「心の目が開かれるように」
2005年11月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 1:15~23
絶えず感謝しています
本日の礼拝ではエフェソの信徒への手紙が読まれました。この手紙はパウロの獄中書簡と呼ばれるものの一つです。パウロが獄中から書き送った手紙であるということです。獄中にいるパウロにとって、教会の様子を知る唯一の手だては、パウロを訪ねてくる友人たちからの報告でした。エフェソを中心とする小アジアの教会の様子も、そのようにしてパウロに伝えられたようです。彼に届けられたのは、エフェソの人たちがしっかりと信仰に立ち、信仰に基づく愛に生きているという知らせでした。それは伝道者パウロにとって、この上ない大きな喜びであったに違いありません。
しかし、今日の聖書箇所を読みますと、パウロはエフェソに書き送る手紙において、単に彼らの信仰と愛とを喜んでいると書いてはおりません。彼は「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています」と言っているのです。もちろん「感謝している」とは「神に感謝している」という意味です。つまりパウロは、エフェソの信徒たちの信仰と愛の源である神御自身に思いを向けているということです。だからただ「喜び」ではなくて「感謝」なのです。
そのことは、今日お読みした15節が「こういうわけで」と書き始めていることにも通じます。「こういうわけで」という言葉は、その前の部分を受けているのです。そこには神への賛美の言葉が記されております。そこには父なる神、御子なる神キリスト、聖霊なる神の大いなる御業が語られ、誉め称えられているのです。天地創造以前からの神の計画から救いの御業の完成に至る、三位一体の神の壮大な御業が語られ、讃えられているのです。そして、「こういうわけで」――パウロは感謝しているのです。つまり、パウロはこの大きな神の恵みの御業の中に、エフェソの教会を見ているということです。彼らの信仰も彼らの愛も、神の御業の中において見ているのです。だから神に感謝しているのです。
まず神の御業が語られ、讃美されている。そのことを心に留めましょう。私たちの行いが先にあるのではないのです。私たちの信仰や愛が先にあるのではないのです。神の御計画と御業が先にあるのです。その御業のゆえに、今ここにも主を信じる群れがある。教会がある。共に主を礼拝する人々がいる。そのことを思う度に、「主よ、あなたに感謝します」と言える私たちでありたいと思います。素晴らしい信仰の人に触れる時、信仰から来る豊かな愛の現れに触れる時、思わず「ああ、主よ、感謝します」と口にできる、このパウロと同じ感覚を、私たちも身に着けたいと思うのです。
そして、実はそのことが、この17節以下に書かれている祈りの言葉を理解し、私たちの祈りの言葉とする上で、とても大事なことなのです。パウロは、信仰と愛が、神の大いなる御業に由来することを知っていました。ですから、パウロは信仰と愛だけでなく、希望もまた神から来ることを知っていたのです。そうです、皆さん。希望というものは神から来るのです。だからパウロは、エフェソの信徒たちのために、希望を祈り求めるのです。
いや、正確に言うと、既に希望は与えられているのです。その希望に対して目が開かれることを求めているのです。18節にあるように、「心の目を開いてくださるように」とパウロは祈るのです。見えるようになるためです。そこに書かれているように、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」が見えるようになるためです。
栄光の富
そこでパウロは、その希望について、まず次のように言い換えます。「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」(18節)。
「聖なる者たち」というのは、いわゆる特別な聖人のことではありません。パウロが「聖なる者たち」と言う時、彼は信仰者について語っているのです。ここで語られているのは、信仰者が「受け継ぐもの」です。それを言い換えると「神の国」となります。ですから以前の聖書協会訳では「聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか」と意訳されていました。「神の国」のことですから、これは《終末》に関する希望です。《今の世》の話ではなくて、《来るべき世》の話です。そのように、パウロが「希望」という時、まず念頭においていたのは、終わりに関する希望、来るべき世に関する希望、神の国に関する希望であることが分かります。
そして、「神の国」について語る時、彼が用いているのは「どれほど豊かな栄光に輝いているか」という表現でした。これは直訳すれば「栄光の富」という言葉です。「富」ですからそれは「豊か」なものです。そのように、パウロが終末について考える時、真っ先に頭に浮かんでくるのは、とてつもなく豊かなものが待っているというイメージだったのです。
今日は教会の暦においては、一年最後の主日に当たります。「終末主日」などと呼ばれます。文字通り「終わり」について考える日です。今日朗読された聖書箇所も、そのような日の御言葉として私たちに与えられているのです。さて皆さん、この世において、一般的に「終わり」と「豊かさ」は結びつきますか。結びつかないだろうと思うのです。人生の終わりに向かうことを考える時、一般的にそれは「失っていく」「衰えていく」というイメージしかありませんでしょう。衰えて、失って、何も無くなってしまう。それが一般的な死のイメージです。この世の終わりも同じです。最終的にはあらゆる秩序が崩壊し、破滅に至る。そのような終わりのイメージしか持ち得ないのではないでしょうか。ですから、人生の終わりにせよ、この世の終わりにせよ、それはまさに「豊かさ」の対極へと向かうこととしか考えられないものです。「この世において」と申しましたが、もしかしたら教会にいる私たちも、いつの間にかそのようなイメージをもって「終わり」を思い描いているかもしれません。実際、そうなりやすいのです。
しかし、そのような私たちに対して、「そうではないのだ」とパウロは言っているのです。そこにはとてつもなく豊かなものが待っているのだというのです。私たちはそこに向かっているのです。それは「《栄光の》富」です。「栄光」というのは、もちろん神の栄光のことです。17節に「栄光の源である御父(直訳では「栄光の父」)」と書かれている通りです。つまり、その豊かさは、栄光の神から来る豊かさだということです。神から受ける豊かさであり、神との交わりにおける豊かさなのです。
実は、信仰者であるならば、ある程度はこの豊かさを経験しているはずなのです。栄光に満ちた神との交わりにおける豊かさ、神を知ることの豊かさを経験しているはずなのです。そうではありませんか。神を礼拝し、神に祈り、神の言葉をいただき、神の愛に触れ、この世のものによって満たされるのとは全く異なる、神の豊かさによって満たされるということを、ある程度は経験しているはずです。それが信仰生活というものです。
しかし皆さん、私たちが今経験していることが全てであると思ってはなりません。いや実は、私たちが味わっていることなど、私たちが経験していることなど、本当はまだ極々一部に過ぎない、片鱗に過ぎないのです。私たちは、終わりの時へと、神の国へと向かっているのです。そこには、とてつもない豊かさが待っているのです。その栄光の富がどれほどのものか悟ることができるように、とパウロは祈っているのです。
信仰者に対して働く神の力
そのように、パウロが希望について語る時、そこで言及されているのは、まず終末に関する事柄でした。しかし、それで終わりではありません。さらにパウロは次のように祈りを続けます。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(19節)。つまり、パウロは終末の事柄だけでなく、その途上にある教会、この世におけるキリスト者の現実のことも考えているのです。
この世に生きる限り、私たちには戦いがあります。それは究極的には、この世の罪、そして私たち自身の罪との戦いです。その戦いにおいて、私たちが自分自身にのみ目を向けているなら、そこに希望はありません。自分の持てるものがすべてであるなら希望はありません。罪の力、死の力に打ち勝つ力は、人間の内にはないからです。必要な力は外から来なくてはならないのです。それは神から来なくてはなりません。
そして、それは来るのだとパウロは言っているのです。「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力」があるのです。「信仰者に対して」と書かれていますが、それは「信仰者の内に」という意味の言葉です。私たちの内に神の力が働くのです。その力について、パウロは次のように表現しています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(20-21節)。そのような力が私たちの内に働くのです。
私たちはここで、イエス・キリストの生涯を思い起こさねばなりません。神の愛の現れであるキリストを、人間は捕え、鞭打ち、十字架にかけて殺してしまいました。明らかに愛は敗北したのです。罪が勝ったのです。闇の力は光を呑み込んでしまいました。死は命を呑み込んでしまいました。それがキリストに起こったことでした。しかし、三日目に神はその現実を覆されたのです。愛は敗北したままではありませんでした。罪は最終的な勝利者ではありませんでした。死は打ち破られました。そのことを神自らが示されたのです。それがキリストの復活です。まさに神の力が、この大逆点勝利をもたらしたのです。
その力が――私たちの内に働くのです。罪の力によって崩れてしまった生活がありますか。修復しようがないほどに壊れてしまった関係がありますか。この世界に罪の破壊的な力が猛威を振るっているのを見ていますか。しかし、私たちは絶望する必要はないのです。かつてキリストにおいて大逆転の勝利をもたらされた御方は、その力を私たちの内に働かせて、大逆転を起こすことのできる御方だからです。教会の歴史は、この大逆点の証言に満ちています。そのような「私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」とパウロは祈っているのです。
心の目が開かれるように
そのように私たちは、来るべき世について、そしてこの世について、与えられている希望に対して心の目が開かれる必要があるのです。しかし、良く見ますと、パウロはただ単に「心の目が開かれますように」と祈っているのではありません。その前にこう言っています。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし」(17節)――そして、「心の目を開いてくださるように」と続くのです。そのように、希望に対して心の目が開かれるということは、「神を深く知る」ところから来るのです。
実は、少々細かいことを申しますが、原文には「神を」という言葉はないのです。ただ「彼を」と書いてあるだけです。もちろん「彼」とは神のことなのですからそれで良いのですが、単に「神」とすると意味が曖昧になってしまいます。ここで言われているのは、「わたしたちの主イエス・キリストの神」ということです。つまり「わたしたちの救いのためにイエス・キリストを与えてくださった神」であり、「イエス・キリストにおいて御自分を啓示された神」ということです。
その神については、既に3節以下に言葉を尽くして語られ、誉め称えられていました。私たちは今一度、パウロが「こういうわけで」と今日の聖書箇所を書き始めていたことを思い起こさねばなりません。すべては神が私たちのために為してくださったことによるのです。神の壮大な御計画とその御業の中に私たちはいるのです。そのことを深く知ることこそ、私たちがまた希望に対して目が開かれることに他ならないのです。その意味において神を知ることに、「これで分かった、これで卒業」ということはあり得ません。私たちはへりくだってひたすら知恵と啓示との霊を求め、神とその御業を知ることを求め、確かな希望に生きる者となることを求めていきたいと思います。