「招かれる人、選ばれる人」
2005年10月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 22:1~14
イエス様のたとえ話には、私たちの常識から考えると、とても受け 入れられないような異常な話が少なくありません。今日お読みしまし たのも、思わず、「そんな馬鹿な!」と言いたくなるような話の一つ です。二千年ほど前に語られた言葉だからではありません。当時の人 もそう思っていたに違いないのです。しかし、イエス様があえてその ような話をされたのは、そこに伝えたいメッセージが込められている からなのでしょう。ですので、私たちもまた、常識的に受け入れがた い部分に、あえて目を向け、耳を傾けなくてはならないのです。
●異常な人々と異常な王
しかし、「受け入れがたい部分」と言います時、そこでは若干の注 意が必要です。「イエス様は人道的・道徳的なお話しをする方だ」と いう変な先入観を持っておりますと、本当に抵抗をおぼえるべき異常 な部分を見落としてしまうからです。
例えば、「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅 ぼし、その町を焼き払った」(7節)という残酷な言葉に抵抗を覚え る人がいます。あるいは13節の、「王は側近の者たちに言った。 『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめい て歯ぎしりするだろう』」という無慈悲な言葉に抵抗を覚える人がい ます。なんとなくイエス様のお話にそぐわないように感じるのでしょ う。
しかし、事の善し悪しは別として、この世の常識から言いますなら ば、この王のしていることは、決して《異常なこと》ではありません。 いくらでも起こり得ることです。私たちの間でさえ、自分が侮辱を受 けたら腹を立てるではありませんか。もし、どこかの国の専制君主が 同じような侮辱を受けたら、ここに書かれているようなことは当然起 こり得ることです。
では何が異常なのでしょう。この場面をよく見てみましょう。そこ にまず出てくるのは「招いておいた人々」(4節)です。彼らは王子 のための婚宴に招かれました。それは王にとっても王子にとっても大 きな意味を持つ宴でありました。王は人々をそこに招いて喜びを共に したいと願ったのです。当時の習慣に従い、王は当日改めて「招いて おいた人々」のもとに家来を遣わしました。しかし、なんと彼らは 「来ようとしなかった」のです。このようなことは、当時の世界にお いて、どう考えてもあり得ないことでありました。彼らは異常なほど に無礼な人々です。
しかし、ここにはさらに異常なことが書かれています。その後の王 の行動です。いったいどこの国王が、そのような無礼な人々に、なお も使いを送ったりするでしょうか。しかも、この王は家来を遣わすに 当たって、丁寧な招きの言葉まで用意するのです。「食事の用意が整 いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。 さあ、婚宴においでください」。これが王の言葉でしょうか。まさに ここには異常に親切で忍耐強い王の姿があるのです。
すると、人々はそれに対してさらに異常な行動を取ります。「人々 はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ」るのです。あた かも、王子の婚宴よりも、畑の野菜の方が大事であるかのようにです。 しかも、その後に驚くべき言葉が続きます。「また、他の人々は王の 家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」(6節)。そのような ことがいったいあり得るのでしょうか。
状況を考えるならば、王が怒ったこと自体、驚くに価することでは ありません。むしろそれは正常なことです。ところが王は、また異常 な行動に出るのです。王は家来たちにこう命じるのです。「婚宴の用 意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だか ら、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさ い」(8‐9節)
いくら婚宴の席が空いているからと言って、「見かけた者はだれで も連れてきなさい」は非常識でしょう。いや非常識なのは王だけでは ありません。家来たちも家来たちです。いくら王にそう言われたから と言って、「見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」は馬鹿げてい ます。せめて「善人」だけにすべきです。そのように、異常な王のも とには、輪をかけて異常な家来がいるのです。
そして最後に、最も異常な人物が登場します。そこに「婚礼の礼服 を着ていない者が一人いた」と書かれているのです。礼服を持ってい ない人もいたでしょう。しかし、この物語の流れとしては、全員が礼 服を着ていることが当然のことと考えられています。それゆえ、この 礼服は彼らの持ち物ではなくて、平等に婚礼の主催者側から提供され るものである、と古くから説明されてきました。いずれにせよ、ポイ ントは、彼が婚礼の礼服を着られなかったのではなくて、あえて着な かったところにあります。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入 って来たのか」という問いに対するこの人の沈黙から、そのことが分 かります。
考えて見てください。その人はもともと招かれてはいなかった人で した。特別な仕方で、彼は招待されたのです。本来はいなかったはず の者がお招きにあずかったのです。しかし、その人は、あたかも「来 てやったぞ」と言わんばかりに、王にも王子にも敬意を払うことなく、 普段着のままそこに座っていたのです。こんなことがあり得るでしょ うか。当時の誰が聴いても、「そんな失礼な人がいるものか」と言う に違いありません。何の先入観もなくこの物語を聴く人ならば、この 人が外にほうり出されたことは、極めて正常な結末です。
●異常さの意味すること
さて、この奇妙な物語はいったい何を意味しているのでしょうか。 そこで私たちは冒頭に戻り、主の言葉に即してご一緒に考えていきた いと思います。
主のたとえ話は次の言葉で始まります。「天の国は、ある王が王子 のために婚宴を催したのに似ている」(2節)。この物語は、天の国 のたとえです。天の国のたとえに王が出て来たら、それは間違いなく 神様のことです。神が人を招きます。婚宴へと招きます。婚宴は喜び を象徴しています。神はそのように、人間を大きな喜びへと招いてお られます。喜びに満ち溢れた神との永遠の交わりへと招いておられる のです。
そこでこの婚宴に招かれた人々の姿に注目してみましょう。そこに 見るのは、招かれていながら来ない人々です。うっかり忘れていたの ではありません。あえて来ようとしないのです。来ようとしない人々 は、二通りに描かれております。最初の人たちは、「無視した」人々 です。一人は畑に、一人は商売に出かけました。確かに畑仕事も大事 です。商売も大事でしょう。しかし、王の招待を無視してそちらに向 かうとしたら、それは明らかに異常な行動と言わざるを得ないでしょ う。
私たちはこれを聞いて、「私ならこんなことはしない」と言うかも 知れません。しかし、人間は神に対して、これと同じような異常なこ とをしているのだ、とイエス様は言われるのです。目の前のことに振 り回され、目に見える現実に踊らされ、本当に大事なこと、永遠の価 値を持つ事柄を後回しにしてしまうのです。そのようにして、確かに 目先の満足は得るかも知れませんが、神との交わりにある永遠の喜び は失ってしまうのです。
そして次の人たちは、あからさまに反抗する人々です。「他の人々 は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」(6節)。婚宴 への招きの言葉を持ってきた者を、何も殺すことはないではありませ んか。どうして憎む必要がありましょう。しかし、自分の上に王がい ることを好まない人は、王を愛することができません。王の招きを好 みません。自分が中心であることを望む人は、王子が中心である宴へ の招きを好みません。その場合、王のもとへの招き、祝宴への招きは、 むしろ憎しみを呼び起こします。まさに王の招待に対するこの理不尽 な異常なほどの敵意もまた、神に対する人間の姿であることを、イエ ス様は語っておられるのです。
しかし、この物語の中に語られているのは、そのような人間の罪深 さだけではありません。もう一つの主題があります。それは神の熱情 です。神の熱情が、この物語における王の異常な姿として描かれてい るのです。そこに語られているのは、それは何としてでも祝宴を実現 しようとする神の熱情なのです。
ここに書かれていることは、歴史の中において実際に起こったこと です。最初に招かれたのイスラエルの民です。神は彼らを招かれまし た。祝宴へと招かれました。しかし、彼らは来ようとしませんでした。 この来ようとしない招待客を、なおも神は招き続けられました。忍耐 をもって招き続けたのです。そのような神の姿が、旧約聖書に描き出 されています。神はイスラエルの民に、繰り返し預言者を遣わされま した。ちょうど王が家来たちを送ったようにです。預言者を通して、 神は語り続けました。
しかし、この神の呼びかけにもかかわらず、イスラエルは立ち帰り ませんでした。先に招かれていた人々は、呼びかけに応えようとはし ませんでした。ある人々は神の呼びかけを無視し、ある人々は預言者 を打ち殺しました。このたとえに語られているとおりです。しかし、 祝宴を実現しようとする神の熱情はとどまるところを知りませんでし た。神はあくまでも人との交わりを願われ、喜びを共にすることを願 われたのです。人間の拒絶や反抗は、この神の願いを挫折させること はできませんでした。王は叫びます。「見かけた者はだれでも婚宴に 連れて来なさい!」
そのように、神の招きの言葉はイスラエルの中に留まりませんでし た。ユダヤ人たちの反抗をもって終わってしまいませんでした。福音 は、王の号令と共に外に飛び出したのです。王の家来たちは、全世界 に向かって飛び出したのです。初代教会において、異邦人への伝道が 始まりました。こうして、王から遣わされた家来たちは、異邦人であ る私たちのもとにやってきました。王の家来たちは、驚いたことに善 人だけを集めませんでした。悪人まで集め始めたのです。そして、最 終的には、町の大通りをぶらぶらしていた悪人である私たちのもとに まで、招待の言葉が届けられたのです。
●礼服を着て
そこでこのたとえ話の結末が重要になってまいります。私たちに対 する招きは、特別な恵みによるものです。本来招かれるはずのない者 に対する招きなのです。ですから、私たちは王子の祝宴に列席できる ことを当然のことと考えてはならないのです。神との交わりに生きら れること、神と喜びを共にしながら生きられることを、当然のことの ように考えてはならないのです。あたかも「私は来てやったぞ」とい うような顔をして列席してはならないのです。
私たちは礼服を着て王の前に出るべきです。王も私たちが礼服を着 て御前に座ることを求めておられるのです。私たちの着るべき礼服と は何でしょうか。私たちの良い行いでしょうか。真面目で敬虔な生活 でしょうか。自分の善行を着て神の前に堂々と出られると言う人は、 それを着て行ったら良いでしょう。しかし、恐らく薄暗がりの中では 少々立派に見えていたものも、神の祝宴の明るいライトの下では染み だらけ皺だらけ、よれよれぼろぼろの古着のようなものでしかないに 違いありません。王の喜ばれる礼服――それは罪の染みのない、完全 なものでなくてはならないのです。私たちはそのような礼服を持って いません。ならばいただくしかないのです。その礼服は――イエス・ キリストです。
このたとえ話が語られたのは、イエス様が捕らえられ、十字架にか けられる数日前のことでした。このたとえ話は、十字架へと向かって いるイエス様が語られたのです。私たちの罪を贖い、私たちを神との 交わりの中に座らせるための、まことの礼服となるために、イエス様 は十字架へと向かわれたのです。礼服を着るように、この方と一つと なり、罪を赦していただき、義とされて、私たちは祝宴に列席するの です。キリストから離れ、自分のぼろを纏って座っていてはなりませ ん。自分勝手な仕方で王の前に出るならば、王は尋ねられることでし ょう。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」。そ の結末は、外の闇に他なりません。それゆえ主は言われるのです。 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。
さて、このたとえ話を最後まで読んできまして、「いったい選ばれ る人は誰なのか。選ばれていない人とは誰なのか」と、心の中で問答 している人は、まだこのたとえの中に自分の身を置いていない人です。 外から眺めている人です。このたとえの中に身を置く人ならば、十字 架に向かいつつあるイエス様の心の叫びが聞こえてくるはずです。主 は言われます、「あなたは神の招きを無にしてはならないのだ。あな たは暗闇の中にほうり出される人になってはならないのだ。わたしを 着て安心して祝宴に行きなさい。喜びに満ちた神との交わりに入りな さい。それが『選ばれる』ということなのだ」と。
(祈り)
父なる神様、 まことに招かれるに相応しくない私たちを、あなたは招いてくださ いました。あなたは私たちと喜びを共にしようと、招いてくださいま した。私たちは、キリストという礼服を与えられ、安心して御もとに 集います。これからも、そして永遠に、あなたとの命の交わりの中に 生かし続けてください。そして、あなたの喜びに与り続ける者となら せてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメ ン。