でありました。ですから9節でこう言われているのです。「それ は、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』 と言われたイエスの言葉が実現するためであった」(9節)と。
私たちの最終的なよりどころは、この「エゴー・エイミ」と宣言されるお 方にしかありません。私たちは、時としてペトロのような、ある種の勇敢さ を現す時があるかも知れません。しかし、そのペトロがいみじくも直後に自 らの弱さをさらけ出したように、私たちの内にある強さなどたかが知れてい るのです。悪魔の力が襲い来て私たちを滅びへと引きずり込もうとする時、 私たちを守り、滅びから救い得るのは、ただこのお方だけです。「エゴー・ エイミ」と宣言される、共にいます神なるお方が、私たちを守り、救い給う のです。
私たちは単にキリストの真似をするように召されているのではありません。 やがて弟子たちは、それぞれ父より与えられた杯を飲むことになります。し かし、それは単にキリストに倣ったのではありません。「エゴー・エイミ」 と言われる方が共におられるゆえに、成し得たことなのです。それは私たち も同じです。「エゴー・エイミ。恐れるな」と言ってくださるお方がおられ る。このお方によって私たちは、悪魔の力に対して最終的な勝利を得ること ができるのです。