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「真理を悟らせる聖霊」

2006年5月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 16章12節~24

あなたがたはわたしを見る

 今日の第三朗読では、最後の晩餐におけるイエス様の言葉をお読みしました。13章以下に記されるこの部分は「告別説教」などと呼ばれます。イエス様は、御自分が間もなく捕らえられ、殺されることになることをご存知でした。しかし、イエス様は弟子たちにこう言われたのです。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16:16)。

 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」。これはイエス様が十字架にかけられ、死んで葬られることです。確かに弟子たちはイエス様の姿を「見なくなる」のです。しかし、それはまさに父のみもとに帰ることを意味するのだとイエス様は繰り返し語られたのです。この直前にも、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」(5節)と言っておられます。そして、主が父のもとに行かれ、弟子たちが「見なくなる」だけではなく、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」と言われたのです。

 この言葉は弟子たちを当惑させました。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」(17節)。そう言って彼らは互いに語り合ったのです。

 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」――この言葉は、何を意味しているのでしょう。まず考えられるのは、復活したキリストの顕現です。実際、この福音書を読んでいきますと、復活したイエス様は確かに彼らに現われてくださった。そんなことが書かれています。しかし、復活したキリストが目に見える姿で現われてくださることだけを意味するならば、キリストの昇天後の教会、今日の私たちには「わたしを見るようになる」との言葉は意味を持たないということになります。

 しかし、ヨハネは、「わたしを見るようになる」との言葉が、後の教会に対しても語られていることを信じるからこそ、この言葉を福音書に記したに違いありません。それゆえに、今日の礼拝においても朗読されているのでしょう。イエス様は後の時代の私たちに対しても、「あなたがたはわたしを見るようになる」と言っておられるのです。ならば、それは何を意味するのでしょうか。

 そこで重要なのは話の流れです。この直前には「聖霊の働き」について語られているのです。聖霊は「真理の霊」と呼ばれています。真理の霊が来ると、弟子たちを導いて真理をことごとく悟らせてくださる。そのことに続いて「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と書かれているのです。新共同訳ですと15節と16節の間があいていますけど、もともとイエス様の言葉としては続いているのです。

 実は、真理の霊について語っているのは、ここだけではありません。14章においても語られております。そちらも見ておきましょう。14章16節以下を御覧ください。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。…」(14:16‐17)。そして、そのように真理の霊が与えられるということに続いて、こう語られているのです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(同18‐19節)。「真理の霊が与えられる」―「わたしを見るようになる」という繋がりが、今日の聖書箇所とよく似ていますでしょう。このようにして注意して見ていきますと、キリストの意図しておられることが明らかになってくるのです。

 イエス様は、御自分の昇天の後、聖霊が遣わされることについて語られました。そして今、イエス様が言われたとおり、私たちは、目に見えない神の霊、聖霊のお働きのただ中にいるのです。聖霊は「真理の霊」です。真理の霊は、私たちを導いて、真理をことごとく悟らせてくださるのです。しかし、その真理とはいったい何でしょうか。そこで私たちは、キリストがこう言われたことを思い起こさねばなりません。「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と。私たちが本当に知らなくてはならない真理とは、単なる抽象的な概念ではありません。その真理とは究極的には、イエス・キリストというお方なのです。つまり真理の霊は、私たちにイエス・キリストというお方を指し示し、そのお方と出会わせてくださるのです。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と主は言われました。「またしばらくすると、わたしを見るようになる」と言われました。確かに、復活したキリストは、あの弟子たちに現われてくださいました。しかし、最初の弟子たちに対する顕現は、その後全てのキリスト者に起こる霊的な出来事を指し示すしるしでもあるのです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」 ――それは真理の霊によって実現するのです。あの最初の弟子たちが復活したキリストを見たように、私たちもまた、聖霊のお働きによって、信仰の目をもってキリストを見るのです。信仰によって、「イエス様は確かにわたしをみなしごにはなさらなかった」と知るのです。

悲しみは喜びに変わる

 さて、キリストはさらに、復活の主との再会が弟子たちにとっていったい何を意味するのかを語られました。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(20節)。聖霊のお働きによってキリストを知り、キリストとお会いするところで、いったい何が起こるのでしょうか。イエス様は言われるのです。「その悲しみは喜びに変わる」と。

 「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」と言われています。弟子たちに予告されているのは、どのような悲しみでしょうか。ここで用いられているのは、「死別の悲しみ」を意味する言葉です。直接的には、イエス様が十字架にかけられ殺されてしまうことに対する悲しみを指しています。しかし、そしてイエス様が死んでしまうということは、ただもうイエス様に会えないということだけを意味したのではありません。それは、弟子たちが寄り頼んでいたその拠り所が完全に崩壊してしまうということであり、彼らが思い描いていた未来の希望がまったく幻のごとく消え去ってしまうことを意味したのです。まさに足もとは崩れていき、すべての光は消えうせて真っ暗闇の中を落ちていくような経験であったのです。

 この福音書の6章には、男だけでも五千人いた大群衆にイエス様が食べ物を与えられたという有名な奇跡物語が出てきます。そして、その出来事の後に、たいへん興味深いことが書かれているのです。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(6:15)。人々はイエス様を王にしようとしていたのです。しかし、イエス様が王となることを望んでいたのは群衆だけではありません。弟子たちもまた同じであったのです。この方こそイスラエルを救い、輝ける未来を開いてくださる方、そしてこのお方こそわが人生の拠り所であると信じていたのです。

 しかし、その拠り所も希望も、この世の罪と死の力の恐るべき猛威の前に、全く打ち砕かれてしまう。まさにそのような悲しみが弟子たちに訪れることを、前もって告げられたのです。そのように、この世における希望が打ち崩されてしまう時、そこに激しい悲しみが訪れます。そのような悲しみは、ヨハネによる福音書が書かれた時代の人々にとっても、今ここにいる私たちにとっても、決して無縁ではありません。「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」。それは私たちにも起こります。あの弟子たちがそうであったように、人間の罪からも死のリアリティからも目をそむけることができなくなる時はやってきます。私たちが思い描くような、目に見える希望は、本当の意味で希望とはなり得ないことを、私たちが直視せざるを得ないときは来るのです。その時、私たちもまた「泣いて悲嘆に暮れ」ざるを得ないのです。

 しかし、イエス様は、その悲しみがすべての結論ではないのだ、と言われるのです。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」そう主は言われるのです。どのようにしてでしょうか。復活されたキリストにお会いすることによってです。真理の霊のお働きによって、主に再びまみえることによってです。何か気休めのようなものが与えられることによってではありません。十字架にかけられる直前においてさえ、「わたしは父のもとに行くのだ」と確信をもって宣言された方にお会いすることによってです。十字架の死ではなく、その死を突き抜けて「父の家」(14:2)を見ておられた方にお会いすることによってです。そのお方から死をさえ突き抜けた、本当の希望を手渡されることによって、悲しみは喜びに変わるのです。まさにそれが弟子たちに起こると主は言われたのです。そして、それは私たちにも起こるのです。

 ですから、イエス様は弟子たちの経験するであろう悲しみを「産みの苦しみ」にたとえられたのです。産みの苦しみは永遠ではありません。それはプロセスに過ぎません。今日の聖書箇所には、「しばらくすると」という言葉が繰り返されています。また産みの苦しみには意味があります。産みの苦しみは必要な苦しみです。そうです、産みの苦しみは必要な苦しみなのです。人間が死のリアリティに向き合うという経験、確かだと信じていた足もとが崩れてしまうという経験、限りなく開かれているように見えた未来が突然閉ざされてしまうという経験、それらのことから来る深い悲しみ――それは時として、どうしても必要なものなのです。それは産みの苦しみなのです。復活のキリストに再会する前に、弟子たちにはこの産みの苦しみがどうしても必要だったのです。

 しかし、産みの苦しみならば希望があります。産みの苦しみの後には喜びが訪れることを誰もが知っているからです。今もこの世界に生きて働いておられる聖霊の御業によって、私たちがキリストにまみえ、キリストとの交わりに生きる時、そこに与えられる喜びがあるのです。そして、主は言われました。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はない。」この世の喜びはいとも簡単に失われることを私たちは知っています。奪われてしまうのです。しかし、キリストにある喜びは、いかなる力をもってしても奪うことはできないのです。なぜなら、現実から目を背けていることによって保たれる喜びとは違うからです。現実とも向き合って、悲しみとも向き合って、それでもなお与えられる喜びだからです。死を突き抜けた希望に基づく喜びだからです。

わたしの名によって願いなさい

 最後に23節以下をお読みしましょう。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(23‐24節)。

 ここで話は祈りのことに移ります。なぜなら、弟子たちは再びイエス様にお会いして、悲しみが喜びに変えられたとしても、なお地上において厳しい現実の中を生きていかなくてはならないからです。私たちも同じです。父のみもとに行かれたお方と出会い、死を突き抜けた希望を与えられ、父の家に場所を用意された者であることを知ったとしても、なお私たちがそのイエス様と共に生きて行くのは地上の現実の中においてです。しかも、あの弟子たちがそうであったように、私たちもまた、この世に遣わされた者として生きて行くのです。 /p>

 そのような私たちは、イエス様が父のみもとに帰られる前、この同じ地上を歩んでおられたことを思い起こすべきでしょう。イエス様は父なる神の名を呼びながら、父に祈りながら、父と一つとなって歩まれたのです。そのイエス様が言われるのです。あなたも同じようにしてよいのだ、と。わたしの名前を使いなさい。わたしの名によって願いなさい、と。私たちはそのように、父の御名を呼びながら、この地上において働かれる聖霊の御業によって、御子なるキリストと共に歩んでいくのです。

 
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