「キリストの祈り」
2006年5月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 17章1節~5
本日は、ヨハネによる福音書17章をお読みしました。ここには弟子たちとの最後の晩餐におけるキリストの祈りが記されております。主は、まず自分自身のために、そして弟子たちのために、さらには弟子たちを通してキリストを信じるようになる代々のキリスト者のために祈っておられます。今日は特にその最初の部分、キリストが御自身について祈られた言葉を心に留めたいと思います。
父よ、時が来ました
「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」(1節)。弟子たちに対して、語るべきことは語り尽くされました。あとは十字架へと続いている道を進むことだけが残されています。そこで主はこう祈られました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。
「時が来ました。」そうイエス様は言われます。それは他ならぬ《十字架の時》です。それは、この世の視点から見るならば、その生涯の最後に待ち受けている極めて悲惨な結末に他なりません。イエス様自身も、どのような苦難を経て、最終的にどのようににして死に至ることになるのか、よくご存じでした。しかし、ここでイエス様は十字架の上での苦しみと死だけを見ているのではありません。そうではなくて、十字架を突き抜けて、死の向こう側を見ているのです。その死の向こうに、神の栄光を見ているのです。御自分が与るべく備えられている神の栄光を見ているのです。
天を仰いで祈っているイエス様の姿を思い描いてください。そこに確かに見えてきますのは、イエス様の内にある勝利の確信です。十字架の死は終わりではないとの確信です。十字架は十字架に終わらない。その最も惨めな死の姿は神の栄光へと続いているのです。イエス様がそのように確信しているのは、父なる神と一つであるからです。そうです、イエス様は確かに、私たちと同じ地上に生きて、父と一つであるということがどういうことかを見せてくださったのです。イエス様は、死に至るまで、ひたすら父なる神の名を呼びながら、父なる神に愛され、父なる神を愛して生きてこられたのです。
私たちはこの祈りに何度も繰り返される「父よ」という呼びかけに心を打たれます。今まで幾度となく繰り返されてきたであろう父への呼びかけ。それが十字架を前にしたこの祈りにおいて繰り返されます。「父よ」――なんと親愛の情にあふれた、揺るぎない信頼の言葉でしょう。この祈りに見られる、父と子の愛の交わり。まさに、そこにこそ、死によって奪われることのない永遠の命があるのです。イエス様は、いわばその身をもって、永遠の命が何であるかを見せてくださったのです。
そして、イエス様は身をもって永遠の命を見せてくださっただけでなく、その命を私たちに与えるために来られたのだということを、繰り返し語られたのでした。この福音書の様々な言葉が思い起こされます。主は言われました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:14)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。また、こうも言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10・10)。そして、キリストの与え給う「永遠の命」が何であるかを、主はこの祈りの中ではっきりと語っておられます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)。
知ること――それは単なる知的な認識ではありません。「知る」という言葉がしばしば旧約聖書において、夫婦間の交わりを表現するのに用いられていますように、その言葉は人格的な交わりを意味するのです。永遠の命とは、父なる神と子なる神が持っていた永遠の愛の交わりに、私たちも加えられることです。父なる神に愛され、父なる神を愛することです。イエス様に愛され、イエス様を愛することです。それが父なる神を知り、イエス・キリストを知るということです。そのように神に愛され神を愛して生きるところに真の命があるのです。いかなることによっても、何ものによっても奪われることのない命、死によってさえ奪われない命があるのです。主はその命を与えるために来られたのです。
私たちはまた、イエス様の言葉だけでなく、イエス様がなさった行為をも思い起こします。イエス様は病気で苦しんでいる人々に触れられました。苦しんでいる人々を癒されました。また、イエス様は飢えている人々に奇跡的に食べ物を与えられました。もちろん、人は永遠にこの地上に生きるわけではありません。癒された人も、やがては死んで行ったことでしょう。奇跡的に食べ物も与えられた人も、やがてはまたお腹をすかせたに違いありません。人は永遠に満腹しているわけではありませんから。しかし、イエス様が人々に触れられたとき、癒されたとき、癒された本人も、周りの人々も、実は癒し以上のものに触れていたのです。イエス様がパンを与えてくださったとき、食べた人々も配った弟子たちも、実はパンの奇跡以上のものに触れていたのです。それは、神の愛であり憐れみです。神が憐れみ深く御手を伸べてくださっている、その御手に触れていたのです。神が私たちを神との交わりへと招いてくださっている、その招きの呼びかけに触れていたのです。すなわち、永遠の命です。そうです、そのとき人々は永遠の命に触れていたのであり、永遠の命へと招かれていたのです。
永遠の命を与えるために
そのように、イエス様は永遠の命を与えるために来られました。そして、確かに永遠の命を与えることができると、イエス様は言っておられるのです。父がその権能をお与えくださったのだ、と。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」(2節)。
ここに「支配する」という言葉がありますが、これは原文にはありません。これは意訳です。ここで言われているのは、キリストが全ての人に及ぶ権威、力を与えられたということです。永遠の命を与える力を与えられたということなのです。それはなぜでしょうか。なぜイエス様は確信をもって「永遠の命を与える権威」について語り得たのでしょうか。
そこで重要なことは、イエス様に与えられていたのは、永遠の命を与える権威だけではない、ということです。「わたしは行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて地上であなたの栄光を現しました。」(4節)と語られていますように、主はこの地上において成し遂げるべき働きをも与えられていたのです。
では、成し遂げられなくてはならない働きとは何でしょうか。キリストはこの後、間もなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられます。その十字架の上でキリストが語られた言葉があります。いくつかありますが、ヨハネによる福音書だけが記録している言葉があります。それは「成し遂げられた」という言葉であります。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(19・30)。これが最後の言葉です。何が成し遂げられたのでしょうか。罪の贖いが成し遂げられたのです。
かつて、バプテスマのヨハネがキリストについて証して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1・29)。その証しの言葉のごとく、キリストは世の罪を自ら代わりに背負って死んでいく罪のない小羊となるべく、十字架への道を歩まれたのです。ここに言われている、「行うようにとあなたが与えてくださった業」とは、この十字架へと向かうキリストの御生涯なのです。私たちの罪の贖いのために、父なる神に対する完全な従順に生きられたその御生涯です。十字架の上で完成される罪の贖いのための御生涯です。
イエス様が持っておられた永遠の命を、私たちが得るためには、このイエス様の御業の完成がどうしても必要でした。なぜでしょうか。理由は単純です。イエス様と私たちの間には決定的な違いがあるからです。あの方には罪がありませんでした。私たちには罪があります。あのお方は、本当の意味で神の御前に清い御方でした。あの御方は父なる神にいつでもまっすぐに顔を上げられる御方でした。私たちは、本来そのような者ではありません。しかし、そのような私たちがなおも天に向かって顔を上げて、神に愛されている者として、神を愛して生きることを、神は望まれたのです。そのために、神はキリストに成し遂げるべき御業を託されたのです。罪を取り除く神の小羊として、罪の贖いを全うすることです。
そして、イエス様はその御業を成し遂げてくださいました。繰り返します。主はあの十字架の上で叫ばれたのです。「成し遂げられた」と。皆さん、罪の贖いは成し遂げられたのです。キリストが成し遂げてくださったのですから、それは完全です。もはや私たちが付け加える何ものもありません。ならば私たちはもう恐れる必要はありません。イエス様が身をもって現してくださった神の愛の中に、神の憐れみの中に、ただひたすら身を置いて生きたら良いのです。神に向かって顔を上げ、神の愛を信じて、神と共に生きたら良いのです。罪の贖いが成し遂げられているならば、神と私たちを隔てるものは、もはや何もないからです。
5月24日、ジョン・ウェスレーの回心記念日に、例年のように記念日礼拝が行われました。今年の礼拝では、その説教の中で、ウェスレーが88歳でこの地上の生涯を終えようとしていた、まさにその死の床において語ったとされる、次の言葉が紹介されました。「最もすばらしいことは、神が共におられることである (The best of all is, God is with us.)」。
人は様々なものを失いながら生きていきます。一つ一つ手放していかなくてはならない。一つ一つ奪われていくと言っても良いでしょう。最後に、死の床において、人はある意味で全てを手放さなくてはならないと言えるでしょう。しかし、本当はそうではないのです。人はそこにおいてもなお、最もすばらしいこと、最も善きものについて語ることができるのです。最もすばらしいこと――神が共におられること。そして、この最も善きものは、奪われないのです。そして、それが奪われないならば、本当は何も失ってはいないのです。
ウェスレーの表現を用いるならば、イエス様は、まさにその最もすばらしきこと、最も善きものを与えに来てくださったのです。主は父に確信をもってこう祈られました。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。