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「キリストによる開眼」

2006年7月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 8章22節~26節

 今日の福音書朗読は一人の盲人が癒されたという語です。その人は明らかに生まれながらの盲人ではありません。後でこの人が、「人が見えます。木のようです」と言っていることから分かります。人生の途上で視力を失うこと、それは実に悲しく辛いことであったに違いありません。しかも、当時の社会は、そのような人々が今日と比べて遥かに生きにくい社会でありました。生活が困難であるというだけではありません。目が見えなくなれば、宗教的な人々の中には必ずこう口にする人がいるのです。「彼が目が見えなくなったのは、誰の罪のゆえか。本人の罪か、両親の罪か」と。しかし、幸いなことに、彼の周りにはそんな人々ばかりではありませんでした。彼と共に生きようとする人もいたのです。彼の幸いを願い、彼を支える人たちがいたのです。そのような人々が彼をイエス様のもとに連れて来たのです。そして、その人に触れていただきたいと願ったのです。

 「触れていただきたい」というのは、もちろん「癒していただきたい」という意味です。見えない目が癒されるという話は、この福音書には二回出てきます。一つはここ。もう一つは10章の終わりです。10章ではバルティマイという盲人が癒されます。バルティマイの場合には、イエス様はただ「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われるだけです。それで盲人はすぐ見えるようになりました。しかし、今日の箇所は違います。人々は「触れていただきたい」と言ってその人を連れて来たのです。そして、イエス様が実際に彼に「触れる」イエス様が描き出されているのです。バルティマイの時と同じ目の癒しの奇跡なのですが、明らかに強調点が違います。今日は特に《触れてくださるキリスト》に思いを向けましょう。

その目に唾をつけ

 イエス様はこの人の手を取って、村の外に導いていかれました。今まで頼りにしてきた人々、ここまで連れてきてくれた人々から引き離されます。きっとそこには不安があったに違いありません。恐れもあったことでしょう。しかし、しっかりと握ってくださるイエス様を頼りに、彼は歩いていきます。その手にイエス様の御手の力とぬくもりを感じながら、彼は歩いていきます。

 やがてイエス様が立ち止まりました。既に村の外にまで出ていることをこの人は感じ取ったことでしょう。主はこの人と向き合います。すると主は突然、この人の目に唾をつけ始めます。さらに「両手をその人の上に置いた」と書かれています。目の上に両手をあてたのでしょう。そして主はこう言われたのです。「何か見えるか」と。

 イエス様が唾をつけたという話は7章にも出てきました。その時に連れて来られたのは、耳が聞こえず舌の回らない人でした。イエス様は、「唾をつけてその舌に触れられた」(7:33)と書かれています。このような箇所を読んで奇異に感じる方もおられるでしょう。何かまじないのような行為のように思うかもしれません。しかし、私はこのような箇所を読みますと、なぜか自分の幼い頃を思い出すのです。外で遊びまわってはしょっちゅう転んで膝小僧をすりむいて帰ってきたものでした。すると私の祖母が「痛くない、痛くない」とか言いながら、傷に唾をつけてくれるわけです。もちろん後で赤チンなどを塗って消毒するのですが、それは“おばあちゃん”が唾をつけてくれるのとは意味が全く違うのです。ある意味で、赤チンを塗る前に、もう癒されているのです。分かりますか。まだ血が出ていても、既に祖母の愛情で癒されているのです。そんな祖母の姿が、ここで病める人に触れておられるイエス様の姿が重なります。

 傷口に唾を塗ることは、古来からどこにでも見られる習慣でした。唾には殺菌作用がありますから。しかし、目に塗ったとしても効きません。子供でも分かります。この人だって唾が目に効くとは思っていないでしょう。しかし、そんなことはどうでも良いのです。確かに奇妙な行為かもしれないけれど、この人はその指先の動きを通して、自分に関心を持ち、この苦しみを理解し、癒そうとしてくださる御方に触れているのです。

 この人にはイエス様は見えません。その表情も、その眼差しも見えないのです。しかし、この人には分かったに違いありません。イエス様がどんな表情で、どんな眼差しで、今自分に向かってくださっているか。親が幼いわが子の傷に触れて癒すように、自分の目に触れてくれているイエス様の指先。そして自分の両目の上に置かれたイエス様の手のひらの温かさ。その手を通して、この人はイエス様の慈しみに触れていたのです。そして、イエス様の手を通して、彼は自分の上に確かに注がれている神の愛に触れていたのです。その神の愛がその人の目を開いたのです。

もう一度両手を当てられると

 しかも、この聖書箇所は、イエス様が再度手を置かれたことを伝えています。この人が何でもはっきり見えるように、繰り返しその目に触れられるのです。そのような奇跡物語は、他にはありません。ですから25節の「もう一度」という言葉が、この箇所ではとても重要なのです。

 良く見えなければ「もう一度」手を置かれるイエス様。愛の御手をもって、もう一度触れてくださるイエス様。そのようにして繰り返し触れられて一人の人の目が開かれた。その出来事を、キリストの弟子たちは他人のことのように思えなかったに違いありません。ですから、この話が大事に語り伝えられたのでしょう。実際、それは弟子たちの経験でもあったのです。

 今日の朗読は22節からでしたが、実はこの話の直前には、《目の見えない弟子たち》の姿が描かれております。イエス様は弟子たちにこう言っておられるのです。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(17‐18節)と。彼らはパンのことで議論していたのです。一つしか持っていなかったから。彼らは既に二度もパンが与えられるという奇跡に触れていたはずでした。しかし、いざとなると神の恵みを覚えていない。もう既にメシア・救い主と共にいるのに、既に圧倒的な神の愛の支配の中にあるのに、もう救いは訪れているのに、そのことを見てきたはずなのに、弟子たちにはまだそのことが見えていないのです。ですからイエス様は彼らに言うのです。「まだ悟らないのか」と。

 この福音書を読みますと、そのような悟らない、見えない弟子たちの姿が、全体を通して描き出されていることが分かります。今日の聖書箇所の直後もそうです。そこにはペトロの信仰告白が記されています。彼はイエス様に言いました。「あなたは、メシアです」(29節)と。そのように、確かに弟子たちには見えはじめていることがあるのです。しかし、それは「人が見えます。木のようです」という程度のことでしかありません。ほとんど見えていない。ですから、「あなたは、メシアです」と言ったペトロが、そのすぐ後でイエス様に叱られています。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(33節)と。

 そして、やがて弟子たちの無理解と弱さが完全に暴露されるときが訪れます。イエスが捕らえられたとき、皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。ペトロにせよ、他の弟子たちにせよ、ほとんど何も見えていなかったことが明らかになるのです。しかし、イエス様はそのような弟子たちに触れ続けられたのです。繰り返し手を置かれたのです。逃げてしまった弟子たちは、それで終わりではありませんでした。それで終わりなら、今日この世に教会は存在しないでしょう。主はあの弟子たちにもう一度現われてくださいました。いわばもう一度彼らに触れられたのです。いや、それだけではありません。さらに彼らに聖霊を注ぐという形で、決定的に触れてくださったのです。

 そのように、イエスの弟子たちにとって、あの盲人の癒しは、ただ一人の人がイエス様によって癒された奇跡のエピソードに留まらなかったのです。その盲人の姿は、弟子たちの姿でもあったのです。

今も触れてくださるキリスト

 さらに言うならば、それはこの地上において直接イエス様に触れた弟子たちだけに限ったことではありません。この物語が世々の教会において読まれてきたのはなぜですか。あれから二千年後の日本の教会において読まれているのはなぜですか。それは、キリストが今も私たちに触れてくださる御方であるからに違いありません。私たちが見えるようになるために、その御体をもって触れてくださるのです。復活したキリストの体はどこにありますか。ここにあります。キリストの体は教会です。

 キリストは教会という体を通して私たちに触れてくださいます。キリストは、洗礼の水を通して触れてくださいます。聖餐のパンと杯を通して触れてくださいます。御言葉の説教を通して触れてくださいます。教会における出会いと交わりの中で、共に祈り讃美を捧げる中で、互いに仕え合う中で、互いに愛し合う中で、キリストは私たちに触れてくださいます。キリストは、今も私たちに触れ続けてくださるのです。私たちが見えるようになるために。キリストによって既に現された完全な神の愛が見えるように、神の救いが見えるように、私たちが既に神の大いなる恵みの中にあることが見えるように、私たちの手を取って導き、私たちと真実に向き合い、そして私たちに触れてくださるのです。「何か見えてきたか」と問いながら、繰り返し御手を置いてくださるのです。

 そこで二つの大事なことがあります。一つは、イエス様が御手を置かれたのは、その見えない目の上であったということ。イエス様が唾を塗られたのも、その目の上でした。彼の最も弱き部分にイエス様は触れられました。彼の悲しみ、不安や恐れ、それらすべて結びついているその最も弱き部分が、イエス様との接点になりました。最初の弟子たちにしてもそうでした。世々のキリスト者もまた、そのことを経験してきたのです。それゆえに、私たちもまた、私たちの最も弱い部分をそのまま携えて、ここに集まるのです。私たちの苦しみも、嘆きも、辛さも、「わたしのここが大嫌い!」という部分も何もかもそのまま携えて、主のもとに集まるのです。私たちがイエス様の御手を感じることができるのは、私たちの最も弱いところにおいてです。

 そしてもう一つ。彼はおぼろげに見えてきたときに、こう言いました。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」(24節)。それを聞いて、イエス様はもう一度両手をその目に当てました。すると、「よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」(25節)と書かれております。「よく見えてきて」と訳されていますが、もともとは「ひたすら見つめる」という意味の言葉です。聖書協会口語訳では「盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした」となっていました。彼はそのように、見え始めたものを一心に見つめていたのです。するとさらにはっきりと見えてきたのです。

 確かにこの人が見えるようになったのは、イエス様がこの人の目を開かれたからです。それは主の御力によるのであって、この人の努力によるのではありません。しかし、この人はおぼろげに見え始めたものをはっきりと見たいと願い、見え始めたものをひたすら見つめていたのです。そしてやがて見えてきたのです。見え始めた神の愛、神の救い、そこから目を逸らしてはなりません。見たい!もっと見えるようになりたい!そのことを願い続けることです。やがてはっきりと見えるときが来るまで、そのことを願い続けて、一心に目を注ぐのです。そのように見えるようになることをひたすら願いつつ、もっともっとイエス様に触れていただきましょう。

 
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