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「最も重要な掟」

2005年10月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 22:34~40

どの掟が最も重要でしょうか?

 今日の箇所の直前には、難問を携えてやってきたサドカイ派の人々に、イエス様が見事に答えて彼らの口を封じた顛末が描かれております。そのことがファリサイ派の人々の耳にも入りました。サドカイ派の人々が言い負かされて面目を失ったという知らせは、ある意味ではファリサイ派の人々にとって良いニュースでした。というのも、教理的な理由から、ファリサイ派とサドカイ派は対立していたからです。特に大きな争点として、復活の希望に関することがありました。サドカイ派は復活などないと言い、ファリサイ派は来るべき世における復活を信じていたのです。その復活に関してサドカイ派が言い負かされたというのですから、それはファリサイ派にとっては実に喜ばしいことでした。

 しかし、それはまた悪いニュースでもありました。いよいよ多くの群衆が熱狂的にイエスを支持するようになることは目に見えていたからです。彼らは危機感を募らせたに違いありません。このままではユダヤの指導者たちの権威も危ぶまれることになります。彼らは集まって相談しました。そして、一人の「律法の専門家」を代表に立て、律法に関する質問を掲げて真正面から「律法」に関して、イエスと対決することとなったのです。その質問とは、「律法の中で、どの掟が最も重要であるか」というものでした。これはユダヤ人の間において、しばしば議論されてきたテーマでした。

 わたしが時々訪れるインターネットのサイトに、"Six Thirteen dot Org"というユダヤ人のサイトがあります。Six Thirteen(613)というのは、律法における掟の数です。「~しなくてはならない」という命令が248。「~してはならない」という禁令が365。合わせて613になります。そのような多くの戒律の中で、「何が重要な戒めであるか」という問いは、それ自体決して単純ならぬ大問題であることが分かりますでしょう。その大問題をひっさげて、この種の議論に精通している「律法の専門家」がイエス様を試しにやってきたというのがこの場面です。

 ファリサイ派のナザレのイエスに対する敵意。事の発端はそもそも「律法」の問題にありました。イエス様は律法について余りにもリベラルな態度を取られたのです。律法を守らない連中と平気で一緒に食事をする。それどころか、自らも平気で律法に反することを行う。一緒に食事をしている徴税人や罪人たちが食事の前に清めの儀式を行わないだけではありません。イエスもその弟子たちも、一緒になって清めの儀式を行わないで食事をしていたのです。いや、それだけではありません。安息日の律法さえ守らないのです。労働を禁じられている安息日に、イエス様はあえて手の萎えた病気の人を癒されたことが書かれていました(12:9以下)。その出来事の直後に、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(12:14)と書かれているのです。そのように、安息日における癒しの行為が彼らの内に殺意すら生じさせたことが分かります。

 そのようなイエスに対して、彼らは律法の専門家を立てて、正面から律法に関する論争を挑みました。ナザレのイエスという人は、明らかに高名なラビの門下生ではありません。専門的な教育や訓練を受けたようにも見えません。律法学者から見れば、所詮は素人です。イエスや弟子たちの律法に対する態度が律法に関する無知から来ているものに過ぎないなら、その現実を群衆の面前で暴露してやればよい。ラビのような顔をして弟子を従えているイエスに恥をかかせてその化けの皮をはいでやれば、人々も目を覚ますだろう。そうすれば、律法の専門教育を受けた者の権威を人々は再確認し、本来の姿に立ち帰るに違いない。要するに、彼らの意図はそういうことでしょう。そこで律法の専門家は、律法のいわば中心的な大問題をイエスに突きつけたのです。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と。

神を愛し、隣人を愛しなさい

 その問いに対してイエス様はまず、次のように答えられました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」(37‐38節)。

 この答えは、ファリサイ派の人たちにとっても、ある程度予想されたものであったに違いありません。というのも、この言葉は成人したユダヤ人ならば、毎日必ず朝夕二回は唱えているはずの言葉だったからです。申命記6章5節からの引用です。

 「あなたの神である主を愛しなさい」。――神を愛するということは、ファリサイ派の人にとって、単に心情的な事柄ではありませんでした。それは具体的に、主が命じられたことを守るということを意味したのです。律法を守るということです。あの613の掟です。その場合、「あなたの神である主を愛しなさい」という掟は包括的な意味を持っていることになります。ファリサイ派の人たちは、そのように主を愛するために、主が命じられたことを現実の生活の中でどのように適用するのかを真剣に考えたのです。少なくとも、本来の意図はそこにあったのです。彼らはそのために律法を守り、またそうするように教えたのです。ですから、イエス様が「あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である」と言われるならば、当然、「ではなぜあなたは律法を守らないのか。神の掟を守らないのか。また守るように教えないのか」と追求するつもりでいたに違いありません。

 しかし、イエス様の答えには続きがありました。律法の専門家が「律法の中で、どの掟(単数)が最も重要でしょうか」尋ねたにもかかわらず、イエス様は「第二」の掟について語り始めたのです。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(39‐40節)。これはレビ記19章18節の引用です。イエス様はこれを引用し、しかもあえて「第二も、これと同じように」と言われたのです。つまり「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を不可分なものとして語られたということです。イエス様がこの二つを結びつけた最初の人であるかどうかは定かではありません。しかし、イエス様の言葉と行為は、まさにこの二つの結びつきを体現していたことは確かでしょう。安息日において手の萎えた人を癒したのは、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」が一つであることのデモンストレーションに他ならなかったのです。

 いずれにせよ、イエス様の言葉は、律法の専門家や周りにいたファリサイ派の人々の肺腑を鋭く突いたに違いありません。なぜなら彼らにとって、律法を守ることは必ずしも隣人を愛することと結びついてはいなかったからです。否、むしろ「自分は律法を守っている」という意識が強くなればなるほど、そこには他の人々を見下す思いや、律法遵守しない者に対する敵意や憎しみが生じてくるのです。事実、彼らは目の前にいるイエス様に対して殺意さえ抱いていたのです。そのような彼らに、イエス様はある意味で問い返しているのです。「それで本当に神を愛していることになるのか」と。

 「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)と聖書は教えます。ならば神の像(かたち)に造られた人間を愛することと神を愛することは無関係ではあり得ません。言われてみれば、イエス様が「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を結びつけたのは、至極当然のことでした。しかし、この当然のことがしばしば見失われます。それはファリサイ派の人々においてのみならず、後の教会においても起こったことでした。後にヨハネが手紙の中で次のように書いているとおりです。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(1ヨハネ4:20‐21)。そのように書かなくてはならない状況が教会の中にもあったということです。

 このように、イエス様が「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を「これと同じように」という言葉で結びつけたことは、今日の私たちにとっても大きな意味を持っていると言えるでしょう。讃美歌の中に「ああうれしわが身も」(529番)という歌があります。Fanny Crosbyの作った歌で、わたしの愛唱歌の一つです。しかし、その3節にある「われもなく、世もなく、ただ主のみいませり」という歌詞などは、確かにたいへん味わい深い訳詩なのですが、若干の注意も必要であるように思います。「われもなく、世もなく、ただ主のみいませり」。――そのような信仰生活を求める人は少なくありません。しかし、それが「信仰生活にはイエス様だけがいればよい。隣人との関係は煩わしいし、邪魔でしかない」という意味になってしまったら問題でしょう。そこに「われ」がいること。また共に「隣人」がいることもまた、とても大事なことなのです。

神に愛されている者として

 さて、このようにイエス様の答えられた言葉を巡って考えてまいりました。しかし、私たちが今日の聖書箇所から聞くべきことは、これだけではありません。実は今日の聖書箇所において、本当に重要なことは別にあるのです。この言葉が受難の直前のキリストの口から語られたということです。この言葉は、十字架へと向かっておられるキリストの言葉として聞かなくては、この言葉を聞いたことにはならないのです。

 先ほどヨハネの手紙の言葉をお読みしました。その手紙の同じ章に次のようなことが書かれております。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:9‐11)。

 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」――これが最も重要な掟です。確かにそうです。しかし、私たちが神を愛する愛が先にあるのではないのです。私たちは神を愛してなどいなかったのです。しかし、神を愛していなかった私たちを、神は愛してくださった。神を愛さないで、むしろ背を向けてきた私たちのために、そんな私たちの罪を赦してなお愛するために、愛し抜くために、御子を罪の償いの犠牲とされたのです。それがイエス・キリストの十字架刑という出来事です。私たちの愛が先にあるのではありません。神が私たちを愛してくださった――それゆえに、私たちは、神に愛されている者として、もう一度神に向かい、神を愛して生きるのです。神に愛されている者として、あの最も重要な掟をいただき、その掟に従う一歩を踏み出すことができるのです。

 そして先に見たように、神を愛して生きることは、隣人を愛して生きることをも意味します。ですからヨハネも、「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と言っているのです。そこで私たちはもう一つの事実を思い起こさねばなりません。御子なる神は、肉となられたのです。人間となられたのです。イエス・キリストにおいて、神は私たちの「隣人」となってくださったのです。神と人との間にある、想像を絶するほどに巨大な隔ての壁を乗り越えて、神が私たちの隣人となって、隣人として私たちを愛してくださったのです。

 「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を突きつけられた時、理屈を言うならば、あの律法の専門家には一つだけ逃げ道があったはずです。「我々は隣人は愛している。だがあの罪人たちは隣人ではない。お前も隣人ではない」と言おうと思えば言えたはずでしょう。そうです。私たちはそうやって、いくらでも《愛さない自分》を正当化することができるのです。憎んでいる理由を並べ立てて、「だからあいつは隣人などではない」と言うこともできるのです。

 しかし、神御自身が大きな隔ての壁を越えて私たちの隣人となってくださった事実を前にして、私たちが自分の周りに巡らしている隔ての壁はいったいどれほどの意味を持つのでしょう。それは本当に越えられないものなのでしょうか。神により隣人として愛していただいた者として、私たちはもう一つの掟の言葉もいただくのです。「隣人を自分のように愛しなさい」。神の隣人としていただいた者としてこの言葉を受け取ってこそ、この言葉に従う一歩を踏み出すことができるのです。

 
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