「赦されない罪とは」
2006年6月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 3章20節~30節
あの男は気が変になっている!
イエス様が家に帰って来られました。これはガリラヤ宣教の拠点となっていた家です。1章に出てきましたペトロとアンデレの家であると思われます。イエス様が帰って来たことが知れますと、またいつものように大勢の人々が集まってきました。すると、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」(21節)と書かれています。この身内というのは、31節に書かれているように、「イエスの母と兄弟たち」のことであろうと思われます。
取り押さえに来た理由は、「『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」と説明されています。ここは身内の人たちが言っていたように訳すこともできますし、一般的に「人々」が言っていたと訳すこともできます。いずれにせよ、イエス様は異常だと見なされたのです。なぜでしょうか。
ただ人が大勢集まっていたというだけならば、「あの男は気が変になっている」とは言われないでしょう。イエス様が癒しの行為をされたというだけならば、異常であると見なされることはなかろうと思います。「あの男は気が変になっている」と言われたのは、明らかにイエス様の宣教活動の内容そのものが極めて風変わりなものだったからに違いありません。つまりその宣教の内容と集まった人々の問題です。
まずイエス様の周りに集まっていた群集を考えて見ましょう。イエス様の周りには病人が大勢いました。手を置いて祈ってもらうためです。しかし、ペトロとアンデレの家に連れて来られたのは、病人だけではありません。1章32節には、「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」と書かれているのです。つまり連れて来られた人たちの中には、何かの力に支配されて、呪いの言葉を吐いたり、異常な行動を取る人々がいたということです。
いやそれだけではありません。後の宣教活動の様子を追ってみますと、イエス様の周りには罪人や徴税人たちも集まっていたのです。弟子の一人であるレビは元徴税人でした。彼の家で食事をした時のことが次のように書かれています。「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」(15節)。
これがイエス様のもとに集まっていた群集です。このような人々が、一つの家に詰め掛けていたのです。それは常識的ユダヤ人たちの目から見るならば、まさに異様な光景であったに違いありません。その真ん中にイエスがいるのです。ナザレのイエスという男がしていることは、どう見ても普通のユダヤ教のラビの活動ではありません。それゆえに、「あの男は気が変になっている」と噂されたのです。
しかし、群集もさることながら、さらに輪をかけて異常であったのは、イエス様の宣教の内容そのものだったと思われます。そもそも、どうして病人だけでなく、徴税人や罪人までがイエス様のもとに集まったのでしょう。これが律法を教えるユダヤ教のラビならば、彼らがそこに集まることは絶対にあり得なかっただろうと思います。また悪霊に取りつかれた人々についても同じことが言えます。それまで恐らく冒涜の言葉の数々を口にしてきた人々でしょう。しかし、人々は彼らをイエス様のもとに連れてきたのです。
なぜこのようなことが起こったのでしょうか。イエス様のもとになら行ける。イエス様のもとになら連れて行ける。そう思ったからでしょう。つまりイエス様の行為と言葉を通して神の恵みが現されていたのです。神とは縁がないと思っていた人々が、否むしろ、とうの昔に神から見捨てられてしまったと思っていた人々が、神の恵みに触れたからなのです。彼らは、自分を責め立て、断罪し、滅ぼそうとしている恐るべき神ではなくて、彼らを愛し、憐れみ、罪から解放し、彼らを救い、真の命に生かそうとしている神様に触れたのです。イエス様は、人々を癒されると共に、罪の赦しを宣言されました。御自分が罪を赦す権威を持っていることを主張されたのです(2:10)。そしてまたこうも言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)と。
しかし、いわゆる善良で敬虔なユダヤ人たちからすれば、これはまさに常軌を逸した行為と映ったことでしょう。神の律法を忠実に守って生きていると自負している人からすれば、悪い連中に罪の赦しなど宣言してもらっては困るのです。ましてや徴税人や罪人たちが神から赦されたと思って会堂に出入りするようにでもなったら大変です。さらに言えば、そもそも罪の赦しを宣言することは、自らを神と等しいものとすることに他ならないのです。ですから、人々は言ったのです。「あの男は気が変になっている」と。
イエス様の身内も、本当にその通りだと思ったのでしょう。だから取り押さえに来たのです。もう面倒をかけてくれるな。ユダヤの伝統を守る敬虔な一ユダヤ人でいてくれ、と。あるいは、このままではユダヤ人の指導者たちとの間にトラブルが生じることになるという懸念があったのかも知れません。ともかく家に連れて帰ろうと思っていたのでしょう。
サタンの家の略奪
もう一方において、イエス様の働きをあからさまに批判したのは、エルサレムから下って来た律法学者たちでした。彼らは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言って非難したのです(22節)。ベルゼブルというのは「家の主人」という意味ですが、それはここに書かれていますように「悪霊の頭」を指しています。つまり、イエス様の宣教活動は、悪霊の頭、ベルゼブル、すなわちサタンの働きであると断定したということです。
「ベルゼブルに取り付かれている」とは、ずいぶん酷いことを言ったものです。しかし、現実に私たちがその場にいたら果たして何と言うでしょうか。想像してみてください。一方において、律法を守り、秩序を重んじる集会がある。そこには神の律法を学び、それを実践して、正しい人間として生き、また正しいユダヤ人社会を形成しようとしている人々がいるわけです。もう一方において、これまで不正な利益をむさぼっていた徴税人たち、律法とは無縁に生きてきた罪人たち、売春婦たち、また、周囲の人々に散々迷惑をかけてきた悪霊に憑かれた人々などがごった返している家の集まりがある。――どちらが神様の集会らしいですか。一般的な常識からすれば明らかに前者だろうと思うのです。ならば、イエスの内に働いているのは神の霊ではない、ということになります。神の霊でなければ、悪霊の親分によって悪霊を追い出しているとしか言いようがありません。それが律法学者たちの主張だったのです。私たちならば、どう判断したでしょうか。その集まりを、神の霊の働きと見ることができたでしょうか。それとも「悪い連中が集まっているのだから、それは悪霊の働きだ」と考えたでしょうか。
そのように、イエスのなさっていることは悪霊の頭によるものだとする律法学者たちに対して、イエス様は語り掛けられました。「イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた」と書かれています。イエス様は彼らにこそ語りかけたかったのです。彼らにこそ、分かって欲しかったのです。主は言われました。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」(23‐26節)。これが一つ目のたとえです。要するに、サタンは内輪もめなどしない、ということです。サタンが内輪もめして自滅してくれたら、これほど有難いことはありません。しかし、どうもそうはいかないようです。
そして、イエス様がなさっていることについて、もう一つのたとえを用いて説明されました。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(27節)。ここでイエス様は御自分を強盗にたとえておられます。イエス様がしていることは、いわば略奪なのだ、と言っているのです。
誰の家に押し入るのでしょう。サタンの家です。先ほどベルゼブルとは「家の主人」という意味だと申しました。サタンは主人として、家財道具をしっかりと握っているのです。その家財道具とは人間です。サタンの力は、神から引き離す力です。人間はその力に捕らえられているのです。罪人も徴税人も悪霊に憑かれている者も、皆、その力に捕らえられ、神から引き離されて生きてきたのです。イエス様はそのような人々を、もう一度神の手に取り戻すために、強盗に入っているのだと言うのです。そして今、それらの人々が神の手に取り戻されつつある。それこそが、今ここで起こっている出来事なのだ、とイエス様は説明しておられるのです。
聖霊を冒涜する罪とは
そして、さらにこう言われたのでした。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(28‐29節)。今日の説教題はここから取りました。「赦されない罪とは」――このイエス様の言葉によるならば、聖霊を冒涜する罪です。それは何を意味するのかを、ここまでの流れを思い起こしながら考えたいと思います。
しかし、私たちはその前に、「赦される罪」について語られている言葉に耳を傾けなくてはなりません。もう一度お読みします。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」。考えてみますならば、「永遠に赦されない罪」があるということよりも、「すべての罪は赦される」というこの言葉の方が、よほど驚くべきことであると言えるでしょう。しかし、まさにこれこそがキリストの言葉と行為によって表されていたことなのです。人間が神の手に取り戻されるとはそういうことなのです。そこでは罪の赦しが前提とされているのです。人間は赦されて、神の御手の中に安心して帰ることができるのです。そして、徴税人も罪人も、それまでどんなに神に対して悪態をつき、神を冒涜する言葉を吐いていた人も、それこそ悪霊に憑かれていたような人も、神のもとに安心して帰って行ったのです。帰って行くことができたのです。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も赦されると主は言われるからです。
しかし、そのイエス様が、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われたのです。そのように主が言われた理由は、次のように記されています。「イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである」(30節)。これが聖霊を冒涜する(聖霊を汚す)ということの内容です。
何が問題であるかは明らかです。「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言うということは、イエス様の宣教活動が汚れた霊によると見なすということに他なりません。すなわちイエス様の言葉も行為を神からのものとして受け入れないということです。そのようにして、イエス様が示された神の愛も憐れみも、罪の赦しも、罪人の招きも、すべてを投げ捨ててしまうということです。すべての罪は赦されるのです。どんな罪人であっても、神は愛しておられるのであり、立ち返ることを望んでおられるのです。しかし、もし人がその神の憐れみも赦しも投げ捨ててしまうならば、誰も神に代わって赦すことはできないのです。ならば結果的には「永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」ことになるでしょう。
皆さん、神が人間を御自分の愛から締め出すのではないのです。神の愛を拒否することによって、人間が自らを神の愛から締め出すのです。罪人を招く神の愛の内に、本当はこの律法学者たちもまた招かれていたのです。しかし、彼らは神の赦しの言葉を喜べませんでした。なぜですか。我々はこの汚れた連中とは違う、と思っていたからです。そのようにして、自分を正しい者とし、イエス様の内に働いていた聖霊さえも汚れたものとすることによって、律法学者たちはまさに神の愛から自らを締め出そうとしていたのです。だからこそ、イエス様は彼らを呼び寄せ、語りかけられたのです。「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うことになる」と。これは断罪の言葉でも脅しの言葉でもありません。そうあってはならないという、イエス様の切なる呼びかけに他ならないのです。
今日は聖霊降臨祭です。弟子たちに聖霊が降って教会の宣教の働きが開始した日を記念して祝います。イエス様の内に働いておられた聖霊は、あの時から、キリストの体なる教会の内に、そしてキリストの体なる教会を通して、今に至るまで働いておられます。そして、世々の教会の宣教の働きを通して、私たちにもまた神の憐れみが示され、罪の赦しの言葉が語られ、神のもとに招かれたのです。私たちは、神の愛から自らを締め出してはなりません。聖霊を汚してはならないのです。