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「仕える者に」

2006年4月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書10章32節~45節

 イエス様は弟子たちと共にエルサレムへと向かっておられました。その途上、主は繰り返し御自分が苦難を受け、殺されることを予告されました。最初の受難予告のすぐ後には、ペトロがイエス様をいさめ始め、かえってイエス様からお叱りを受けたことが書かれています(8:32以下)。二回目の受難予告の直後には、弟子たちが「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていたことが書かれております(9:34)。そして、この三回目の受難予告の後には、ヤコブとヨハネが他の弟子たちを差し置いて自分たちだけ偉くなろうと企んだことが書かれております。

 聖書はそのように弟子たちの無理解を隠すことなく描き出しています。真剣でなかったわけではありません。献身的でなかったわけでもありません。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10:28)と。そのとおりでしょう。しかし、彼らはイエス様のことが分かってはいなかった。イエス様が十字架にかけられて死ぬのを見、復活したイエス様にお会いし、そしてイエス様の昇天後に、彼ら自身が聖霊を受けて、初めて彼らは本当の事を知るに至るのです。

 では、神の霊を受けた弟子たちには、聖霊降臨以後の教会には、キリストに対する無理解という問題は生じることはなかったのでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。もしそうならば、今日お読みしたような記述が残される理由はありません。無理解な弟子たちが描かれているのは、後の時代の教会においても繰り返しこのような問題が生じたからに違いないのです。それはこの教会にも起こり得ることです。真剣かもしれない。献身的であるかもしれない。しかし、いつの間にかキリストが向かうのとは全く別の方向へと向かっている。そのようなことが起こり得るのです。だからこの弟子たちの姿を他人事にしてはならないのです。

栄光をお受けになるときには

 そのようなことを思いつつ、もう一度あの二人の弟子たち、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの言葉を聞いてみましょう。彼らはイエス様に言いました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。そして、主が、「何をしてほしいのか」と言われると、彼らはすぐさまこう頼み込んだのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と。

 彼らは、やがてイエス様が「栄光をお受けになる」ことを確信しています。直訳では「あなたの栄光の中に」という言葉ですが、これは明らかに《王となる》ことを意味しています。ですから右左に座らせて欲しいという話が出てくるのです。ペトロも以前、イエス様に向かって「あなたは、メシアです」(8:29)と言いました。メシアとは「油注がれた者」という意味です。イエスという御方は、まさに神によって油注がれた王、神によって任命された王であり、この地上に神の国を建設し、神の国の王となるために来られた御方である。そのように弟子たちは皆、信じていたのです。

 もちろん、イエス様が神の国の王となるようなことが簡単に実現すると考えるほど、弟子たちも脳天気ではありません。神の国が実現するためには、なお厳しい戦いを経なくてはならないことは明らかでした。この世界には、神に敵対しメシアに敵対する勢力が、確かに存在しているからです。

 神に敵対し、神の国の実現を阻む力とは何か。弟子たちはこう考えた。それは何よりもまず、強大なローマ帝国の支配である、と。ユダヤ人から見ればローマ人は神を知らぬ異邦人です。その異邦人の支配体制が打ち倒され、イスラエルが回復されることなくして、神の国の到来はあり得ない、というのが神の国を待ち望むユダヤ人たちの共通理解でした。ですから人々は、何よりもまずローマを打ち倒してくれる力ある王を待ち望んでいたのです。そして、このナザレのイエスこそ、ローマを倒すことができる力ある王である。それが弟子たちの確信だったのです。

 しかし、弟子たちはイエス様と共に旅を続けていくうちに、メシアに敵対する勢力はローマ人の支配だけではないことに気づき始めます。もう一つの敵対勢力があるのです。他ならぬユダヤの宗教的指導者たちです。

 罪人や徴税人と共に食事をし、罪人を招く神の恵みを語り、罪の赦しを宣言するイエス様の言葉は、律法学者たちを怒らせました。イエス様に対する民衆の圧倒的な支持は、祭司長たちの宗教的な権威を脅かし始めていました。このナザレのイエスが王となることを望むなら、既存の宗教的な支配者たちの敵意に直面せざるを得ないのです。ナザレのイエスという御方が、ローマ人以前に、まずユダヤ人社会の権威者たちと対決せざるを得ないであろうことは、弟子たちの目にも明白でありました。

 そして今や、イエス様と弟子たちはエルサレムへの道を上っていく途上にあったのです。イエス様は、敵対する権力者たちの待つエルサレムへと向かっていたのです。主がある特別な決意をもって都に上っていることは誰の目にも明らかでした。32節には、「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と書かれています。そこに最終的な戦いが待ち受けていることを、誰もが予感していたのでしょう。

 しかし、それでもなお弟子たちは皆、勝利を確信していたのです。ヤコブとヨハネは、イエス様が栄光をお受けになること、王として支配するようになることを確信するがゆえに、前もって約束を取り付けようとしたのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。41節には、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」と書かれています。皆、考えることは同じでした。それほどまでに、弟子たちは、イエス様が必ず栄光をお受けになることを確信していたのです。なぜでしょうか。

 考えられることは二つあります。第一に、イエス様が多くの民衆の支持を得ていたということです。圧倒的多数の人々が彼らの味方でした。それはイエス様がエルサレムに入城される様子を見ても分かります。夥しい人々が歓呼の声をあげてイエス様を迎えたのです。これが彼らの置かれていた状況でした。

 しかし、彼らと共にあったのは、ただ人の数だけではありませんでした。第二に、そこには主イエスがこれまで繰り返し現してこられた奇跡の力がありました。ですからこれからも決定的な場面において、神の超自然的な介入があり、神の力が直接的に現されることを、弟子たちは信じて疑わなかったのです。

 それゆえに、たとえローマ帝国の支配体制がどれほど強大であっても、全く問題ではありませんでした。ユダヤ人の古い宗教的支配体制がどれほど強固であっても、全く問題ではありませんでした。それはイエスにおいて現される神の力によって覆されるに決まっているからです。ですから、ヤコブとヨハネは願ったのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と。

仕えるために来られた御方

 さて、これがあの弟子たちの考えていたことです。どうですか。私たちが常々考えていることと似ていませんか。

 私たちは、この世に悪の力が働いていることを知っています。国家の力が悪魔化することがあることも知っています。この世の力が、神に逆らう仕方で用いられることも知っています。また、そのような神に逆らう力は、必ずしも神無き世俗の世界にのみ存在するのではないことを知っています。そのような神に逆らう力の支配が、宗教の世界にも、教会の中にも存在し得ることを知っています。教会の中において権力が神に逆らって用いられることはあるのです。

 ですから、私たちはしばしばこう考えるのです。世俗における力にせよ、教会の中における力にせよ、神に逆らう悪しき力があるならば、《より大きな力》によって覆され支配されねばならない。力に対しては力をもって臨まなくてはならない。力をもって征服しなくてはならない、と。――そうです、弟子たちもそう信じて疑わなかったのです。ですから、圧倒的な民衆の支持を喜んだのです。数は力だからです。イエス様の奇跡も喜んだのです。それは神の力だからです。そしてイエス様が力あるメシアとして実力を発揮することを期待したのです。真の王が審きの鞭を振るって悪しき力の支配を覆し、征服してくれることを求めたのです。

 そのような力あるメシアを求め、力による救いを求めるメンタリティ。私たちにも良く理解できますでしょう。そして、そのような思考というものは、身近な人間関係にも影響を及ぼすのです。力ある王を求めていたヤコブとヨハネはどうしましたか。自分たちが他の弟子たちよりも上に立つことを願いました。実は他の弟子たちの願いも同じだったのです。このように、いかなる形にせよ、力をもって世を救うメシアを求める人は、身近な人間との関わりにおいても力関係を問題にするようになるのです。

 既に触れましたように、彼らの間に「だれがいちばん偉いか」という議論があったことを福音書は伝えています。私はこのような箇所を読む時に、弟子たちの間では、常々物の見方や考え方の違いによる対立が生じていたのではないかと想像いたします。対立がない時には、「だれが偉いか」ということは大した問題にはなりません。対立がある時には大いに問題になります。対立がある時には、相手を従わせたくなるからです。従わせるためには力を得ねばなりません。従わせるためには支配する側に立たねばなりません。

 繰り返します。力をもって世を救うメシアを求める人は、身近な人間との関わりにおいても力関係を問題にするようになります。そして、より大きな力を持つことを求め、支配する側に立つことを求めるようになるのです。

 しかし、イエス様は一同を呼び寄せて、次のように語られたのです。よくお聞きください。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(42‐45節)。

 このように、イエス様は、弟子たちが抱いていたのとは全く異なるメシアの姿を提示されたのです。イエス様は、弟子たちや群衆が期待するような、力をふるう王になるために来られたのではないことを明らかにされたのです。イエス様は、力をもって悪の勢力を征服するメシアとして来られたのではないのです。むしろ、「仕えるために」「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」来られたメシアであることを語られたのです。

 なぜでしょうか。まず第一に覆されねばならないのは、ローマ人による世俗的な支配体制でも、ユダヤ人当局による宗教的な支配体制でもないからです。そうです。覆されなくてはならない第一のものは、外にある力ではなく、弟子たちの心の構造だったのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(45節)と主は言われるのです。神の国に敵対している第一のものは、実はこの世の悪の力などではないのです。そうではなくて、力をもって支配しなくては何も解決しないと思いこんでいる私たちの心なのです。力を放棄して仕える者となろうとしない私たち自身の心なのです。

 確かに、イエス様は神の油注がれた王であり、父なる神の右に座したもう御方です。しかし、人間がこの地上で出会ったその御方の姿は、仕える者の姿であり、僕の姿であったのです。受難節は、そのお姿を思い起こす時です。王の王、主の主なる御方が、力を放棄され、低くなって私たちに仕えてくださいました。私たちの罪を自ら背負ってくださいました。そして、今もなお主は仕える姿を変えようとはなさいません。イエス様は今日も私たちに御自分を差し出して言われます。「わたしはあなたに仕えるために来た。わたしをあげよう。わたしの命をあげよう。わたしの体を食べなさい。あなたにあげよう。わたしの血を飲みなさい。あなたにあげよう」と。私たちは、そのような御方に対し「あなたはメシアです」と告白し、そのような御方に従うようにと招かれているのです。

 
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