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「最後まで支えてくださる主」

2005年11月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙 Ⅰ 1:3~9

 本日はコリントの信徒への手紙をお読みしました。教会生活がある程度長くなりますと、この手紙も何回かは読むことになりますので、次第にそれほど驚かなくなりますが、初めて読む人にとりましては、これが教会に宛てた手紙だろうかと、驚きを禁じ得ないであろうと思います。それほどに多くの問題に言及されているのがこの手紙です。既に今日お読みした聖書箇所の直後から、このようなことが書かれています。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)。要するに、皆、勝手なことを言い、仲たがいしていたわけです。さらに読んでいきますと、教会の中に性的な不道徳の問題がある、裁判沙汰がある、間違った教えによる混乱がある、偶像礼拝の問題もある――いったいこれが教会でしょうか。

 しかし、この世界の中に存在する教会は、コリントの教会ほどではないにせよ、多かれ少なかれ問題を抱えているものです。頌栄教会もまた例外ではありません。天使のような人ばかりがいることを期待して来られた方々は、たいへん残念ですが、ご期待に添うことは難しいかもしれません。もっとも、天使だけがいるのが教会ならば、皆さんがそこに座っていることは困難でしょう。もちろん、私も同様ですが。問題もある現実の教会であるから、わたしも皆さんもここにいるのです。

キリストにあって恵みを受けて

 いずれにせよ、そのように多くの問題を抱えていたのがコリントの教会でした。その教会に宛てて書かれたのがこの手紙です。そのような手紙において、挨拶に続くこの冒頭部分でいったいパウロは何を書いているでしょうか。なんと彼はそこで、神への感謝の言葉を記しているのです。これは驚くべきことと言わざるを得ません。読み進みますとすぐに分かりますが、この手紙は実に厳しい内容の手紙です。パウロはコリントの教会の諸問題と向き合います。対決します。勧告と叱責の言葉を連ねます。その意味で、いわゆる喜ばしい手紙などではありません。しかし、それにもかかわらず、彼は感謝の言葉をもって書き始めているのです。

 「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」(4節)。感謝の内容が明確にされています。コリントの信徒たちは、確かに「キリスト・イエスによって神の恵みを受けた」人々だ、ということです。

 ここで「キリスト・イエスによって」と書かれていますが、これは「キリストにあって」とか「キリストと結ばれて」などと訳し分けられている言葉です。パウロが頻繁に用いる表現で、英語の聖書ではほとんどの場合"in Christ"です。ですので、もちろん「キリスト・イエスによって」でも良いのですが、「キリスト・イエスの内にあって」という意味合いもまた重要です。パウロは、問題だらけのコリントの教会を見る時に、まず彼らを「キリストの内にある」ものとして見ているのです。

 「キリストの内にある」ということは、「キリストの救いの御業の内にある」ということでもあります。キリストによる贖罪の御業の中にあるということです。ですから「神の恵みを受けた」ことについても書かれているのです。「恵み」というものは、無償で与えられるから「恵み」というのです。何が無償で与えられたのでしょうか。神の救いです。神の義です。ローマの信徒への手紙に、次のように書かれている通りです。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:23‐24)。

 コリントの信徒たちも、無償で義とされたのです。罪を赦されて神に受け入れられたのです。言い換えるなら、神はもはや彼らを直接は御覧になられないということです。キリストの内にあるのだから、キリストを通して、その贖いの御業を通して御覧になられるのです。そうです、神がそのように見ておられる。だからパウロもまず、そのようにコリントの教会を見ているのです。それゆえに、この前の部分においても、彼らを「コリントにある神の教会」(2節)と呼び、「召されて聖なる者とされた人々」(同)と呼んでいるのです。

 さて、私たちもまた、コリントの教会と同じく、この地上にある現実の教会です。ですから、しばしば私たちは他の人々の中に多くの問題を見出すかもしれません。あるいはそれ以上に、自分の内に多くの問題を見出すかもしれません。そして諸問題と現実的に取り組まなくてはならないかもしれません。それはしばしば忍耐を要する困難なことでもあります。しかし、私たちはまず、教会を、そして自分自身を、キリストの内にある者、恵みを受けた者として見るところから始めなくてはならないのです。それはすなわち、断罪からスタートしないということです。断罪からスタートするならば、建て上げる方向にではなく、破壊する方向にしか進まないからです。

賜物に何一つ欠けることなく

 さて、コリントの教会は確かに問題の多い教会ではありましたが、さりとて決して問題しかない教会ではありませんでした。コリントの教会には数多くの優れた面をも持っていたのです。それは実に様々な点で豊かな教会でもありました。パウロはこう言っています。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」(5節)。

 その教会はまず、言葉と知識において豊かでした。御言葉が語られ、聞かれるということにおいて、コリントの教会は決して欠乏することはありませんでした。多くの伝道者や教師たちがいたのでしょう。また今日ならば神学者と呼ばれるべき人々も、少なからずいたのでしょう。深く思索し、言語化し、適切に伝えることができる。コリントの教会はその点において非常に優れた教会であったものと思われます。ですから、このコリント教会についてはまた、「キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなった」と語られているのです。交通の要衝であって多くの人々が行き交う商業的な中心地であると共に文化的な中心地でもあったコリントの町のただ中にあって、その言葉と知識とをもって臆せずキリストを証しすることができる教会であったのです。

 そして、コリントの教会の豊かさは、ただ言葉と知識だけに留まりませんでした。この教会はまた、霊的な賜物をも豊かに与えられていたのです。「あなたがたは賜物には何一つ欠けることなく」と言われている通りです。

 具体的には、例えばこの手紙の12章を見ますと、次のようなことが書かれております。「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」(12:7‐11)。

 何という賜物のリストでしょう。既に述べてきたことをも綜合しますと、コリントの教会をある程度思い描くことができるでしょう。それは恐らく、非常に生き生きとした活動的な教会であり、伝道的な教会であり、雄弁な人々や能力的に優れた人々が数多くいる教会であり、また超自然的な驚くべき力ある業と奇跡が日常的に起こっている教会あったに違いありません。

 それはあらゆる点において豊かな教会でありました。もちろん形は違いますが、頌栄教会も頌栄教会として、これはこの教会の豊かさだ、と言えるものがあるだろうと思います。それ自体は決して悪いことではありません。しかし、重要なことは、パウロがその豊かさをあくまでも「神の恵み」と結びつけているということです。すべてをキリストの内に見ているということなのです。それは「豊かにされた」と表現され、「賜物」と表現されているのです。そもそも「賜物(カリスマ)」という言葉は、「恵み(カリス)」という言葉に由来するのです。そのようなものとして、神に感謝しているのです。

 これはこれを読むコリントの信徒たちにとってもとても重要な内容であったに違いありません。なぜなら、豊かさのあるところにまた高ぶりもあるからです。実際、後にパウロはこう書かざるを得なかったのです。「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(4:7)。そのように書かざるを得ない教会の状態があったのです。ですから、パウロはコリントの教会の豊かさを、キリストにある神の恵みと結びつけて神に感謝すると同時に、これをコリントの人たちに示したかったのでしょう。その豊かさが感謝すべきものではあっても、決して誇るべきものではないことを示すという意味合いをもって、これを書き記しているのであろうと思うのです。

主が終わりまで支えてくださる

 このように、パウロは教会の問題ある姿も、誇りとなり得る優れた諸々の豊かさをも、すべて恵みの内にあるものとして、すべてキリストの内にあるものとして見ています。そして、このキリストこそが、教会を完成し、キリスト者を完成するのだ、ということこそがパウロの確信でありました。彼は言います。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(8‐9節)。

 パウロほど、キリストの体としての教会、体の各部であるキリスト者のあるべき姿を追い求めた人はいないでしょう。そのためにパウロは現実の教会が抱えている諸問題と真剣に取り組み、そのための労苦を惜しみませんでした。しかし、そのような彼であるのに、ここには自らの手によって教会のあるべき姿を完成しようという気負いは微塵も感じられません。なぜでしょうか。その完成を何よりも望んでいるのは、パウロではなくキリスト御自身であることを良く知っていたからです。キリストが再び現れ給う終わりの日まで、そのキリスト御自身が支えてくださるのです。つまり、最後まで見捨てることなく、関わり続けてくださるのです。そのことがなかったら、「非のうちどころのない者」などという言葉は出てこないのです。すべてはキリストにかかっているのです。ですから、パウロも諦めないで、放棄してしまわないで、面倒な問題と向き合うことができたのです。

 この認識を私たちも持つべきであろうと思います。教会に対して、そしてその中にいる私たちに対して、主は最後まで見捨てないで、諦めないでいてくださる。主が見捨てないのに、私たちが教会を見捨ててしまったり、自分を見限ったりしてはならないのです。

 「神は真実な方です。」そうパウロは言いました。「真実」という言葉が色あせてしまった時代に私たちは生きています。信頼に価する真実なるものは、もはやどこにも見いだせそうにありません。しかし、だからこそ、私たちは神の真実に目を向けたいと思うのです。 この主日からアドベントに入りました。アドベントという呼び名は「到来」という言葉に由来します。今から2000年前のキリストの到来は、まさに神の真実の現れでした。そして、神の真実はやがてキリストの再臨をもたらしてくださいます。その真実なる神が、私たちを招いてくださいました。真実なる神が、私たちをキリスト・イエスとの交わりへと招き入れてくださいました。私たちの内に事を始められたのは、真実なる神なのです。ならばその御方が完成してくださいます。それゆえに、私たちに必要なことは、最後までこの御方の真実に寄り頼むことなのです。そして忍耐強くあることです。

 
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