「奴隷の信仰・子供の信仰」
2006年6月11日 「花の日・子供の日」合同礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 8章15節
今日は、普段別々に礼拝をしている教会学校の子供たちとの合同礼拝です。この礼拝では特に教会学校の子供たちに向かってお話しをしたいと思います。ですので、教会学校の皆さんはよく聞いていてくださいね。もちろん、神様はここにいるすべての人に語りかけてくださいますので、大人もまた神様の語りかけをしっかりと聞き取ってください。
奴隷のような信仰者
それでは、今日特に心に留めたい聖書の言葉をもう一度お読みします。ローマの信徒への手紙8章15節です。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。
今お読みした御言葉の中に「奴隷」という言葉が出てきました。また「神の子」という言葉が出てきました。奴隷であることと、子供であることが対比されています。「神様はあなたたちを、奴隷のようなものにしたのではない。神様の子供にしてくださったのですよ」とパウロは言うのです。
この手紙が書かれた頃、奴隷と呼ばれる人たちがたくさんいました。奴隷は主人に従います。どうしてですか?言うことを聞かないと打ち叩かれるからです。痛い思いをするのはいやです。だから主人に従います。いつ打ち叩かれるか、ビクビクしながら言うことを聞いて一生懸命に働きます。これが奴隷と主人の関係です。
そのように、人間と神様との関係が奴隷と主人との関係のようになることがあります。神様の言うことを聞かないと打ち叩かれる。罰を与えられる。神様から呪われる。災いに遭う。神の国にも入れてもらえない。だから神様の言いつけを守る。いつ神様に怒られるか、ビクビクしながら神様に従う。――もしそうならば、それは奴隷と主人の関係でしょう。
神様との関係が、そのように奴隷と主人のような関係になっていると、見た目にはもしかしたらとても真面目で敬虔で立派な信者に見えるかもしれません。なぜなら、一生懸命に神様に従っているから。しかし、そこにはちょっと困ったことが起こってくるのです。
第一に、神様との関係が奴隷と主人のような関係ですと、神様を愛することができません。通常、奴隷というものは主人を愛してはいません。一生懸命に真面目に仕えていても、それは主人を愛しているからではありません。打ち叩かれることをいつも恐れている者が主人を愛することはできません。神様に対しても、そのようなことが起こってまいります。
そして、第二に、神様との関係が奴隷と主人のようですと、困ったことに、人をも愛せなくなります。真面目に働いている奴隷は、真面目に働かない奴隷が主人に打ち叩かれることを望みます。それと同じように、自分が一生懸命に神様のために働いていると思う人は、一生懸命に働いていない人のことが気になります。腹が立ちます。神様を恐れて、本当はいやなのに頑張って仕えている人は、神様を恐れずに平気でいる人が許せません。そのような人は呪われることを願います。災いよ降れ、と願います。神様に代わって審きを下したくなります。
また、そのように他の人を見る人は、自分もそのように見られているのではないかが、とても気になります。不真面目な奴隷と見られたくありません。ですから従っている振りをするようになります。形だけは神様の言葉を一生懸命に守りますが、心から神様に従っているわけではない、ということが起こってきます。そのようにして、神様を愛することからも、人を愛することからも遠ざかってしまうのです。
あなたがたの天の父は
そのような、見た目にはとっても敬虔で立派な人々でありながら、実は奴隷のような信仰者――イエス様の時代に、とても多かったようです。みんな一生懸命に神様の戒めを守っていました。神様の目を恐れて、そして人の目を恐れて。
しかし、そこに現われたイエス様は、そのような奴隷のような人々とはずいぶん違っていたのです。自由なのです。のびのびしているのです。神の目を恐れ、人の目を恐れてビクビクしていないのです。いやそれどころか、妙に親しく神様に語りかけて生きているのです。神様に対して、こんなふうに呼びかけていたのです。「アッバ、父よ」と。「アッバ」というのは、小さい子が「パパ」って言うのと同じです。お父さんへの呼びかけですね。神様に向かって「パパ」って呼びかけている姿は、どう見ても神様の奴隷じゃないでしょう。「パパ」と言っているのだから、神様の子供です。
やがてイエス様の周りに多くの人々が集まるようになりました。すると、イエス様はこんなお祈りを教えてくださいました。「天にましますわれらの父よ、願わくは、み名をあがめさせたまえ。み国をきたらせたまえ。みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ。われらの日用のかてを、今日も与えたまえ。われらに罪を犯すのをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」皆さんも良く知っている、主の祈りですね。なんと「父よ」ってお祈りしなさいと、イエス様は教えてくださったのです。「お父さん、ごはんちょうだい」って。
それから、イエス様はお祈りについて、このようにも教えておられました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7:7‐11)。
「あなたがたの天の父は」というイエス様の言葉をはじめて聞いた時、そこにいた人たちは驚いたに違いありません。「あなたがたの天の父って、もしかして神様のこと?そんなこと言ってもいいの?」とてもびっくりしたことでしょう。でも、本当にうれしかったに違いない。イエス様の周りには、病気の人が多かったのです。それまで酷い目に遭ってきた人、辛い思いをしてきた人も多かった。そんな人たちは、ずっと思ってきたに違いありません。「わたしは神様の言葉に従わなかったから、病気になったに違いない。神様の戒めを守らなかったから罰を与えられたに違いない」って。奴隷ならそうでしょう。打ち叩かれたとするならば、それはちゃんと働かなかったから、ということになります。
しかし、イエス様はそんな彼らに言ったのです。「あなたがたの天の父は!」と。あなたがたが病気になったのは、ちゃんと働かないから奴隷の主人である神様によって打ち叩かれた、というわけじゃない。そもそも、あなたがたは奴隷じゃない。神様の子供だ。「父よ」と呼んでいいんだよ。そう教えていただいたのです。そこにいた人々は皆、生まれて初めて、神様をお父さんと呼べることを知ったのです。そして、天のお父さんに、苦しいことも悲しいことも何でも話して、そして安心して何でも祈り求めて良いのだ、ということを知ったのです。
恵みによって養子とされて
さて、そのように、とかく神様を奴隷の主人のように考えてしまう私たちに、イエス様は神様の子供として生きることを教えてくださいました。しかし、私たちはここではたと考え込んでしまいます。どうしてこの私が神様を「お父さん」と呼べるのだろうか、と。
確かに、イエス様が「天にましますわれらの父よ」と祈りなさいと教えてくださったのです。それはとてもうれしいことではあります。しかし、それは決して当然のことではないようにも思います。皆さんはどう思いますか。神様を「お父さん」と呼べること、当たり前のことだと思いますか。イエス様が「父よ」と言ってお祈りしていた。それは分かるような気がいたします。イエス様はいかにも神の子らしい。しかし、私たちはどうでしょう。罪深い私たちはどう見ても神の子には見えません。私は自分を見るならば、やはり一生懸命に仕えたら御褒美をもらえるかもしれない、そんな奴隷の方が合っているような気がします。
そうです、実はそうなのです。私たちが神様を「父よ」と呼べるとするならば、それは決して当たり前のことではないのです。神の子供として生きることは、私たちの当然の権利ではないのです。
最初に聖書の言葉を読みました。もう一度お読みします。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。そのように、私たちは神の子とする霊を受けたのだ、神様が神の子としてくださったのだ、とパウロは言います。しかし、ここで「神の子」となっていますが、本当は「養子」という言葉が使われているのです。「養子にする霊を受けたのです」と書かれているのです。つまり、私たちが神様を「アッバ、父よ」と呼べるとするならば、それは当たり前のことではなくて、養子にしていただいたのだよ、と言うのです。神様の特別な恵みだということです。神様が私たちを特別に子供として受け入れてくださった、ということです。
では、神様はどのようにして、私たちを受け入れ、養子にされたのでしょう。――イエス様の十字架によってです。イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださることによってです。イエス様が私たちの罪をすべて負ってくださったゆえに、私たちは安心して神様の子供となることができるのです。神様に対して、「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。
私たちは、罪を赦されて神様の子供としていただいたのであるならば、もう奴隷のように打ち叩かれることを恐れて、ビクビクして生きる必要はありません。罰を恐れるゆえに一生懸命に仕える必要もありません。そうではなくて、神様の子供としてのびのびと、神様に向かって「アッバ、父よ」と呼びながら、祈りながら、子供としていただいたことを感謝して、天の父を愛する愛をもって、仕えていったら良いのです。それこそが、神様の望んでおられることなのです。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。