「神殿の再建」
2006年3月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書2章13節~22節
イエス様がキレた!カンカンになって怒って、縄で鞭を作り、その鞭を振りあげ暴れ回った!しかも、神殿の境内で!これが今日の聖書箇所です。皆さん、どうですか。奇異に思われますか。
あるいは、ここを読んで「イエス様、よくぞやってくださった!」喜ぶ人もいるかも知れません。いつも何かに怒っている人。いつも義憤を覚えている人。その人は言うでしょう。「イエス様だって怒ったではないか。必要に応じて暴力さえも用いたではないか。だから、我々だって怒るべき時に怒っても良いのだ。正しい怒りというのもあるはずだ」。――もちろん、そうです。正しい怒りはあります。怒るべき時もあるでしょう。しかし、ここを読んでそれを言うならば、「自分の怒りとイエス様の怒りは同質の怒りだ」と言えるかどうかを省みる必要があります。そう言うことが恥ずかしいならば、「イエス様だって怒ったではないか」とあまり言わない方がよろしい。ヤコブの手紙にも、「人の怒りは神の義を実現しない」(ヤコブ1:20)と書かれていますから。
いずれにせよ、イエス様の怒りと暴力にだけ目を向けていてはなりません。むしろあのイエス様がなぜここまで怒られたのか、というその理由にこそ目を向けるべきでしょう。
商売の家
なぜイエス様が怒られたのか。それを理解する鍵はイエス様ご自身が語られた言葉にあります。主は言われました。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)。
確かにエルサレム神殿の異邦人の庭と呼ばれている所では商売が行われていました。この箇所に書かれているように、牛や羊や鳩が売られていたのです。「神聖なる神殿で牛なんか売っていたら、イエス様が怒るのも無理はない」と思いますか。しかし、これはすべてモーセの律法の定めに従って行われていたのです。申命記14章24節以下には、遠くから巡礼に来る者は収穫物を銀に替えて携えてきて、現地で牛、羊、ぶどう酒など必要なものを買うようにと書かれているのです。礼拝において捧げる動物は、傷のないものでなくてはなりません。祭司によって検査を受けなくてはならないのです。これも律法に定められていることです。ですから、既に検査を済ませてある動物が神殿で売られていたのです。これも皆、モーセの律法が定める通りに礼拝を行うためだったのです。
両替人がそこにいたのも同じ理由からです。献金をするならば、それはユダヤの半シェケル銀貨をもって献げなくてはなりませんでした。これもまた律法の定めです(出エジプト30:13)。実際、半シェケル銀貨など、もう一般には用いられてはいないのです。流通しているのはローマの貨幣なのですから。ですから、それをユダヤの古い半シェケル銀貨に替えてあげる人が必要でしょう。それが両替人です。彼らの商売もすべてモーセの律法のとおりに礼拝を行うためだったのです。
ですので、イエス様は単にそこで商売が行われていたことを問題にしているのではないのです。繰り返しますが、それは律法の定めに従って行われていたのです。イエス様があえて「商売の家」と言われたのは、明らかに「わたしの父の家」と対比しているのです。本来、「わたしの父の家」すなわち神の家であるはずの場所が、もはや神の家でなくなってしまっていることを問題にしているのです。それはどういうことでしょうか。
羊や牛を売る者たち、両替をする者たちは、巡礼者たちが礼拝をするためにそこにいました。彼らが礼拝者に仕えているならば、彼らの行為はいわば礼拝行為の一部であるとも言うことができるでしょう。その時、神殿は商売をしている彼らにとっても神の家なのです。しかし、彼らが商売にしか関心がなくなれば、儲けにしか関心がなくなれば、神を礼拝することそのものに関心がなくなれば、彼らにとってそこは、もはや神の家としての神殿ではなくなります。それは商売の家に他なりません。極めて単純な話です。それは神殿当局にも言えます。神殿は商売人たちに異邦人の庭を提供しています。売り上げの一部は神殿に入ってくるシステムになっていました。巡礼者が多い祭りの時は、当然、神殿に入ってくる収入も多くなります。祭司長たちが、神殿で行われる礼拝そのものよりも、巡礼者の数とそれによる収入のことに関心が向いているならば、彼らにとってそこはもはや神の家ではなくなります。それは商売の家に他なりません。
では巡礼者についてはどうでしょう。商売というのは、売る人だけでは成り立ちません。当然、そこには買う人々もいるわけです。彼らが両替をするのは献金をするためです。彼らが牛や羊をそこで買うのは、犠牲として献げるためです。多くの人が律法に従って献げようとしていた。それ自体が悪いことであるはずはありません。しかし、もしそこで人々が考えていることが、ただ正しく宗教的義務を果たすということだけだったらどうでしょう。神のことを考えていないわけではありません。神を礼拝するために、遠くから巡礼に来たのです。しかし、礼拝することが、律法に従って正しく宗教的義務を果たすことでしかなくなる時、往々にしてそこで起こってくるのは取り引きです。誰と?神様との取り引きです。義務を果たすことと引き替えに神から何かを受け取ろうとする取り引きとなるのです。なんとここにも商売があります。神様相手の商売です。そのように神殿が礼拝している礼拝者にとっても商売の家となることは起こります。
イエス様が見ていたのは、そんな商売の家となった神殿だったに違いありません。いかなる意味合いであっても、人々が結局は自分が何を得るか、自分の欲求は満たされるか、ということしか考えていない家――それは商売の家です。人間の思惑ばかりが渦巻いている家、それは商売の家です。イエス様がそのような「商売の家」を見て怒られたのは、それが本来、「わたしの父の家・神の家」であることを知っているからです。
わたしの父の家
「神の家」という表現。それ自体は旧約聖書にも出て来ます。考えてみれば奇妙な表現です。神様に住む家が必要なのでしょうか。いいえ、最初の神殿を造ったソロモンでさえ、こう言っています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王上8:27)。ですから、神殿とは、神に住む家が必要だから建てられたものではないのです。地上に神の家など、神にとっては必要ないのです。しかし、地上にある人間が、神と出会い、神と交わりを持つために、神は地上に神の家を置いてくださったのです。礼拝の場所とはそういうものです。
イエス様はこれを「わたしの父の家」と呼ばれました。そこには父と子の交わりがあります。イエス様は、神との交わりを、父と子の交わりとして知っているのです。イエス様は、この世のただ中で、神との交わりがいったい何であるかを示してくださったとも言えます。父と子の交わり。それは本来だれも入り込めない関係です。しかし、なんとその交わりの中に人間が招かれているのです。イエス様が「わたしの父の家」と呼ぶ神殿が地上に存在するということは、そういうことなのです。
神との交わりに人間が招かれている。しかも、それが成り立つように、父なる神は罪の赦しを受ける道をも与えてくださいました。神殿における動物犠牲の一つの大きな意味は、それが罪の贖いのための犠牲だということです。そこで人は罪の赦しを求めて祈ることができるのです。神は犠牲を屠ることを命じられました。神は牛や羊など必要としてはいないのです。それが必要なのは人間です。神はその羊や牛の血をもって、人間の罪の贖いとしてくださったのです。人の罪を赦すために!そのようにして、罪ある人間が、父なる神との交わりへと招かれているのです!神殿がある、礼拝の場所があるとは、そういうことなのです。それは驚くべき恵みなのです。
しかし、その驚くべき恵みの現れである「わたしの父の家」を、人間はよってたかって「商売の家」にしてしまったのです。父と子との交わりを知るイエス様であるからこそ、その恵みを踏みにじっている事の重大さを思わずにはいられなかったのでしょう。だから怒ったのです。だから追い出したのです。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言って!
神殿の再建
さて、この出来事が、今日の私たちに何を意味するのか。それを明らかにしているのが続くユダヤ人たちとのやりとりです。ユダヤ人たちは言いました。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを見せるつもりか」(18節)。つまり、何の権威によってこんなことをするのかと非難しているのです。その権威を指し示す特別なしるしを見せろと言うのです。それに対してイエス様は次のように言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19節)。
「この神殿を壊してみよ」と訳されていますが、それでは弱いと思います。イエス様は、「この神殿を壊せ」と言っているのです。さらに言うならば、「この神殿をバラバラにして解体してしまえ」と言っているのです。商売の家となってしまっている神殿とそこにおける祭儀一切を、その強烈な言葉をもって完全に否定しているのです。イエス・キリストが見せてくれたような、父なる神との生きた交わりへと導かないような神殿や儀式に、いったい何の意味があると言えるでしょう。そんなもの、何の意味もない。だから解体してしまえ、とイエス様は言われるのです。そして、事実、イエス様が言われたとおり、やがてユダヤ戦争において、この神殿は本当に破壊されてしまうことになります。この福音書が書かれた頃には、もう神殿はないのです。
しかし、そのようにイエス様は神殿とそこにおける祭儀をバッサリと切り捨ててしまったのですけれど、それで終わりかというとそうではないのです。神殿を地上に置かれた神の恵みは終わりではないのです。イエス様は「わたしが建てる」と言われたのです。「建て直す」と訳されていますが、これは「起こす」という言葉であり、また「復活させる」とも訳せる言葉です。建てられるべき神殿は、三日目に復活するのだとイエス様は言っておられるのです。
その神殿とは何か。――これを聞いたユダヤ人たちは、その同じ神殿をそっくりそのまま建て直すものと解しました。そうなると無茶苦茶な話です。既に46年かかってなお未完成である神殿を、三日で建て直せるはずがない。弟子たちにも、イエス様の言葉は全く理解できなかったに違いありません。しかし、やがて弟子たちは悟ったのです。21節以下をご覧ください。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(21‐22)。
キリストの復活は、神殿の再建に他ならなかったのです。先の神殿が否定されました。そして、全く新しく神の家なる神殿が建てられたのです。それがキリストの体です。では、復活したキリストの体は、今どこにあるのでしょうか。――ここです。教会はキリストの体であると聖書は教えているのです(エフェソ1:23)。建物のことではありません。この集まりこそが、建て直された神殿なのです。ですから、教会は様々なことを行いますが、何をおいてもまず、礼拝のために集まります。キリストの体であり、復活され建て直された神殿としての教会だからです。その神殿において献げられる罪の贖いのための犠牲はどこにあるのでしょうか。――私たちはもう境内で牛を買ってくる必要はありません。キリストが既に御自分の体を罪の贖いの犠牲として献げてくださいました。私たちは、キリストの尊い犠牲が献げられた神殿にいるのです。
神が地上に神殿を置かれたのは、地上にある人間が、神と出会い、神との交わりに生きるためです。そうです、イエス様が見せてくださった神との交わりへと、私たちは招かれたのです。これは驚くべき恵みです。教会が地上に存在するということは、神の驚くべき恵みです。罪深い私たち人間に礼拝の場が与えられているということは、驚くべき恵みなのです。これを再び人間の思惑ばかりが渦巻いている商売の家にしてはなりません。