「先に神の国に入る人」
2005年9月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 21:23‐32
●権威についての問答
今日の聖書箇所は次のように始まります。「イエスが神殿の境内に 入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言っ た。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を 与えたのか』」(23節)。彼らがそのような難癖をつけてきたのは、 その前日にひと騒動あったからです。それは12節以下に記されてい ます。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをし ていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒され た。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家 と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣に している」(12‐13節)。
神殿の境内で両替したり、動物を売っていた人は、何も無断で商売 していたわけではありません。きちんと神殿当局の許可を得て行って いたのです。ところが、イエス様はそのような商売人たちを境内から 追い出してしまいました。しかも、彼らを追い出した神殿の境内で、 自ら人々を教えていたのです。そのようなことをすれば、当然、問わ れることになるでしょう。「誰がそんな権威をオマエに与えたのか」 と。ここに書かれているのは、そのような場面です。
この問いに対するイエス様の答えは明らかです。「何の権威で」― ―神の権威によってです。「だれがその権威を与えたのか」――神が 与えたのです。しかし、イエス様は直接彼らの質問には答えませんで した。逆に彼らに問い返されたのです。「では、わたしも一つ尋ねる。 それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、 あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天か らのものか、それとも、人からのものか」(24‐25節)。
「ヨハネの洗礼」については、この福音書の3章に記されています。 イエス様が公の働きを開始される前、洗礼者ヨハネという人物によっ て開始され、一世を風靡した洗礼運動を指して言っているのです。洗 礼そのものは、ヨハネが始めたものではありません。既にユダヤ人の 世界には改宗者の洗礼というものがありました。異教徒がユダヤ教に 改宗する時に、潔めの洗礼を受けたのです。しかし、洗礼者ヨハネは、 「悔い改めよ。天の国は近づいた」という呼びかけと共に、この洗礼 をユダヤ人にも授け始めたのです。そこにヨハネの運動の新しさがあ りました。要するに、異邦人であろうがユダヤ人であろうが皆等しく、 神に立ち帰り、赦しを求めるべき罪人として扱ったのです。そして、 このヨハネのメッセージは多くの人々の心を揺さぶりました。ヨハネ の言葉を受け入れた人々はユダヤの荒れ野にいるヨハネのもとに来て、 自らの罪を言い表し、赦しを求め、洗礼を受け、新しく生き始めたの です。
しかし、皆が皆ヨハネのもとに行ったわけではありません。行かな かった人も当然おりました。ここに出てくる「祭司長や民の長老た ち」はその代表です。彼らは上に立つ人々です。宗教的な権威を有す る者として人々を教え諭してきた人たちです。正しく生きるように指 導してきた人たちです。彼らは、自分が罪人であることを認めてヨハ ネのもとに行こうとはしなかった――分かるような気がしませんか。 イエス様は彼らがヨハネのメッセージを受け入れなかったことを知っ てしました。ですからこう問うたのです。「ヨハネの洗礼はどこから のものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と。
彼らは論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、 なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのも のだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているか ら」(25‐26節)。答えに窮した彼らは、「分からない」と答え るしかありませんでした。するとイエス様は言いました。「それなら、 何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。
見事です。イエス様の一本勝ちです。恐らく彼らは、イエス様が 「神からの権威だ」とでも言おうものなら、直ちに「神を冒涜した」 と言って逮捕するつもりだったのでしょう。そのような彼らの悪巧み をイエス様はもののみごとに退けたのです。
しかし、彼らの質問をはぐらかして退けるだけならば、これで対話 は打ち切ってよかったはずです。ところがイエス様は彼らを手放しま せんでした。むしろイエス様のほうからさらに彼らに問いかけたので す。「ところで、あなたたちはどう思うか」と。そして、二人の息子 のたとえを語られたのです。私たちはこのたとえ話に耳を傾けた上で、 再び最初のやり取りに帰ってくることにいたしましょう。
●二人の息子のたとえ
28節以下をもう一度お読みします。「ところで、あなたたちはど う思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子 よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやで す』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、 同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出 かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにした か」(28‐31節)。
話は至って単純です。しかし、単純な話ほど注意が必要です。簡単 に分かったつもりになってしまうからです。これだけを聞きますと、 「口先だけではだめなのだ。行動が伴わなくてはならないのだ。そし て、行動こそが重要なのだ」という教訓話になってしまいます。もし かしたら、彼らはそのように聞いていたかもしれません。だから「ど ちらが父親の望みどおりにしたか」という問いかけに、すぐさま「兄 の方です」と答えたのでしょう。実際、彼らは行動こそが大事だと考 えていたのです。神の言いつけ通り、律法をキチンと守って生きるこ とが大事だと考えていたのです。ですから、律法を守らない徴税人や 娼婦たち、罪人たちを見下していたのです。自分たちのように、神の 望みどおりのことを行い、正しく生きている者こそが、神の国に入る のだと信じて疑わなかったのです。
ところがイエス様が続けて語られたことは、まさにそのような彼ら にとって、びっくり仰天するような言葉でありました。「彼らが『兄 の方です』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴 税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」 (31節)。つまりイエス様は、先ほどのたとえ話で、「お父さん、 承知しました」と答えたけれど、出かけなかった弟の方が「祭司長や 民の長老たち」だと言っているのです。そして、「いやです」と答え たけれど、後で考え直して出かけた兄の方が「徴税人や娼婦たち」だ と言っているのです。
そんな馬鹿な!彼らはきっとそう思ったに違いありません。しかし、 イエス様は次のように、その理由を説明されました。「はっきり言っ ておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入る だろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは 彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを 見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(31‐32 節)。
つまり問題は、何が父の望んでいることなのか、何が父の御心なの か、ということなのです。神は洗礼者ヨハネを遣わして義の道を示し ました。父が望んでいたのは、洗礼者ヨハネを信じ、その義の道に従 うことだったのです。その「義の道」とは何でしょう。それは自分が 罪人であることを認め、神に立ち帰り、赦しを求めることなのです。 それこそがメシアを迎えるための準備なのであり、救いに至る義の道 なのです。
徴税人や娼婦たちは、自分が罪人であることを認め、罪の赦しを願 い求め、洗礼を受けました。彼らはそれまで、父に向かって「いやで す」と言ったあの兄のような生き方をしてきた人です。しかし、最終 的に「父の望みどおり」のことをしたのです。
一方、祭司長や民の長老たちは、この世的に見れば、いわゆる「良 い子」です。「お父さん、承知しました」とすぐさま答えるあの弟の ような「良い子」です。しかし、父の望みどおりのことはしなかった。 ヨハネを通して与えられた呼びかけに応えようとはしなかったのです。 自分が悔い改めねばならない罪人であるとは認めなかったのです。い や、もしかしたら心の内では自分の真実な姿を認めていた人がいたか も知れません。しかし、結局はそれを公に現そうとはしませんでした。 真に神と共に生きることよりも、世間体や体面の方が大事だったとい うことです。彼らは良い子でしたが、「父の望みどおり」のことをし ませんでした。
だから主は言われたのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたた ちより先に神の国に入るだろう」と。すなわち、徴税人や娼婦たちの 方が、先にメシア・キリストに出会うのです。先に罪の赦しに与るの です。神の恵みに与るのです。先に神と共に生き始めるのです。先に 救いに与るのです。先に神の国に入るのです。
●再び権威の問答に戻って
こうして見ますと、あの権威の問答において、なぜイエス様が洗礼 者ヨハネに言及したかが見えてまいります。それはただ単に、「何の 権威でこのようなことをしているのか」という問いに直接答えること を回避するためではないのです。先にも申しましたように、もしそう ならば、この二人の息子のたとえは不要なのです。イエス様が洗礼者 ヨハネのことを持ち出したのは、イエス様に与えられている権威が何 であるかを示すためです。それは罪の赦しと分かち難く結びついてい るのです。神がキリストに与えた権威は、罪の赦しを与えることので きる権威なのです。
そのことを良く示しているのが、この福音書の9章に出てくる物語 です。主は御自分のもとに連れてこられた中風の人に、「子よ、元気 を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)と言われたのです。 これを聞いた律法学者は「この男は神を冒涜している」と思いました。 罪の赦しを宣言するということは、自らを神と等しいものとすること に他ならなかったからです。しかし、主はそのような彼らの心を見抜 いてこう言われたのです。「人の子が地上で罪を赦す権威を持ってい ることを知らせよう」(9:6)。そして、中風の人を癒されたので した。
このように、神がキリストに与えた権威、それは最終的には罪の赦 しをもたらすための権威なのです。罪の赦しの宣言は、権威の裏付け がなければ、単なる気休めの言葉でしかありません。気休めの言葉に よって罪責感は取り除くことができるかもしれません。しかし、気休 めの言葉によって、罪責そのものが取り除かれることはありません。 罪は残るのです。罪責そのものが取り除かれるのは、神の権威によっ て宣言される罪の赦しによってなのです。
キリストを信じるということは、罪の赦しを与えることのできるキ リストの権威のもとに身を置くことに他なりません。それができるの は、自分が罪人であり、罪の負債を背負っていることを知っている人 だけです。罪人であることを認めて、罪の赦しを求める者だけなので す。ヨハネの示した義の道を受け入れる者だけなのです。
だからイエス様は彼らに問うたのです。「ヨハネの洗礼は、天から のものか、それとも、人からのものか」と。ヨハネの示した義の道を 退ける者に対して、神の権威を語っても意味がないからです。だから 彼らに対して、「何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言 うまい」と主は言われたのです。
しかし、それはイエス様が彼らを見捨ててしまわれたということで はありませんでした。本当ならば、それで対話を打ち切ってよかった のです。しかし、イエス様はそうなさらなかった。あくまでも語り掛 けられたのです。二人の息子のたとえを語られたのです。これはイエ ス様の最後の呼びかけだったのです。なぜなら既にキリストはエルサ レムにおける最後の一週間に入っているからです。「あなたたちはそ れを見ても、後で考え直して彼を信じようとはしなかった」――これ は裏を返せば、今からでも考え直して、ヨハネの示した義の道を受け 入れ、キリストの権威のもとに身を置くようにとの呼びかけに他なら ないのです。
「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろ う」と主は言われました。――そうです、確かに彼らの方が先でしょ う。しかし、後からでも良いのです。「私は正しい。私はこれで良い のだ」と言い張らないで、自分が赦しを必要としている罪人であるこ とを認め、罪を赦すことのできる御方のもとに身を置き、そして神の 国に入るべきなのです。それが父の望んでおられたことだったのです。 そして、その父の望みは、今日もなお変わりません。父は今日の私た ちにも語っておられるのです。「子よ、今日、ぶどう園へ行きなさい。 今日、父の望んでいることを行いなさい」と。