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「仕える者に」

2005年10月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 23:1~12

 高ぶっている人、自分を誇る人は、一般的に言いまして尊敬されることはありません。それはどこの世界にも言えることです。しかし、教会は特にその傾向が強いと言えるでしょう。イエス様は言われました。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11‐12節)。今日お読みした御言葉です。このような言葉が重んじられている場所において、この世的なもの――たとえば、この世における地位や自分の業績、自分の能力や影響力など――を誇らしげに語る人がいれば、その人はまず尊敬されることはありません。むしろ、そのようなことはとても恥ずかしいことと見なされます。それが教会というものです。

 しかし、教会がそのようなところであるゆえに、別の問題も起こり得ます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」確かにイエス様はそう言われました。しかし、身を低くして仕えている人が、心の中で、(こうしているわたしが実は一番偉いのだ)と呟いていたとしたらどうでしょう。何かおかしいと思いませんか。しかし、謙遜が重んじられる場所であるゆえに、現実には謙遜な振る舞いさえも、高ぶりの要因になり得るのです。また、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主は言われました。しかし、へりくだることが高められるための手段になってしまうということも起こり得ます。どうもこのようなイエス様の言葉は、語られた場面から切り離してはならないようです。

人に見せるため

 そこでまず1節から7節までをもう一度お読みしましょう。「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。『律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む』」(1‐7節)。

 イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々について、「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」と言われました。私たちにはどうも「ファリサイ派=偽善者」というイメージが定着しているので、このような言葉を聞いてもさほど驚くことはありません。しかし、そこにいた群衆は、非常に驚いたであろうと思われます。というのも、一般的な認識としては、ファリサイ派の人たちこそ、まさに《実行すること》に命を賭けている人々だったからです。神の戒めを《実行すること》にかけては、恐らくここに集まっている私たちの誰よりも真剣であり真面目であったに違いありません。そもそも、ファリサイ派の人々にとって、実行を伴わない聖書の研究など、全く意味を持たないのです。聖書の言葉は、現実に当てはめて実行してこそ意味がある。ですから、律法を生活に適用してきた昔の人の言い伝えを大切に守ってきたのです。そして、彼ら自身、どのように適用するかを真剣に考え、解釈を繰り返したのです。

 例えば、安息日の規定を考えればよく分かります。《実行すること》を重んじたからこそ、安息日にしてはならない労働とは何なのかを真剣に、39もの禁止条項を生み出したのです。その中には、収穫の禁止があり、医療行為の禁止もありました。考えてみれば、このような安息日の規定を実行しなかったのは、むしろイエス様と弟子たちの方ではなかったではありませんか。《実行すること》を大切にするファリサイ派であるからこそ、イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたことに腹を立てたのです。安息日にイエス様が手の萎えた人を癒されたことにも腹を立てたのです。ファリサイ派の人々からすれば、イエスと弟子たちこそ「実行しない」連中なのです。そんな掟破りの輩に「言うだけで実行しないから」などと言われたくないでしょう。そのような「実行すること」を重んじるファリサイ派であることを重々承知であったはずのイエス様が、なぜそのようなことを言われたのでしょうか。イエス様がどこに目を向けていたのでしょう。何を問題にしていたのでしょうか。

 そこで私たちの目に留まりますのは5節の言葉です。「そのすることは、すべて人に見せるためである」。人にしか関心が向いていない、ということは、神に正しく関心が向けられていないということです。具体的にはどういうことでしょうか。イエス様は次のような実例を挙げています。「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」。

 この「聖句の入った小箱」は、祈りの時に左腕と額につけるものです。出エジプト記13章16節などに「あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい」と書かれているのをそのまま実行していのです。衣服の房については、民数記15章38節以下に、「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」と書かれております。

 このように、聖句の入った小箱をつけることも、衣服の房をつけることも、もともとは神に従順に生きるためでありました。その本来的な意味は、エジプトから救い出し、恵みを現してくださった神を愛することにあったはずなのです。そうです、律法を守るということは、本来神を愛することであったはずなのです。

 実際、彼らが初めから、「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」人たちであったわけではないでしょう。その若き日、自らが付くべきラビを求め、弟子入りした時には、生涯神に従順に生きたいという純粋な願いがあったに違いありません。彼らが毎日唱えていたように、《心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、わたしの神である主を愛して生きていきたい》という、熱い思いがあったに違いありません。

 しかし、《実行すること》が問題となる世界に身を置いていると、何が起こってくるでしょう。神御自身よりも自分の行いにしか関心が向かなくなってくるのです。そして、その行いがどのように評価されているかにしか関心が向かなくなってくるのです。分かるような気がしませんか。そして、いつの間にか聖句の入った小箱を大きくしている。いつの間にか衣服の房を長くしている。敬虔さは人に見せるためのものになってしまうのです。そうこうしているうちに、「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」――そんなファリサイ派の「偉い人」が出来上がっていくのです。

 「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないから」。イエス様は表面的な意味での「実行」のことを言っているのではないのです。神の名を口にしながら、本当の意味で神に関心を向けてはいないし、神への愛も従順もそこにないことを言っているのです。

師は一人、父は一人、教師は一人

 さて、これは律法学者たちやファリサイ派の人々についてイエス様が語られたことです。しかし、既にお気づきのことと思いますが、これは私たちにとって他人事ではありません。同じことは、キリストの弟子たちにも、教会においても、ここにいる私たちにも、起こり得ることなのです。イエス様はそのことをご存じなのです。ですから、ここでさらに「だが、あなたがたは」と言って話を続けているのです。

 「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」(8‐10節)。

 「先生」と訳されているのは、「ラビ」という言葉です。あなたがたは「ラビ」と呼ばれてはならない、と主は言われました。事実、その後の教会において「ラビ」という尊称が用いられることはありませんでした。あるいは、この日本語訳をそのまま受け取って、牧師や伝道師に対しても教会学校教師に対しても、絶対に「先生」という呼び名を使わない教会もあります。しかし、主が言っておられるのは、ただ呼び名だけの問題なのでしょうか。すると、その後の言葉はどうでしょう。肉親の父親をもはや「父」と呼んではいけないのでしょうか。カトリック教会の「神父様」についてはどうでしょう。ベネディクト十六世を 'Pope'と呼ぶことについてはどうでしょう。10節の「教師」という言葉は新約聖書にはここにしか使われていません。これは「指導者」とも訳せる言葉です。この呼び名も使うべきではないのでしょうか。

 このイエス様の言葉を、単に呼び名の是非を語っている言葉として聞くならば、大切なことを聞き逃してしまうように思います。ここで大切なことは、やはり先にファリサイ派の人々について語られたことと同じなのです。すなわち、どこに私たちの目が向けられるべきか、ということです。それは、父なる神であり、真の導き手なるキリストだということです。そのために、「あなたがたの師は一人だけ」、「あなたがたの父は天の父おひとり」、「あなたがたの教師はキリスト一人」と畳み掛けるように語られているのです。

 実際、もしここに書かれているような呼び名が用いられないとしても、関心が人にしか向けられていなければ、あのファリサイ派の人々と少しも変わらないのです。例えば、そこで人間の行為の是非しか話題にならない教会であるならば、同じことなのです。人間の偉大さ、立派さ、働きの大きさ、信仰の篤さ、清さや敬虔さ、そして謙遜さしか話題に上らないような教会であるならば、同じことなのです。そうです、そのような教会になってしまうなら、熱心だけれど神に関心のない牧師、良く働くけれど神に関心のない奉仕者が出てくるようになるのです。いつの間にか、皆が「聖句の入った小箱」を大きくしたり、衣服の房を長するような類のことを始めるようになるのです。

 さて、冒頭で触れました「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11‐12節)という言葉は、その直後に来るのです。それは既に述べられてきたことの延長として聞かれなくてはならないのです。もし、この2節だけをその前の言葉から独立させて、ただ「偉い人」「仕える者」「高ぶる者」「へりくだる者」という言葉だけに重点を置いて聞くならば、最初に申しましたように、それはこの世的なものを誇ることに対する単なる戒めになってしまうでしょう。あるいはもっとやっかいなことに、仕えること自体が偉い者と見なされる手段となり、へりくだること自体が高められるための手段となってしまうことでしょう。

 あなたがたの師は一人だけ、あなたがたの父は一人だけ、あなたがたの教師は一人だけ――この父に、この師に心が向かなくてはなりません。この父のことが、この師のことが話題にならなくてはならないのです。一人の父、一人の師に私たちが心を向けて生きる時に、初めて私たちは本来互いの間にあるべき関係を見出すことができるのです。そこで初めて、「皆、兄弟なのだ」という関係を見出すようになるのです。すなわち、牧師であれ、教会の役員であれ、様々な奉仕者であれ、それぞれの仕方で互いに仕え合う関係に生きられるようになるのです。そうです、私たちは父である神との正しい関わりにおいて、真に仕える者とされるのです。私たちを救うために最も低いところに自ら降られた方、十字架の死にまで降られたイエス・キリストが真に私たちの師となる時に、私たちは本当の意味でへりくだる者、仕える者とされるのです。

 
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