「弟子たちの派遣」
2006年7月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 6章1節~13節
今日の福音書朗読は、イエス様が十二弟子を宣教のためにお遣わしになったという話です。しかし、そこにはたいへん不思議なことが書かれています。主は弟子たちに「杖一本のほか何も持っていくな。パンも金も持っていくな」と命じられたのです。要するに、送り出す際に弟子たちの持ち物を全部没収してしまったということです。なんとも無茶な話です。弟子たちは近所にお使いにいくのではありません。何日も村々を行き巡る宣教の旅に出るのです。弟子たちにとって初めての経験です。しかもただでさえ困難が予測される旅であるのに、弟子たちをあえて無一文にして送り出されたのです。この無謀とも言える派遣は何を意味するのでしょうか。そのことを今日はご一緒に考えてみましょう。
二人ずつ組にして
この弟子たちの派遣において、まず目に留まりますのは、「二人ずつ組にして」なされたということです。二人組みで旅をすること自体は、ユダヤ人に一般的であった習慣です。私たちは、たとえば、エマオに向かう二人の旅人の話(ルカ二四章一三節以下)や、パウロがシラスを伴って伝道旅行をしたことなどを知っています。しかし、そこにはまたキリストの弟子の働きにおいて本質的なことが語られているとも言えます。イエス様は単独の個人的な働きを求められなかったということです。弟子たちが共に働くことを求められたのです。世に遣わされ、人々に仕える前に、弟子たちが互いに愛し合い、互いに仕えあうことを求められたのです。その意味でこの《二人組みの派遣》は教会の原型であると言えるでしょう。
とはいえ、そこには大きな困難があったに違いありません。なぜなら、弟子たちはもともと互いに惹かれ合って集まったのではないからです。イエス様によって集められたのです。ですから、そこには多様性があります。個々の弟子たちの背景には互いに相容れない要素もあるのです。例えば弟子の一人は「熱心党のシモン」です。熱心党はローマからの解放のために戦う民族主義的過激派です。しかし、弟子の中にはマタイ(またの名をレビ)もいるのです。彼はもと徴税人です。ユダヤの民族的な誇りを売り飛ばしてヘロデ家とローマに仕えていた人々です。いわば国粋主義者と売国奴が同居しているのがキリストの弟子の群れなのです。この二人に代表されているように、一癖も二癖もある連中が集められ、そこから二人組みで送り出されるのですから大変です。反りの合うペアなら問題ありませんが、恐らくそうはならないでしょう。いったいどうなるのでしょう。
しかし、彼らは送り出されるに際し、持ち物をすべて取り上げられたのです。直ちに困窮の中に置かれることは目に見えています。しかし、困難の中に置かれることは、必ずしも悪いことではありません。食べ物や持ち物があれば、争ってもいられますが、食べるものすらなくて困ったら、どうしても助け合わなくてはなりません。モノを持っている二人、強い二人の間には、容易に決裂が起こるものです。一人でもやっていけるからです。しかし、困窮している二人、弱い二人なら、そうはいきません。その意味で、“困窮”は愛し合うことを学ぶ最高の学校であると言うことができます。イエス様は彼らの持ち物を取り上げて、いわば彼らをこの学校に叩き込んだと言うこともできるでしょう。
そのようなことは、今日の教会においても起こります。私たちの日常の生活にも起こります。豊かさの中にあるゆえに愛が冷えてゆくなら、主はあえて私たちの豊かさを取り上げられます。困窮の中に置かれます。私たちが互いに愛し合い、助け合うことを学ぶためです。
人の世話になれ
そして、もう一つ明らかなことは、イエス様が弟子たちの持ち物を取り上げたことによって、弟子たちは全く神に寄り頼まざるを得ない状況に追い込まれた、ということです。杖一本で出かけるとなったら、神が養ってくださることを信頼して出かけるしかないからです。弟子たちは、いつにもまして真剣に「日ごとの糧を与えたまえ」と祈ったことでしょう。しかも、それぞれ二人心を合わせて!
しかし、その「日ごとの糧」はどのようにして与えられるのでしょうか。かつてのイスラエルが経験したように、天からマナが降ってくるのでしょうか。いいえ、イエス様はどうもそのようなことを想定してはいないようです。主は弟子たちにこう言われました。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」(10節)と。当時のユダヤ人社会においては、旅人を泊めたり、もてなしたりすることは、信仰的な美徳と考えられておりましたので、決して珍しいことではありませんでした。イエス様は、そのような習慣を背景として語っているのです。要するに、「誰もがするように、旅先で誰かの世話になれ」と言っているのです。
つまり弟子たちは神に信頼して出て行くわけですが、神の具体的な助けと養いは、天から直接降ってくるのではなくて、人間を通して与えられるということなのです。だから誰かの世話になれと言っているのです。しかも、その土地にいるかぎり、「その家にとどまるように」と言っている。安心して徹底的に世話になれ、と言っているのです。
しかし、このことはもう一つのことを意味します。神に寄り頼まざるを得ない状況に置かれただけでなく、彼らは人に対して身を低くせざるを得ない状況にも置かれたということです。これは彼らの宣教活動のあり方において、極めて大きな意味を持っていたと思われます。
想像してみてください。彼らは、神の国を宣べ伝えにいくのです。悔い改めと信仰を求めて神の言葉を宣べ伝えるのです。そして、病気の人に油を塗って癒しをなし、悪霊に憑かれている人を解放しに行くのです。そこで自分の働きが具体的に目に見える形で人々の助けになるのを見るならば、そして人々から数々の感謝の言葉を受けるようになるならば、どうなるでしょう。どうしても「我々は人々の救いのために何かを《してあげている》」という意識になってくるでしょう。
しかし、新しい村に足を踏み入れる度に、彼らは繰り返し身を低くせざるを得なくされたのです。まず泊めてもらわなくてはならない。食べさせてもらわなくてはならない。そのような弱い者として彼らは村に入っていくのです。無一文ですから、何をするにも助けが必要なのです。そのように、イエス様は、弟子たちが何かを与える前に、まず何かを受ける者とされたのです。言い換えるならば、上の者が下の者に何かを教えるかのように、あるいは強い人間が弱い人間を助けるかのように、弟子たちが村々に入っていくことを主はお許しにならなかったということです。伝道がそのような形でなされることを主は望まれなかったということです。
この弟子たちの経験は、私たちに大事なことを教えているように思います。使命感に燃えている人は、往々にして受ける側に身を置くことを嫌います。与える側だけに身を置こうとするのです。しかし、そこに落とし穴があります。以前、あるボランティア団体の集まりでお話をするために行ったことがあります。そこに集まっていたのは、長年人々のために尽くしてきた人たちでした。しかし、少なからぬ人がこう言っていました。「わたしは人のお世話にはなりたくない」と。それが印象的でした。やはり何かがおかしいと言わざるを得ないでしょう。
「わたしは人の世話にはなりたくない」「わたしは人に迷惑はかけたくない」――いつの間にか私たちも口にしているかもしれません。しかし、与える側にばかり身を置きたがる人は、本当の意味で人と共に生きることができないのです。同じ人間として、同じ地平に立って、他者と大切なものを分かち合うことができません。そういうものです。人の世話になりたくない人は、おそらく良き神の働き人にはなれないのです。
これはまた身近な人に福音を伝えることにおいても言えるでしょう。ここに集っている人の中には、家族で独りだけのキリスト者という方も少なくないでしょう。ご家族に神様の恵みを伝えたい、福音を伝えたいと思っているに違いありません。しかし、もしかしたらその前に、まず家族に「助けてください」と素直に言える人にならねばならないのかもしれません。知らず知らずに自分を上に置いていることが、しばしば福音宣教の妨げになっていることがあるからです。
御力は弱さの中にこそ現われる
さて、そのように弟子たちは、弱い者、助けを必要とする者として村に入っていくことを強いられました。もはや彼ら自身が権威ある者のように、上に立つ者のように振舞うことはできません。しかし、そこにおいてもう一つ大事なことが見えてまいります。つまり人間が権威をもって振舞えなくなったところにおいてこそ、人間の権威とは異なる神の言葉の権威が現われるということです。他の人から助けていただかなくてはならない弱い存在となったときにこそ、人間の能力とは異なる神の力が現われるのです。
12節を御覧ください。彼らは物乞いのような仕方で村に入って行ったにもかかわらず、そして事実人々のお世話になっていたにもかかわらず、その働きについてはこう記されているのです。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(12節)と。
多くの悪霊が追い出された。多くの病人がいやされた。それは何を意味しますか。その前に、人々の間に悔い改めが起こったということです。信仰が起こったということです。信仰のないところにおいては、イエス様でさえ力ある業を為しえなかったのですから(6:5‐6)。人々は弟子たちの言葉を受け入れ、福音を信じたのです。これが福音そのものの力によることは明らかでしょう。それは弟子たち自身、自覚できたであろうと思います。なぜなら、物乞いの姿である弟子たち自身は、人々の目に好ましい要素は全くないのですから。受け入れられたのは弟子たちそのものではない。神の言葉が受け入れられたのだ、と言わざるを得ないわけです。そして、誰かが悪霊から解放されるなら、それは弟子たち自身の力によるのではなく、イエス様が与えてくれた「汚れた霊に対する権能」(7節)によるのだと自覚せざるを得なかったに違いありません。誰かが癒されるならば、それは自分の力ではなく神の霊の働きであると認めざるを得ないのです。弟子たちは、自分自身としては人々に提供できる何ものをも持っていないのですから。
教会が、本当に神からのものを手渡しているのか、それとも人間が提供できるものしか手渡していないのか、教会に現われているのは本当に神の言葉そのものの力であり権威なのか、それともただ人間の能力や権威だけが現われているのか、私たちはよくよく省みなければなりません。私たちが遣わされて伝道する時、そこに働いているのは神の力なのでしょうか。それとも単なる人間の力なのでしょうか。もし、人間の提供するもの、人間の力の現われしか見られないとするならば、もしかしたら私たちは色々なものを持ちすぎているのかもしれません。ならば、あの弟子たちのように、イエス様によって没収してもらう必要があるのです。そして、あの弟子たちのように、本当に神に祈り求め、神に寄り頼むところから、始める必要があるのです。
あるいは逆のことも言えるかもしれません。私たちは、毎週の礼拝において祝祷を受け、この世に遣わされてまいります。しかし、もしかしたら、自分の弱さ、自分の無力さ、自分の貧しさを思いながら、そして一週間の歩みに大きな不安を覚えながら、ここから出て行くことになるかもしれません。しかし、私たちは恐れる必要はないのです。あの弟子たちは、杖一本のほか何も持たずに、貧しい姿で出て行ったのです。おそらく大きな不安を抱えたまま!しかし、そのような彼らを通して神の御業が現われました。私たちも期待してよいのです。主の恵みは私に対して十分である。主の力は弱いところに完全にあらわれる、と。