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「悔い改めへの呼びかけ」

2007年10月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 21:33‐46

ぶどう園の主人と農夫

 今日お読みしましたイエス様のたとえ話は次のような言葉で始まってい ます。「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を 巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸し て旅に出た」(33節)。

 「もう一つのたとえを聞きなさい」と言っています ように、これは前の話からの続きです。場面は神殿の境内です。イエス様がそこ で教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄ってきて、「何の権威でこの ようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と難癖をつけてきた のです。45節では「祭司長たちやファリサイ派の人々」となっています。その ように、今日お読みしましたたとえ話は、ユダヤ人の指導者たちに話しているの です。

 彼らはこのたとえを聞いて、「イエスが自分たちのことを言っておられ る」と気づいたと書かれています。ですので、このたとえに出てくる「農夫」は、 祭司長やファリサイ派の人々など、イスラエルの指導者たちを指していると見て 良いでしょう。そうしますと、「主人」は神、ぶどう園はイスラエルということ になります。

 ぶどう園の主人は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」と書か れています。当然のことながら、農夫たちはぶどう園の管理を託されたのであり、 ぶどう園を与えられたわけではありません。与えられたのは、ぶどう園における 務めです。しかし、このたとえにおいて、農夫はあたかもぶどう園の所有者であ るかのように振る舞うのです。

 祭司長たちが察したように、イエス様は明らか に彼らのことを話しているのです。つまり、この話と同じことがイスラエルにお いても起こっている、とイエス様は言っておられるのです。祭司長やファリサイ 派の人々は、民の上に立っている人々です。そのように彼らが指導的な立場にい るのは、神が彼らをイスラエルの指導者としたからです。神は彼らにイスラエル のおける務めを与えたのであって、イスラエルそのものを与えたわけではありま せんでした。しかし、彼らはあたかもイスラエルの所有者であるかのように振る 舞っていたのです。

 要するに、イエス様が鋭く見抜いていた彼らの問題は、要 するに農夫が農夫であることを弁えなくなった、ということでした。言い換える ならば、主人と農夫の関係が狂ってきたということです。まことの主人なる神と の関係が狂ってきたのです。

 しかし、そのようなことが起こっているのは、た だイエス様の時代のイスラエルにおいてだけではありません。私たちは他人事の ように考えてはなりません。イスラエルの民の姿はこの世界の縮図です。そこに は私たちもまた含まれているのです。

 この世界の主人は神様です。人間がこの 世界を造ったのではありません。「ぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り 場を掘り、見張りのやぐらを立て」たのは、ぶどう園の主人なのです。しかし、 この世界において、人間はあたかも被造物世界の所有者であるかのように振る舞っ ています。この世界を自分たちが造ったかのように振る舞っているのです。 も ちろん、それで困ったことが起これば、立ち止まって考えることはあるでしょう。 環境問題がある。核の問題がある。なんとか解決せねばと考えます。しかし、そ のようにこの世界の様々な問題に取り組むにしても、結局は「この世界の所有者で ある人間が困ることになるから」ということしか考えられていないのです。だから 決して本質的な事柄は解決しないのです。本当の問題は、主人と農夫の関係が狂っ ていることにあるからです。

 それは小さな個人の人生においても同じです。私 たちは往々にして、自分が人生の所有者であり、主人であるような顔をして生きて いるものです。将来を考えるにしても、「《わたしの人生》をわたしはどうしたら 充実した意味あるものにできるか」ということしか考えません。親子の関係にして もそうです。親に与えられているのは、子供そのものではなく、子供を育てる務め なのです。しかし、親はあたかも所有者であるかのように振る舞います。「わたし の子、わたしの子」と言って。そして問題が生じてくれば、やっきになって原因探 しを始めます。しかし、本当の問題は主人と農夫の関係が狂っているところにある のです。あらゆる不幸の根っこには、この根本的な問題があるのです。

僕たちを 遣わす主人

 さて、たとえ話は次のように続きます。「さて、収穫の時が近づい たとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農 夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打 ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わ せた」(34-35節)。

 ここに出てくる「僕たち」は、旧約聖書に繰り返し 登場してきます預言者です。これを聞いている祭司長たちにとっては、洗礼者ヨ ハネがそれに当たります。預言者というのは、単に未来を予告する人ではありま せん。日本語では「言葉を預かる者」と書くように、彼らは神の言葉を託されて 伝える人たちです。神はイスラエルの民に繰り返し預言者を遣わされました。立 ち帰るようにと、繰り返し呼びかけられたのです。いわばぶどう園の所有者のよ うにではなく、農夫として生きるようにと呼びかけられたのです。そのように本 来の関係に立ち帰るように呼びかけられたのです。

 この主人の行動を理解する 上で、40節の言葉は重要です。イエス様が「ぶどう園の主人が帰って来たら、 この農夫たちをどうするだろうか」と問うと、聞いていた祭司長たちはこう答え ました。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収 穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」。つまり聴いている祭司長たち も理解していたように、これが話の前提なのです。主人は農夫たちを直ちに全滅 させることもできる。そのような力を持っている、ということです。そのことを 考えるなら、主人が繰り返し「僕たち」を遣わしたということは、まことに驚く べきことだと言わざるを得ません。農夫たちは遣わされた僕たちを袋だたきにし、 殺してしまうのです。そのようなことが起こったのです。にもかかわらず、主人 は滅ぼすことのできる力をもって事柄を解決しようとはしませんでした。あくま でも忍耐強い呼びかけによって、解決しようとしたのです。

 一方、農夫は再び 遣わされた僕たちを同じ目に遭わせます。主人の呼びかけに対して、聞く耳のを 持たなかったということです。そのようなことがイスラエルに事実として起こり ました。そして、同じことがこの世界にも起こっています。先ほど、「問題は主 人と農夫の関係が狂っているところにある」と申しました。しかし、さらに一歩 進んで、こう言うことができるかもしれません。「本当の問題は、狂った関係を 直そうとしない頑なさにある」と。

息子を送る主人

 そこでたとえ話はさらに驚 くべき展開を見せることになります。このように書かれています。「そこで最後 に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送っ た。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、 彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外に ほうり出して殺してしまった」(38-39節)。「わたしの息子」がイエス・キ リストを指していることは明らかです。イエス様は御自分のことを語っておられ るのです。

 しかし、それにしても、この主人の行動は愚かであると言わざるを 得ないでしょう。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」ーーそれはあまりに も愚かです。しかし、このたとえに言い表されているように、神はあえて愚かに なられたのです。愛し難い者を愛するということは、時として徹底的に愚かになる ことを意味するのです。

 もしこれが反対に、人が通常思い描くような、いわゆ る《賢い神》ならば、いったいどうなっていたでしょう。恐るべき神の裁きが既 に降っているに違いありません。しかし、神様はそうされなかった。「主人は自 分の息子を送った」ーーそう書かれています。そのように、神は御子であるイエ ス・キリストを送られたのです。

 どんなに愚かなことであったとしても、あえ て息子を送ったことによって、少なくとも主人の意思は決定的に表明されること になりました。第一に、力をもって滅ぼすことによって解決することを主人は望 んでいないこと。第二に、農夫が主人との本来の関係に立ち帰ることを望んでい ること。第三に、もし立ち帰るならば、主人に背いてきた罪を赦し、農夫として 受け入れようとしていること。ーーそれがこのたとえに表現されている神の意志 なのです。イエス・キリストという存在は、そのような意味において、この世界 に対する神の意志の決定的な表明であり、最後の語り掛けであったのです。

捨 てられた石は隅の親石に

 しかし、そのイエス・キリストは、エルサレムの外に あるゴルゴタの丘で、十字架にかけられ殺されてしまいました。「息子を捕まえ、 ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」というたとえ話が現実となったの です。イエス様がこの話をしているのは、その事が起こる数日前のことです。主 は御自分がどのような道を辿ることになるのかを知った上で、あえてこの話をし ておられたのです。

 そこで、主は祭司長たちに問われます。「さて、ぶどう園 の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と。祭司長たちは、 当然予想される結末を語ります。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶ どう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と。し かし、実際には、その「ぶどう園の主人」がすぐに帰ってきて、悪人たちを滅ぼ すという場面そのものは、このたとえ話には出て来ません。ここで彼らが言って いることは、現実には起こっていないのです。神の最終的な裁きは降ってはいな いのです。

 むしろ実際に起こった出来事は、イエス様が引用した詩編の言葉に 言い表されています。主は詩編118編の言葉を引用して言われました。「家を 建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、 わたしたちの目には不思議に見える」と。「家を建てる者の捨てた石」とはイエ ス・キリストのことです。イエス様は確かに人の手によって捨てられました。十 字架にかけられたということは、そういうことです。神の最後の呼びかけも無に 帰してしまったかのように見えます。しかし、それで終わりではありませんでし た。むしろ、そこから決定的に新しいことが始まったのです。捨てられたはずの 石は、新しい家の隅の親石となったのです。

 捨てられて十字架にかけられたイ エス・キリストが、私たちの罪を贖う犠牲となりました。そこから罪の赦しの福 音が、新たに宣べ伝えられるようになりました。教会が誕生しました。イエス・ キリストは、確かに教会の親石となりました。パウロが次のように書いていると おりです。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民 に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全 体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおい て、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」 (エフェソ2:20-22)。

 神はそのような形において、悔い改めへの呼び かけを継続されたのです。確かに、「神の国はあなたたちから取り上げられる」 と主は言われました。しかし、それはユダヤ人が神に見捨てられることを意味し ませんでした。事実、最初の教会は、主の呼びかけに応えて立ち帰ったユダヤ人 たちから成り立っていたのです。神はキリストを拒んだユダヤ人たちに呼びかけ、 今も恵みの内に招いておられるのです。そして、キリストを拒んできたこの世界 に呼びかけ、今も恵みの内に招いておられるのです。

(祈り)

 父なる神様、  あなたは繰り返し繰り返し、あなたのもとに立ち帰るようにと呼びかけてくださ います。不遜な私たちが、本来いるべきところに、あなたの主権の元に身を置い て生きられるように、絶えず働きかけてくださることを感謝いたします。あなた の慈愛と寛容のゆえに、私たちが今ここにいることを許されていますことを感謝 します。常にあなたに栄光をお返しして生きる者とならせてください。主イエス・ キリストの御名によって、アーメン。

 
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