「最後の晩餐」
2006年10月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 14章10節~25節
10月第一主日は「世界聖餐日」です。この日、世界のあらゆる国々の教会が、互いにキリストによって結ばれていることを思いつつ聖餐を行います。この日は、毎週行っている主の日の礼拝とはどのようなものであるかを改めて思い起こさせてくれる日でもあります。私たちは毎週ここに集まる130人ほどの人々だけで礼拝しているのではありません。丸一日かけて行われる世界に広がる大きな主の日の礼拝に参加しているのです。
この日、世界中の国々で行われます聖餐は、ご存じのとおりイエス様が弟子たちと食されたいわゆる《最後の晩餐》に由来します。今日の福音書朗読では、その最後の晩餐の場面が読まれました。これはイエス様が十字架につけられた金曜日の前日《聖木曜日》の出来事です。
私は今「前日」と申しましたが、実はこれは正確な表現ではありません。確かに、私たちの暦ですと、夜の12時で日付が変わりますから、最後の晩餐はイエス様の処刑の「前日」に当たります。しかし、ユダヤの暦ですと一日は夕暮れから始まるのです。日没と共に新しい日になるのです。ですから、最後の晩餐とイエス様の十字架刑は、実は同じ日の出来事になるのです。いわばあの晩餐は、御受難の日のスタートに当たるのです。
過越の食事
12節を見ますと、弟子たちが「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」とイエス様に尋ねています。この晩餐は、通常の食事ではなく、「過越の食事」という特別な食事であったことが分かります。
「過越(祭)」というのは、ユダヤ人が祝います三大祭りの一つです。今日でもユダヤ人は過越を祝い、過越の食事をいたします。過越祭の起源はモーセに率いられてイスラエルの民がエジプトを脱出した時にまで遡ります。今日の第一朗読では、その出来事を伝える出エジプト記が読まれました。今日の聖書箇所にありましたように、エジプト脱出の際、主はモーセを通してイスラエルの民にあることを命じられたのです。もう一度お読みします。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」(出エジプト記12:21‐23)。
これが過越祭の由来です。エジプト脱出の際、羊が屠られ、その血が鴨居と柱に塗られました。その出来事を記念して、イエス様の時代にも同じように、羊が屠られ、その血が鴨居と柱に塗るということが行われていたのです。そして、その犠牲の羊をみんなで共に食べる。これが過越の食事です。
「過越」―ユダヤの言葉ではペサハと言います。日本語訳のとおり、「通り過ぎる」とか「過ぎ越す」という意味です。何が過ぎ越したのでしょうか。裁きが過ぎ越したのだ、というのです。だから「ペサハ・過越」なのです。血がしるしとなって裁きが過ぎ越す。裁きが過ぎ越して救いが臨む。そのようにしてイスラエルの民は救われたのです。そのことを記念する食事、それが過越の食事なのです。
先日、青年たちの幾人かとパッションという映画を見ました。キリストの受難の一日を描いた映画です。ご覧になった方はご存じのとおり、目を覆いたくなるような言葉を失うような悲惨なシーンが続きます。現実に起こったことは、もっと酷いことだったのかもしれません。しかし、あの受難の日は、裁きが過ぎ越し救いが訪れたことを記念する過越の食事から始まったのです。このことを思いつつ、今日の聖書箇所に目を向けてまいりましょう。
神が準備された特別な過越祭
12節からお読みいたします。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています。」すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい』」(14:12‐15)。
イエス様のこの言葉は、エルサレムにおいて過越の食事をするということが、いかに危険な状態にあったかということを示しています。私たちは、この言葉の示す緊迫した状況がなかなか理解できませんが、例えば弾圧を経験してきた中国の「家の教会」の人たちなどはこれが感覚的に理解できると言います。実際、当局の目を逃れて人々が集まるためには、このような目印を使うのだというのです。その人が何かを持って立っているから、その人について集会の場所に行きなさい、と。そのようにして、皆が集まるのです。
水がめを運んでいる男、それは目印なのです。普通は水くみは女の仕事なので、水がめを運んでいる男はそういるものではありません。だからすぐにその人であると分かります。ですから、その男に何も言わずについていく。そうすれば怪しまれずに過越の食事が出来る場所に着くことができるのです。
しかし、実はこのイエス様の言葉は、もっと重要な一つのことを示しております。それは、イエス様御自身が、既に過越の食事の「時と場所」を用意してくださっていた、ということです。弟子たちが水がめの男についていくならば、用意されている一つの家に着くのです。そして、そこには「席が整って用意のできた二階の広間」が既にあるのです。その場所は、既にイエス様が家の主人と申し合わせて用意しておられるのです。
イエス様が既にその「時と場所」を用意しておられる。それは何を意味するのでしょうか。この最後の晩餐である過越の食事だけではありません。実は、そこから始まる受難の出来事のすべてが、主によって備えられたものであることを指し示しているのです。主によって備えられた特別な過越祭が、今まさに始まろうとしていたのです。本当の過越祭、この人類の歴史の中でただ一度行われる、特別な過越祭が始まろうとしていたのです。それは、神の御子が過越の犠牲として屠られる過越祭です。小羊の血ではない、神の子の血によって、神の裁きが過越して救いが臨む、そのような過越祭が始まろうとしていたのです。そのような過越祭のために、主は既に備えをしておられたのです。イエス様はこの時およそ三十歳でした。いわばそれまでの約三十年をかけて、主はその特別な過越祭を準備してこられたのです。
いや、さらに言うならば、千何百年に渡るイスラエルの歴史そのものが、その備えであったのです。旧約聖書に記されている、長いイスラエルの歴史を通じて、神御自身がその一回限りの特別な過越祭のために備えてこられたのです。そのような特別な過越祭が今まさに始まろうとしている。それがこの「最後の晩餐」と呼ばれる場面なのです。
神の国で新たに飲むその日まで
さらに食事の席に目を移しましょう。そのような食事の席で、主は言われました。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(22‐24節)。
主がそのパンと杯を用いて語っておられるのは、その数時間後にいったい何が起こるのか、ということです。イエス様が裁かれ、十字架にかけられて殺されること、すなわち神の御子が過越の犠牲として屠られることについてです。それは神の子自らが「わたしの体だ。わたしを食べなさい」と自らを裂いて渡されるということに他なりません。主はそのような過越の食事として、自分自身を私たちに渡されたのです。
そして、主はさらにこう言われました。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(25節)。
この食事は「最後の晩餐」と呼ばれます。しかし、それは実は「最後」ではないのです。主は十字架における御自分の死を思いつつ、御体と御血について語られました。しかし、その目はただ十字架に向けられているのではなく、「神の国で新たに飲むその日」に向けられているのです。ですから、この食事は最後ではないのです。「また共に食する時が来るのだ」と主は言っておられるのです。
実際、イエス様は三日後によみがえり、弟子たちと再び食事を共にすることになります。しかし、ここで主が語っているのは、復活後の食事のことではありません。それはまだ雛形に過ぎません。今日においても聖餐が繰り返されます。今日も聖餐が行われます。これは復活のキリストとの食事です。しかし、これもまだ雛形に過ぎません。あの時、イエス様の目は「神の国で新たに飲むその日」に向けられていたのです。それは神の国の祝宴です。神が完全に支配し、神の愛が満ち溢れ、神の喜びが満ち溢れる、神の国の祝宴です。
神の御子は、確かに罪に満ちたこの世界のただ中で十字架にかけられました。まことの過越の犠牲は、この真っ暗闇の世界のただ中で屠られました。そしてなお、依然としてこの世界を暗闇が覆っているのを私たちは目にしています。罪の力が猛威を振るい、死の力が全ての人を支配しています。私たちは、嘆きの叫びに満ちたこの世界の中を生き、そして死んでいきます。
しかし、主の目はその闇を突き抜けて、神の国の祝宴に向けられていたのです。そして、私たちの目をも、「神の国で新たに飲むその日」へと向けさせてくださるのです。私たちを最終的に支配するのは、罪の力、死の力ではありません。神御自身なのです。不安と恐れを抱え、悲しみに涙し、憎しみと怒りの念に苛まれ、自らの罪に悩み、死の影におびえている、そんな姿が私たちの最終的な姿ではありません。やがて、本当の祝いの時、喜びが満ち溢れる祝いの時が来るのです。本当に心から喜び祝うことができる時が来るのです。私たちを裁きが過ぎ越して、私たちがその祝いに、その喜びにあずかることができるようにと、そのためにイエス様は十字架にかかってくださったのです。
ですから、聖餐が行われる時は、私たちが過去と未来にしっかりと目を向けるときなのです。私たちは、過去を思いつつ聖餐にあずかります。今から二千年前、神が準備した特別な過越祭が行われました。神の御子が屠られるただ一度の祭りが既に行われたことを思いつつ、聖餐にあずかるのです。しかし、同時に、私たちは未来を思いつつ聖餐にあずかります。神の国の祝宴、まことの祝いの時が来ることを思いつつ聖餐にあずかるのです。その時、主が「ぶどうの実から作ったもの」を共に飲んでくださいます。溢れる喜びの光の中で、主と共に神の国の祝宴を喜び祝う時が来るのです。