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「ただ主の御業によって」

2005年3月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書19章17節~30節

           

自ら十字架を背負い

 17節を御覧ください。「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこ うべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」(17節) と書かれています。

 「自ら十字架を背負い」です。「十字架を背負わされた」ではありません。主 は自ら十字架を背負われたのです。そこには主イエスの意志があります。父なる 神の御心を実現しようとする意志があります。主イエスは、父なる神の御心に従 い、罪を取り除く神の小羊となるために、あえて十字架を背負われたのです。私 たちの罪を贖うために、十字架を背負われたのです。私たちの罪を背負われたの です。

 しかも、ここには明らかに一つの省略があります。他の福音書がそろって伝え ている一つの出来事が省かれているのです。キレネ人シモンが十字架を背負わさ れたという出来事です(マルコ15・21及び並行記事)。確かに、事実として は、途中からキレネ人シモンが十字架を背負ったのかもしれません。しかし、そ れは罪の贖いの御業に人間が協力したということではありません。だからヨハネ は省いたのです。あくまでも罪の贖いの御業は、キリストが《独りで》成し遂げ られたことを強調するためです。主は人の助けなしに、救いの御業を成し遂げら れたのです。

 このようにヨハネが「イエスは、自ら十字架を背負い」と書き記し、あえてキ レネ人シモンを省いたことを、しっかりと心に留めねばなりません。救いは百パー セントキリストの御業によるのです。そこに人間が何かを付け加える余地などあ りません。人はただ主イエスが十字架の上で成し遂げてくださった罪の贖いのゆ えに救われるのです。人はただ、キリストが成し遂げてくださったことを、感謝 して受け取ることしかできないのです。罪の赦しを信じて、受け取ることしかで きないのです。そして、それで良いのです。人はただそれだけで、ただ主が成し 遂げてくださったことによって、神との交わりに入れられ、永遠の命にあずかる のです。

 「そんな虫のよい話しがあるか。」――伝道者として、今まで幾たびそのよう な言葉を耳にしてきたことでしょう。確かに、努力して少しでも良い人間になっ たら神に受け入れられる。そういうメッセージなら分かり易いのかもしれません。 しかし、私たちはヨハネが描き出しているこの場面にしっかりと目を向けねばな りません。御覧ください。ここで人間は神の子の救いの御業に手を貸していない だけではありません。協力者でないというだけではありません。人間はむしろこ の場面において、自らの醜さをさらけ出しているだけなのです。その罪深さをさ らけだしているだけなのです。

 キリストが自ら背負った十字架にかかり、人間の罪を代わりに負って自分の命 を注ぎ出そうとしておられたとき、人間はその足もとで何をしているでしょう。 主イエスが着ておられた服を分け合っているのです。キリストが苦しんでおられ たとき、人間は何が自分にとって得であるか損であるか、そんなことばかりを考 えているのです。下着は分けることができないので、くじ引きをしていたのです。 人を愛し、そのために自分の命を与え尽くそうとしておられたキリストの姿と、 その足もとで下着を取り合っている浅ましい人間の姿――何というコントラスト でしょう。

 しかしこれが人間の現実ではありませんか。人間の罪はあからさまな敵対心や 憎しみにおいてのみ現れるのではありません。むしろ愛に気づかないところにこ そあるのです。どんなに愛されているかも分からずに、「ああ私は損をした」 「ああ私は得をした」というようなことばかり考えている。そこに私たちの最も 醜い姿があるのではありませんか。自分の醜い姿にさえ気づかず、少々努力した ぐらいで救われるかのように考えている、そんな傲慢な私たちのために、そんな 私たちであるゆえに、キリストは自ら十字架を背負われ、自ら十字架にかかられ たのです。たった独りで、罪の贖いの御業を成し遂げてくださったのです。

わたしは渇く

 私たちは、そのようなイエス・キリストの十字架上の姿に目を向けましょう。 その御声に耳を傾けましょう。主は何と言っておられますか。主イエスは十字架 の上で「渇く」と言われました。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し 遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」 (28節)。

 この御言葉を読みますときに、私たちは以前お読みしました主イエスの言葉を 思い起こします。主イエスがここで言われた「渇く」という言葉を、かつて主は 別な場面で用いられました。サマリア地方を旅された時に、そこで出会った一人 の女性に語られたのです。主イエスはその人に井戸のそばで出会い、その井戸の 水から説き起こされ、こう言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその 人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4・13‐14)。

 主はその人の内に、命の渇きを見ていたのです。人が永遠の命の源である神か ら離れているなら、どんなにこの世の水を求めても、根元的な渇き、命の渇きを 経験せざるを得ないのです。それゆえに、渇くことのない永遠の命に至る水のこ とを語られたのです。神との交わりによる水、神から来て泉のようにわき上がる 永遠の命の水、それを主は与えようとしておられたのです。

 しかし、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と断言された方が、 ここで「私は渇いている」と言っているのです。その前には、「すべてのことが 今や成し遂げられたのを知り」と書かれています。つまり、成し遂げられるべき ことは、主イエス御自身が「渇く」ことによって、初めて成し遂げられることな のです。私たちが罪を赦され、神との交わりによる命の水によって生きるために は、キリストが自ら神の裁きを受け、命の源から切り離され、命の渇きに苦しま なくてはならなかったのです。

 そして、主イエスはこう叫ばれたのでした。「成し遂げられた!」そうです、 キリストは、たった独りですべてを成し遂げてくださいました。キリストは自ら 渇くことによって、私たちの救いを成し遂げてくださったのです。人間は何の協 力もしていません。すべてはキリストの御業でした。罪の赦しとはそういうもの です。永遠の命とはそういうものです。それは人間の努力によって獲得すべきも のではなく、ただ感謝して受け取るべきものです。ただ、信じて受け取って、そ の命によって生きるのです。

互いに愛し合いなさい

 このように、キリストの救いの御業に付け加えるべき人間の行いなど何もあり ません。しかし、人間の為すべきことが何も残されていないわけではありません。 救われるためではなく、別な意味において残されているのです。私たちは、十字 架の上におけるキリストの言葉から、それを知ることができます。25節から2 7節に書かれている一つのエピソードを私たちは読み飛ばしてしまいました。今 一度、そこに戻りたいと思います。

 「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダ ラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、 母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言 われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母 を自分の家に引き取った」(25‐27節)。

 キリストが救いの御業を完成しようとしていたその時、その十字架のもとには 四人の婦人たちがいました。また、その婦人たちと共に、一人の弟子が立ってい ました。彼はただそこにいるだけです。何もできないのです。ただ主イエスの十 字架のもとに立ちつくすだけです。

 しかし、その弟子が「愛する弟子」と呼ばれているのです。「愛する弟子」と は、「イエスが愛しておられた弟子」という意味です。その弟子は福音書を記し た人物、ヨハネです。ヨハネはその「愛する弟子」というこの呼び名を、よりに よって自分自身について用いているのです。しかも、主イエスの苦しみを前にし て、ただ立ちつくすことしかできない、そんな自分自身について用いているので す。彼は知っているのです。何も出来ずにいた私は、それでも主に愛されていた、 そして今も主に愛されている弟子なのだ、と。

 そして、その「愛する弟子」に(「愛する弟子」であるゆえに!)、十字架の 上から主イエスがこう語られるのです。「見なさい。あなたの母です」と。これ を単に、「私の母親の世話をしてくれ。よろしく」と言っているように、理解し てはなりません。そんなことを伝えるために、ヨハネはこれを書き記したのでは ないのです。あの主イエスの言葉は、この愛する弟子にとっても、いや後の私た ちにとっても、大きな意味を持つ言葉だったのです。ここに私たちが見るのは、 新しい家族が作られているという事実です。主イエスが十字架の上から、「婦人 よ、御覧なさい。あなたの子です」と言い、「見なさい。あなたの母です」と言 われたから、彼らは新しい家族となったのです。

 これはまさに教会の姿を表していると言えるでしょう。皆さん、ここには主イ エスの御苦しみに指一本触れることのできない私たちがいます。そんな私たち、 何もできない私たちが、ただ十字架のもとにたたずんでおります。しかし、そん な私たちが主に愛されているのです。主イエスは愛する私たちに、十字架の上か ら語っておられるのです。「見なさい、あなたの子です」「見なさい、あなたの 母です」と。

 そのように、十字架の上からの御声によって新しい家族とされているのが私た ちです。それが教会なのです。ただ単にお互いが好きだから、気が合うから、こ こに集まっているのではありません。私たちは、主イエスによって集められ、新 しい家族とされ、「互いに愛し合いなさい」という主イエスの御言葉を受け止め て生きるのです。それは私たちが救われるためではありません。救われるために、 私たちが付け加えるべきことなど、何もありません。ただ主イエスが成し遂げて くださった救いにあずかっている者として、主イエスによって愛されている者と して、愛し合い、赦し合い、受け入れ合って生きるのです。それこそが、十字架 のもとにある私たちの為すべきことなのです。

 
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