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「ナルドの香油」

2006年9月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 14章1節~9節

 「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(9節)。イエス様が言われた通りになりました。その人のしたことは、極東の小さな島国にまで、語り伝えられることになりました。今日の福音書朗読でお読みした話です。まことに不思議なことであると言わざるを得ません。それは社会を揺るがすほどの大事件ではありませんでした。ニュースバリューのある出来事にも思えません。しかし、事実それは語り伝えられて私たちの耳にも届いているのです。時間的にも空間的にも遠く離れた私たちにとって、その人のしたことはいったいどんな意味を持っているというのでしょうか。

美しい行為?

 はじめに3節をお読みします。「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(3節)。

 これが「この人のしたこと」です。場面を想像してみてください。食事中です。そこに香油の壺を持ってきた女性が入ってきて、いきなりイエス様の頭に香油を注ぎかけました。チョロチョロと少しばかり注いだのではありません。壺を壊して、中に入っていた香油を全部注いでしまったのです。これがどのような事態を引き起こすか、容易に想像がつくでしょう。食事をしていたイエス様の髪の毛も髭も衣服も香油でベタベタになったに違いありません。そして、香油が食事の中にまで滴り落ちていたことでしょう。ご馳走も台無しです。そもそも香油は頭から全部を注ぎかけて使うようなものではありません。その部屋一杯にむせ返るような香油の匂いが充満していたことでしょう。もはや食事どころではありません。イエス様にとって、実に迷惑な行為です。もちろん、食卓に着いていた周りの人々にとっても、はなはだ迷惑な話です。

 この人はいったい誰なのか。何故このようなことをしたのか。マルコによる福音書には何も説明がありません。確かに後でイエス様はこう言いっておられます。「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(8節)。しかし、まさかそれがこの女性の意図したことではないでしょう。通常は死んだ人に香油を塗って葬るのであって、生きている間に香油を注いで葬りの準備をするなどという話は聞いたことがありません。ということで、なぜこの人がこのような非常識な行動を思い立ったのか、よく分からないのです。

 とはいえ、分かることもあります。香油は決して安くはないのです。高価なものです。それをどのような形であれ、全部イエス様のために使ってしまったということは事実です。言い換えるなら、イエス様に差し上げてしまったと言ってもいいでしょう。イエス様のためならば、どんな高価な香油であっても、それを使い尽くして少しも惜しいとは思わなかったのです。それはイエス様に対する精一杯の愛の表現であり、神の愛をもって愛してくださった救い主に対する精一杯の感謝の表現であったに違いないと思うのです。

 しかし、その人の意図が何であれ、それが非常識な行動であることは否めません。そのような非常識な行動を取るならば、非難は免れません。次のように書かれています。「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた」(4-5節)。

 もっともな非難です。どう考えても勿体ない。300デナリオンと言えば普通の労働者にとって約一年分の労賃です。今のお金にすれば数百万円というところでしょう。それが一瞬にして流れ去ってしまったのです。しかも、その結果は客観的に見るならば、当のイエス様にとっても、周りの人々にとっても、迷惑以外の何ものでもありません。先ほど、これは彼女の精一杯の愛と感謝の表現であったに違いないと申しました。しかし、感謝の表現ならば、もっと思慮に富んだ方法がいくらでもあったはずです。私たちがその場にいたならば、人々と一緒になってこの女性を責めていたのではないでしょうか。

 しかし、人々が口々に彼女を非難している中で、イエス様はこう言われたのです。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(6節)。なにか、この光景が目に浮かぶような気がしませんか。ベタベタになった頭を拭いもせずに、髪の毛と髭から香油をポタポタ垂らしながら、イエス様は困った顔一つされないで言われたのだと思います。「いいじゃないか。なぜ、この人を困らせるのか。この人はわたしに良いことをしてくれたのだ」と。この「良いこと」という言葉は、別の言葉に訳すならば「美しいこと」となります。主はこの女性の行動を「美しいこと」と表現されたのです。

ただ恵みによって

とは言いましても、私たちはここで、この女性の行為そのものを殊更に美化することは差し控えなくてはなりません。確かに彼女が注いだ香油は高価なものでした。それを彼女は惜しまずに主に捧げました。残らず捧げ尽くしました。だから、きっとその心はひたむきであり、純粋であったのだと私たちは想像いたします。実際には、聖書は一言もそのようなことを言ってはいないのに、いつの間にか私たちは、心が純粋で美しい女性を勝手に思い描いているものです。そして、その美しい人がとてもとても美しい行いをしたかのように思い描いてしまうのです。

 しかし、先ほど見ましたように、客観的に見るならば、彼女のしたことは決して美しい行為などと言えるものではないのです。愚かで非常識極まりない、しかも他の人にとっては実にはた迷惑な行為でしかないのです。この家のシモンはどうするのですか。少なくともむこう一ヶ月はこのむせ返るような香油の臭いの中で生活しなくてはならないでしょう。この人の愛は純粋だったのでしょうか。確かにそうとも言えるでしょう。しかし、見方を変えるならば、それは自分の思いばかり先走って相手のことや周りのことを考えられない、まことに幼稚な自分本位の愛の形であると言うこともできるでしょう。

 もっとも、私たちは他人のことをとやかく言える者ではありません。確かに彼女に見るのは実に極端な姿です。しかし、それほど極端ではないにせよ、似たようなことは私たちの日常においていくらでも見られます。「この人のために」と思って一生懸命に動き回っているとき、実際にその人のためになっているのでしょうか。世のため人のためにと言って動き回っているとき、実際に世のため人のためになっているのでしょうか。実際には、自分の感情ばかりが先走り、相手を思いやれないために、相手のためになるどころか、相手を傷つけ、周りを傷つけ、まったく迷惑にしかなっていないということがいくらでもあるのではないでしょうか。

 そして、同じことはイエス様に対して私たちがしていることについても言えます。私たちは「イエス様のために」とも言うのです。いや口にするだけでなく、本当に心から「イエス様のために」と思って何かをしているかもしれません。しかし、イエス様から見れば、まったく見当はずれなことをしているかもしれない。そう思いませんか。キリストの御心には無頓着なまま、本当にイエス様がして欲しいと思っているかどうかを考えずに、ただ自分の思い込みによって走り回っていることが、いくらでもあろうかと思うのです。

 私たちの捧げる礼拝や奉仕はどうでしょう。それこそ一生懸命に準備をし、純粋な心をもって《立派な》礼拝を捧げているつもりでいるかもしれません。一番思い込みの激しいのは牧師です。一番キリストに仕えているつもりになっているものです。しかし、どんな奉仕でもそうだと思うのですが、恐らく人間のやることは、本当はイエス様の頭に香油をかけてベタベタにするようなことしかしていないのだろうと思うのです。  しかし、そのような私たちに、今日の御言葉は与えられているのです。イエス様はこう言ってくださった。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」。??本当に重要なのは、この人の注いだ香油が高価であったことではないのです。その人がひたむきな純粋な心を持っていたことでもないのです。《この人が》どうであったかが重要なのではないのです。《イエス様が》本当は愚かでしかないその行為を、「美しい行為」と見てくださった、そして受け入れてくださったことが重要なのです。それはただただキリストの恵みなのです。

 私たちはここに、人間の愚かな奉仕をもまた喜んで受け入れてくださる主の恵みを見ているのです。キリストがただその恵みにより「良いこと」「美しいこと」と呼んでくださる。そこにこそ、私たちもまたイエス様に仕え得る根拠があるのです。イエス様は、8節でこの人について、「この人はできるかぎりのことをした」と言っておられます。イエス様が、そのように受け入れてくださる。だから、私たちは安心して、「できるかぎりのこと」をしたらよいのです。

埋葬の準備として用いられた奉仕

 そして、その女性の「できるかぎりのこと」について、イエス様はさらにこう言われました。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(8節)。

 これまでに主は度々御自分の受難について予告して来られました。ここでも主は「わたしはいつも一緒にいるわけではない」(7節)と語っておられます。明らかに主は御自分が十字架につけられる時の近いことを思いつつ、これを語っておられるのです。つまりイエス様は十字架に向かっておられる御方として、この女性の行為を受け入れられたのだ、ということです。

 この人はイエス様の言葉に当惑したに違いありません。まさか自分がイエス様の埋葬の準備をしているなどと、夢にも思っていなかったでしょうから。埋葬の準備だなんて、冗談にもそんなこと仰らないでください!この人は心の内でそう叫んでいたかもしれません。 しかし、イエス様の言われたことは正しかったのです。この人以外に、主の御体に香油を塗ることのできた人は、ついに一人もいなかったのです。イエス様が処刑されたのは安息日の前日であり、日が沈む前に大急ぎで取り降ろされ、ただ亜麻布で包まれただけで香油を塗られることもなく葬られました。安息日が明けて、女たちが香料をもって墓に行った時には、既に主イエスは復活してそこにはいませんでした。ですから、この人こそ、イエス様の体に香油を塗った唯一の人だったのです。

 この女性の一見非常識極まりない行為は、この人の思いを越えて、確かにイエス様を葬る準備となりました。そのような奉仕として、彼女の行為は神のご計画の中で用いられたのです。この人にすぐれた洞察があったからではありません。この人のあずかり知らぬところで、ただ神の恵みによって、この人のしたことがキリストの死の準備として用いられたのです。そのような形で、キリストの十字架とそこにおいて実現する救いを指し示すしるしとなったのです。そして、ただそのことのゆえに、主はこう言われたのです。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と。

 このことは私たちにとって大きな希望でもあります。彼女の行為が用いられたように、私たちの愚かな奉仕もまた、主の恵みによって、主の救いを指し示すものとして、用いていただけるのです。私たちの思いを遙かに超えた仕方において用いていただける。その希望を抱きつつ、これからも主に仕えていきたいと思います。安心して、私たちの「できるかぎりのこと」をお捧げいたしましょう。

 
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