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「天国で一番偉い人?」

2005年11月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 18:1~5

 本日の礼拝において、私たちは幼児祝福式を行い、幼子らの上に神の祝福を祈り求めました。しかし、このことは単に子供たちだけに意味を持つのではありません。この幼子らの存在は、私たちに対して大事なことを指し示すしるしでもあるのです。今日お読みしました御言葉にあるとおりです。主が一人の子供を呼び寄せて弟子たちの前に立たせたのは、その子自身のためではなく、弟子たちのためでした。私たちは、主が幼子らを私たちの前に立たせて、《私たちに》語られる御言葉に耳を傾けなくてはなりません。主は私たちにこう言われるのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と。

子供のようにならなければ

 まず、このイエス様の言葉がどのような場面で語られたのかを見ておきましょう。1節を御覧ください。「その時、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った」(1節)。

 彼らが「天の国で」と言っていることに注意してください。彼らは明らかに、「《この世での偉さ》と《天の国での偉さ》とは違う」ということを前提として語っています。この弟子たちは、この世において偉大であると評価されることが、必ずしも神の御前において偉大であると評価されるとは限らないということを、よく知っているのです。そして、少なくとも彼らは、この世の人々から偉大な人と見なされることなど求めてはいないのです。あくまでも《天の国で》偉い人と見なされることを求めているのです。そのためにはどうしたら良いのかということを真剣に求めているのです。実に敬虔な真面目な質問ではありませんか。

 どうしてこのような弟子たちの質問が、福音書の中に書き残されているのでしょう。それは、この質問があの弟子たちの質問であるだけでなく、後の時代のキリスト者の質問でもあるからです。この弟子たちの姿には、後の教会の姿が重ね合わされているのです。教会には、敬虔な人々がいるのです。この世において偉大な者とされるよりも、天の国で偉大な者とされることを求めている人、人間によって評価されることよりも、神によって評価されることを求めている人々がいるのです。立派ではありませんか。今日のキリスト者もまた、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という問いを抱きます。それ自体は決して不真面目な問いではないのです。

 しかし、それにもかかわらず、イエス様はその問いを単純に喜ばれなかったのです。そこで一人の子供を呼び寄せて、こう言われたのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」――なんと驚くべきことに、心を入れ替えなければ、天の国で偉大な者とされないどころか、天の国に入ることさえできないと主は言われるのです。さあ、困りました。いったい心を入れ替えて子供のようになるとは、どのようなことを意味しているのでしょうか。

自分を低くして

 ここで「子供」と書かれているのは幼子のことです。マタイは東方の学者たちに見出された幼子イエスにこの言葉を用いています。ここで言われているのは、そのような幼子のようになることです。そこで主は「心を入れ替える」ことを求められたのでした。これはもともと「方向を変える」という意味です。方向を変えなくてはならないのは、間違った方向へと向かっているからです。要するに、私たちが考える「キリスト者らしさ」や「敬虔なキリスト者像」というものが、往々にして「幼子のようになること」とは正反対の方向へと向かっているということです。

 しかし、私たちはここで単純に「ああ、幼子のような清らかな心が欠ているのだな」と考えてはなりません。イエス様が考えているのは、子供の純真さや清らかな無邪気な心などではありません。主は何と言われたでしょう。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(4節)。このようにイエス様が考えているのは、子供の「低さ」なのです。

 子供がとても大事にされている少子化時代に生きる私たちには、子供の「低さ」ということは、あまりピンと来ないかもしれません。しかし、イエス様の生きておられた時代のユダヤ人社会においては、ともかく子供は一段も二段も「低い者」と見なされていたのです。無力な存在、弱い者、取るに足りない者、数に入らない者――それが子供でした。ですから、「立派な大人のようにならなければ、子供は天の国に入ることはできない」というのが常識だったのです。それをイエス様はひっくり返してしまわれた。「子供のようにならなければ」と言ったイエス様の言葉は、常識はずれの実に過激な発言だったのです。

 では「《自分を低くして》、子供のようになる」とはどういうことでしょうか。これはもちろん大人に対して語られている言葉です。明らかにそこでは大人と子供とが対比されております。子供は低く見られていたと言いました。それと同じように大人が扱われたらどうでしょう。一般的に言いまして、大人は低く見られることを好みはしないものです。無力な者、弱い者、小さい者、取るに足りない者と見られるなら、それはとても嫌なことだろうと思います。むしろ私たちは、力ある者、強い者、偉大な者として重んじられることを望みます。そのようなところから、「誰が偉いのか」という問いが生じてくるのです。しかし、一方、小さな幼子は違います。低い者と見られようが、無力な者と見なされようが、弱い者、小さい者、取るに足りない者と見なされようが、まったく意に介さないものです。幼子は「誰が偉いのか」という質問と無縁に生きているのです。「自分を低くして、子供のようになる」とはそういうことのようです。

 では幼子にとって、どうして「誰が偉いのか」という問いが無縁なのでしょう。どうして幼子にとって低い者と見られることが問題とならないのでしょうか。それは幼子にとってもっと大事なことが別にあるからです。偉大な者と見なされるよりもずっとずっと大事なことがあるのです。分かりますか。《親が共にいること》です。信頼できる者が共にいることです。幼子は無力であるゆえに、小さき者であるゆえに、親や信頼できる他者がいなければ生きていけないことを本能的に知っているのです。それゆえ、幼子は自分が重んじられようが軽んじられようが、それとは無関係に、無心で親を求めます。ただ親の手に自らをゆだねられればそれで十分なのです。そうです、幼子にとってはそれで十分なのです。

 弟子たちに欠けていたのは、その一点でした。彼らは先にも申しましたように、何も現世的な支配権や利益を求めているわけではありません。現世的な評価や称賛を求めているわけではありません。彼らが求めているのは、天の国に関わる事柄です。敬虔な求めです。しかし、彼らは、今行っていることと引き替えに、天の国において自分たちが何を得るか、どのようになるのか、ということにしか関心がありませんでした。問題はそこにありました。彼らの関心の中心は神の国において得る《何か》であって、神御自身ではなかったのです。誰が共にいてくださり、誰が治めてくださるのか、ということが最も重要なことではなかったのです。

 このことを良く理解しませんと、4節の主の言葉を誤解することになります。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と主は言われました。しかしこれは、「天の国においていちばん偉い者となる方法」を語っているのではありません。そのようにしか受け止めない人は、天の国において偉い者となるために一生懸命「自分を低く」することになるでしょう。「こうしている自分が本当はいちばん偉いのだ」と心の中で自分に言い聞かせながら、自分を低くすることになるのです。「たとえ人々はそう見なしてくれなくても、神はそう見てくださる。この世の価値基準と神の天の国の価値基準は違うのだ。こうして自分を低くしている私を、神は天の国において偉い者として見てくださる。」そう心の中でつぶやきながら自分を低くするようになるのです。それは外見的には敬虔なキリスト者の在り方に見えるかも知れません。しかし、そうすることにより、イエス様が言われた「子供のようになる」ということからは完全に違った方向に向かってしまうのです。

 私たちは、イエス様と共に立っている幼子に眼を向けなくてはなりません。そこには「いったいだれが偉いのか」という問いとは無関係な幼子がいます。そこには、何ものをも自分の功績に対する報いとして主張したり要求したりしない幼子が立っているのです。そこには、親がいれば十分であり、満足である幼子がいるのです。親さえいれば低く見なされようが、無力であると見なされようが、意に介さない幼子がいるのです。そのような幼子を指して、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われたのです。

 このように、「自分を低くして」とは、単に「謙遜になれ」ということではないのです。低き者は上を見上げるのです。力なき小さき者は、信頼の眼差しを力ある御方に向けるのです。まことの父に向けるのです。そうです、そのような神との信頼に満ちた関係のあるところこそ、天の国であるはずなのです。もはや上になろうとする必要のないところ、偉くなろうとする必要のないところ、それが天の国であるはずなのです。そのような天の国に入るとするならば、私たちは確かに方向を変えて、幼子のようにならなくてはならないのです。

子供を受け入れること

 そして、さらに主イエスはその子供を前にして、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(5節)と言われました。

 「子供のようになる」から、さらに「子供を受け入れる」という話に進みます。「子供を受け入れる」とはどういうことでしょうか。それが受け入れ易い者を受け入れることであるならば、主がわざわざ語られる必要もないでしょう。であるなら、これはむしろ受け入れ難い者を受け入れるという意味合いであるに違いありません。

 つまりここでイエス様は、幼子の「低さ」から別の諸要素に目を向けておられるのです。すなわち、幼子を受け入れることを困難にする諸要素です。例えば、幼子は手がかかります。時としてはやっかいな存在です。他の人にしばしば迷惑をかけます。幼子が他の人の重荷となることはあっても、他の人の重荷を担うことはありません。たいていは、その可愛らしい笑顔がこれらの諸要素を全てカバーします。しかし、幼子を「可愛い」と思わない人にとっては、そのよな諸要素を持つ幼子を受け入れることは、実に困難なことであろうと思います。そのような子供を立たせて、主は「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのです。

 さて、この後を読んでいきますと、どうもイエス様はここでただ目の前の一人の子供の話をしているのではなさそうです。というのも、その後に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」(6節)という話が続いているからです。要するにイエス様は、この「子供」に他のキリスト者を重ね合わせているのです。しかも、自分に対して良くしてくれる他のキリスト者ではなくて、自分にとって受け入れがたい人を指しているのです。ですので、15節には「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉が出てきます。さらには、21節で、ペトロが「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と問うております。話はそのような方向へと向かっているのです。

 「《天国における偉い人》選考会」に自分の名前をノミネートする人は、やっかいな小さな子供を受け入れることができません。やっかいな他の「小さな者」を受け入れることができません。自分を低くして幼子のようになる者だけが、他の幼子を受け入れることができるのです。自分が神の憐れみのもとにある小さな存在であることを知り、神の憐れみ向かって目を上げる者だけが、他者を神の憐れみのもとにある者として見ることができるのです。

 そして、主は、御名のために一人の子供を受け入れることが、主イエスを受け入れることに他ならないのだ、と言うのです。なぜなら、主御自身が低くなられて、子供の傍らに立たれたからです。そうです、十字架の死に至るまで低くなられて、受け入れ難いその人の傍らに立たれたからです。後のパウロは、このことを次のように表現しました。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(1コリント8・11)。このように、心を入れ替えて子供のようになるということは、必然的に、他の子供――他のキリスト者――を受け入れて共に生きることに繋がっているのです。

 
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