「土の器の中にある宝」
2006年4月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙 Ⅱ 4章7節~18
土の器の中に
今日の第二朗読では、コリントの教会に宛てたパウロの手紙をお読みしました。そこで彼はこう言っています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(2コリント4:7)。
「土の器」という表現は、ある意味ではたいへん分かりやすい。私たちは確かに「土の器」です。土の器の特徴は弱さであり脆さです。壊れやすい。最終的には、必ず壊れてしまう。そのような意味において、私たちは土の器です。どんなに強がって見せても土の器に過ぎません。いや、私たちは土の器に過ぎないことを知っているからこそ、一生懸命に強がるのでしょう。土の器であることは怖いから。土の器であることを認めることは恐ろしいことだから。
しかし、パウロは自分が土の器であることを認めた上で、まことに驚くべきことを宣言するのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8‐9節)。私たちが、自分を土の器だと実感するのは、苦難の中に置かれた時でしょう。すべてが順調に進んでいるとき、自分の弱さは問題とはなりません。脆さは問題とはなりません。しかし、苦難においては脆さが問題となります。四方から苦しめられるときには弱さが大きな問題となります。苦難の中に置かれるとき、土の器であることは恐ろしいことです。しかし、パウロが言っていることは、要するに「土の器であっても大丈夫」ということです。弱くても良いのです。脆くても良いのです。大丈夫なのです。
決定的に重要なことは別にあります。パウロはこう言っているのです。「《このような宝を》土の器に納めています」と。重要なのは、中に何を納めているのか、ということなのです。こわれてしまうような土の器で良いのです。その中に宝を持つことです。持つべき宝を納めていることなのです。
パウロが言っている「このような宝」とは何でしょうか。実は、今日の朗読箇所の直前にそのことが書かれているのです。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(6節)。これが宝です。
ここでパウロが思い描いているのは明らかに創世記冒頭の天地創造物語です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1:3)。創世記には、「闇から光が輝き出よ」とは書かれていませんが、意味は同じです。「光あれ」までは闇だったのですから。その「光あれ」と命じられた神様が、私たちの心にも「光あれ」と言ってくださったのです。そのようにして、信仰の光を与えてくださったのです。十字架にかかられたイエス・キリストを、栄光に満ちた神の子、救い主として示してくださり、イエス様を信じる者としてくださったのです。「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださった」とは、そういうことです。そして、さらに言うならば、ここには「わたしたちの心の内に輝いて」と書かれているのです。主語は誰ですか。神様です。なんと神御自身が光となって輝いて照らしてくださったと書かれているのです。これが宝です。
イエス・キリストの福音は、単なる一つの思想ではありません。私たちに与えられた信仰は、単なる「心の持ちよう」などではありません。パウロがわざわざ創世記の話を持ち出してくるのは、私たちに信仰が与えられるということがまさに天地創造に匹敵するほどの神の御業だからです。それは実に神御自身が来られて自ら輝いて光となって私たちの心の暗闇を照らしてくださるというほどの出来事なのです。パウロはそのことを知っているのです。ゆえにそれを「宝」と呼んでいるのです。単なる一つの思想を、パウロは「宝」などとは呼ばないでしょう。それは神の圧倒的な憐れみによる御業ゆえに、それは宝なのです。いかなるものにもまさる宝なのです。もし私たちがそれほどに思っていないとするならば、それは与えられているものの真価が分かっていないだけなのです。
私たちは確かに土の器かもしれない。しかし、そのような宝を内に納めた土の器なることができるのです。そこにこそ救いがあるのです。この宝が私たち自身とこの世を救うのです。私たちは、自分で自分を救うことができません。私たちは、私たち自身の力で、この世界を救うことはできません。私たちは皆、土の器なのですから。この世界そのものが土の器なのですから。救いは神から来るのです。神からの宝こそが私たち自身とこの世界を救うのです。
救いが神から来るものであるならば、私たち自身が土の器であることは、まったく問題ではありません。弱くても良いのです。脆くても良いのです。衰えゆくものであっても良いのです。最終的には壊れてしまうものであっても良いのです。そこにおいてこそ、神の与えてくださった宝の真価が表れるからです。信仰を通して働く神の力が現われるからです。神の力が、人間の力と混同されることなく、純粋に神の力として現れることになるからです。
実際、これを言っているパウロ自身、「土の器」であることの一つの現われである、なんらかの病を負っていたようです。彼はそれを身に与えられた「一つのとげ」と表現しています。どのような苦しみであったかは分かりません。しかし、それは恐らくパウロの伝道の働きにも支障をきたすようなものだったのでしょう。だからパウロはこのとげが取り除かれるように祈り求めたのです。しかし、主はそのとげを取り去ることはありませんでした。主はパウロにこう言われたのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12:9)。これがパウロの得た答えでした。それゆえにさらにパウロはこう言っているのです。「だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(12:9‐10)。
そのようなパウロであるからこそ、今日の聖書箇所においても、確信をもってこう言っていたのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と。神に信頼して弱さを誇れるならば大丈夫。弱いときにこそ強いと言えるなら大丈夫。土の器であっても大丈夫。それがパウロの確信だったのです。
イエスの命が現われるために
さらに、パウロは10節以下においてこう続けます。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現われるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現われるために」(10‐11節)。土の器であることについて、パウロはさらにこれを「いつもイエスの死を体にまとっている」と表現しているのです。この「死を体にまとっている」という表現、聞き慣れない言葉です。しばし、このことについて考えてみましょう。
細かい話になりますが、ここで用いられている「死」という言葉は、「死」そのものを表現するために通常用いられる言葉ではありません。あえて言葉を加えるならば、それは「死につつある人の状態」を表す言葉です。死そのものというよりも、死んでいくプロセスと言っても良いでしょう。イエス様が苦しみながら死んでいった。そのことを指しているのです。
ある医師がこんなことを言っていました。「人間の死は人生の最後にあるのではありません。人間は死を背負って生きているのです」。本当にそうだと思います。人間が死んでいくプロセスは、生まれたときから始まっているのです。土の器であるとはそういうことでしょう。その意味で、人は誰でも「生まれながらに死を体にまとっている」と言えるのです。ですから生きている限り、様々な苦しみがあります。病気もあるでしょう。人生の途上で体の機能の一部を失うということもあるでしょう。次第に衰えていくということもあるでしょう。死を体にまとっているのですから。そこには誰一人例外はありません。キリスト者も例外ではありません。キリスト者になったら病気にはならないか。そんなことはないでしょう。苦しんだり災いに遭ったりすることはないか。信仰者は死なないか。そんなことはないでしょう。いやむしろ、パウロのように、迫害の中で土の器がこぼたれていくような経験をする人もいたのです。信仰のゆえに殉教して死ぬ者もいたのです。
しかし、土の器に宝を持つならば、イエス・キリストを信じる信仰があるならば、決定的に異なることがあるのです。それはいかなる苦しみも、もはや決して孤独に一人で背負うことはない、ということです。そこで味わっているのは自分の苦しみであり、自分の死であり、自分の死を体にまとっているはずなのに、なんとそこで「イエスの死を体にまとっている」ということが起こるのです。私たちは苦しみにおいて、イエス様と一つになるのです。これはイエス様の側から言うならば、「あなたは一人で苦しんでいるのではないよ」ということです。「あなたは一人で痛んでいるのではないよ。あなたは《わたしの死を》体にまとっているのだよ。苦しんでいるあなたの身において、わたしとあなたは一つだよ」。イエス様がそう言ってくださっているということでしょう。
そして、私たちは知っているのです。十字架にかかって苦しんで死んでいったイエス様は復活なさったと。十字架の向こうに復活があった。そうでしょう。私たちが十字架にかかったイエス様と一つになるならば、復活したイエス様とも一つになるのです。「イエスの死を体にまとう」なら、イエスの命もまた体に現われるのです。「いつもイエスの死を体にまとっているのは、イエスの命がこの体に現われるためなのだ」とさえ、パウロは言うのです。
実際、私たちがしばしば目の当たりにするのは、苦難の中で信仰者が真にイエス様の命に輝くという事実です。病気の床において、迫害の中において、無駄と思えるような労苦で何年も人生を削ってしまうような中で、「イエスの命がこの体に現われる」ということが起こるのです。イエスの死を身に負う時、イエスの命も現われるのです。
先ほど、「どんなときでも」(讃美歌21-533)という讃美歌を歌いました。この讃美歌は高橋順子さんというある女の子の作詞によるものです。その子の一生はたった7年でした。幼稚園のときに骨肉腫を発病し、小学校に入って間もなく亡くなられたそうです。「どんなときでも、どんなときでも、 苦しみに負けず、くじけてはならない。 イエスさまの、イエスさまの、愛を信じて」。 この歌詞は、その子が――イエス様を信じたひとりの女の子が――片足を切断する手術を四日後にひかえたとき、ベッドの上で作った歌だそうです。片足が無くなってしまう。欠けていく土の器。しかし、そこにはイエス様の命が溢れているではありませんか。そのことを思って、どうしても一緒に歌いたかったのです。
イエスの死を体にまとうなら、イエスの命もまた体に現れるのです。そして、私たちがイエスの死を完全に身に負ったとき、負い抜いたとき、そのようにして私たちが地上の人生を全うした時、そして土の器が土に帰る時、イエス様の命もまた完全に現われるのです。十字架で死んだイエス様が復活して永遠の命に輝いたように、私たちもやがて神の国に復活して永遠の命に輝き、神の御前に立たせていただけるのです。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(4:14)。これこそ、私たち土の器に与えられている究極の希望です。