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「幸いなるかな」

2006年10月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章1節~12節

 マタイによる福音書の5章から7章にかけて、イエス様が山の上でされた説教が記されております。「山上の説教」などと呼ばれます。その冒頭において語られているのが、今日お読みしました九つの祝福の言葉です。あるいは11節と12節を除いて「八福の教え」などとも呼ばれます。今日は特にその第一の言葉を心に留めたいと思います。主は言われました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3節)。

 これに類似する言葉はルカによる福音書6章20節以下に見られます。それは平野で語られたことになっているので「平野の説教」などと呼ばれます。平野の説教においては、若干言葉が異なります。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ6・20)となっているのです。「貧しい人々」にせよ、あるいは「心の貧しい人々」にせよ、そのような人々を「幸い」と呼ぶことは、いささか奇妙に聞こえませんか。この言葉は私たちにとって何を意味するのでしょうか。

弟子たちと群衆

 その言葉について考えます前に、私たちはまず、この場面を思い描いてみることにしましょう。イエス様の周りに大勢の群衆が集まっていました。彼らは、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側からイエスに従ってきた人々です。彼らの多くは、4章24節に書かれているように、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者などであったと思われます。主は彼らを見て、山に登られました。そして、腰を下ろして口を開き、語り出されます。それが今日お読みした場面です。

 さて、この箇所を注意深く読みますと、イエス様の御前において、ある種の区別が存在していることに気付きます。主は集まってきた苦しみ悩む全ての者たちに語られたのではありませんでした。「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」(1節)と書かれております。そして、新共同訳には現れておりませんが、2節には「そこで、イエスは口を開き、≪彼らに≫教えられた」と書かれているのです。つまり、主は直接的には「弟子たち」、すなわち群衆とは区別された弟子たちに語られたのです。

 これはルカによる福音書ではもっと明瞭になっています。次のように書かれているのです。「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」(ルカ6・20)。そして、「神の国は≪あなたがたのもの≫である」と直接的に語られているのです。

 どうですか。イエス様を取り巻く二重の輪が見えてきましたでしょうか。内側にイエス様に近づいた弟子たちがいます。主は彼らに語られます。弟子たちは、イエス様の語りかけを、自分自身への語りかけとして聞いております。その外側に、群衆がいます。群衆は自分自身への語りかけを聞いているわけではありません。弟子たちに語られる言葉をある種の「教え」として聞いています。聞いているその言葉を客観的に評価します。そして、その言葉に反応します。群衆はどのような反応を示したでしょうか。「山上の説教」の最後の部分には次のように記されております。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」(7・28)と。彼らは「驚いた」のです。それ以上でもそれ以下でもありません。

 今日の聖書箇所が伝えている場面をこのように思い描きますと、私たちはまず考えざるを得なくなります。私はどこに位置しているのだろうか、と。皆さんはどこにいますか。弟子のいる場所でしょうか。群衆のいる場所でしょうか。聖書に書かれているイエス様の教えの言葉に魅力を感じたり、感心したりする人は少なくないかもしれません。イエス様の言葉を聞いて驚嘆するということも、あるいはあるかもしれません。しかし、大事なのは感心したり驚嘆したりすることではありません。私たちがその言葉を自分への語りかけとして聞くということなのです。あなたはイエス様の正面に座っているのでしょうか。それとも、外から眺めながら聞いているのでしょうか。私たちは弟子の位置にいるのでしょうか。それとも群衆の位置にいるのでしょうか。私たちはまず自らにそのことを問わねばならないのです。

貧しい弟子たち

 では、イエス様の御言葉そのものに耳を傾けてみましょう。主は言われます、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3節)と。

 貧しいということは欠乏しているということです。それは他者によって満たされなくてはならないことを意味します。貧しければ他者に乞わなくてはなりません。頭を下げて、「憐れんでください」と言わなくてはなりません。憐れみを乞わざるを得ない人は幸いでしょうか。私たちは通常そうは考えません。しかし、主は「そうだ、幸いなのだ」と言われるのです。幸いなのは憐れみを乞う必要のない人ではなくて、頭を下げて憐れみを乞わざるを得ないような人だと言うのです。

 それはそれで、イエス様の周りに集まった多くの人々にとっては、たいへん有り難い言葉であったに違いありません。なぜなら、確かにイエス様の周りにいた群衆は貧しい人々であったからです。彼らの多くは、経済的に困窮していたに違いありません。病気であるならば肉体的にも助けを必要とします。彼らは精神的にも欠乏を覚えていたことでしょう。実際に文字通り物乞いをして生活していた人々もいただろうと思います。「憐れんでください」は彼らの日常の言葉であったかも知れません。そのような彼らにとって、「貧しい人は幸いである」という言葉は、なんと慰めに満ちた言葉であったかと思います。

 しかし、私たちは立ち止まってよく考えなくてはなりません。先にも申しましたように、イエス様の言葉は、直接的には、そのような群衆に語られた言葉ではないのです。弟子たちに向けられているのです。イエス様の言葉を、自らへの語りかけとして聞いている弟子たちに、この「幸いである」は語られたのです。

 なぜ「弟子たち」に対する言葉であるということが重要なのでしょう。それは遅かれ早かれ、弟子たちこそ自らの恐るべき根元的な貧しさと向き合わなくてはならないからなのです。

 弟子たちは、ただ「幸いなるかな」を聞くだけではありません。その先に続く言葉があるのです。この5章から7章だけでも通して読んでみてください。これを《立派な道徳的な教え》であると思っている人は、それこそ外から眺めているだけの人です。自分自身への言葉として聴くならば、そうはいきません。

 例えば、13節以下に次のような言葉が続きます。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。このような言葉は、外から眺めている限りにおいては、美しい良い教えで済むのです。しかし、これを自分に対する語りかけとして聞くならどうでしょう。私たちがイエス様によって、実際に地の塩として、世の光として生きる人生へと引き出されるとするならどうでしょう。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と主は言われるのです。これを他ならぬ私への語りかけとして聴いたらどうなるでしょう。たちまち、私は窮地に立たされることになります。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい!」そんなことできるのですか。私たちが本気でそのように生きようとするならば、私たちはどうしたって自分自身の貧困さ、さらには自分自身のどうにもならない罪深さと対面せざるを得なくなるに違いありません。

 さらに私たちがイエス様の次のような言葉を聞くとしたらどうでしょう。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。外から眺めている間は、「すばらしい愛の教えだ」と言って感動していられるのです。しかし、私たち自身への語りかけとなるときに、感動などしていられません。あなたを苦しめている人、あなたを痛めつけてやまない人を指して、「その人を愛しなさい。その人のために祈りなさい」とイエス様は言われるのです。最も身近な者さえ真実に愛することができないのに、いったいどうやって敵を愛したら良いのでしょう。私たちの心のどこを捜したら、そのような愛があると言うのでしょうか。たちまち私たちは自分自身の愛の貧困さと向き合わなくてはならなくなるではありませんか。

 しかも困ったことに、これは≪イエス様の言葉≫なのです。牧師が言っているだけだったら、痛くも痒くもありませんでしょう。「そういうあんたはできるのか。偽善者め!」そう言って斥けることは簡単です。「理想的ではあるけどね」と言って笑い飛ばすこともできるでしょう。しかし、これはイエス様の言葉なのです。

 「あなたがたは世の光である」と言われた方は、自ら「わたしは世の光である」と語られたのです。そして実際にそのように生き、そのように死なれたのです。敵を愛しなさいと言われた方は、自ら敵を愛したのです。自分を十字架につけた人々、罵り、嘲っている人々を愛し、彼らのために執り成し祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。

 私たちは、この御方と向き合い、この御方の語りかけを自らへの語りかけとして聞き始めるならば、たちまち私たちは恐るべき根元的な貧しさを自覚せざるを得なくなるのです。私たちは天に向かって叫ばざるを得なくなるのです。「主よ、わたしを憐れんでください」と。

 いったい誰が好きこのんで自分の貧しさなど認めたいと思うでしょう。私たちは元来、貧しい自分など認めたくないのです。「憐れんでください」などと言いたくないのです。だから、群衆の位置に身を置いておく方が気が楽なのです。いっそのこと、イエス様のもとを立ち去ってしまう方が気が楽であるかも知れません。そこでは、自分の貧困さと向き合う必要もないでしょう。それなりの善人でいられるかも知れません。他の人から親切だと言われ、感謝され、喜ばれる人間でいられることでしょう。そのような自分自身を喜んでいることができるかも知れません。そのほうがよほど幸せではないでしょうか。自分の貧しさを認めて生きるより、そこそこの善人であることを自負して生きるほうが、よほど幸せではないでしょうか。

 いいえ、そうではないのです。主は言われるのです。「心の貧しい人々は、幸いである」と。なぜですか。「天の国はその人たちのものである」からです。「自らの貧しさに嘆かざるを得ない人よ、あなたがたは幸いだ。最も天の国から遠いと思っている人々よ、あなたがたは幸いだ。天の国はむしろあなたがたのものなのだ」と主は言っておられるのです。

 貧しい人は求めます。求めざるを得ません。求めなくては生きていけません。だから神に求めます。神に依りすがるしかありません。一生、神に依りすがって、神の恵みに依りすがって生きていかなくてはなりません。「主よ、憐れんでください」と一生言い続けながら生きなくてはなりません。

 しかし、そのような霊的な貧困の極みにおいて、「主よ、憐れんでください」と求め続ける人生においてこそ、人は生ける神のリアリティを経験するのです。天の国を経験するのです。私たちがそのように生きるなら、天の国はもはや単に将来の希望ではありません。神は生きておられ、その神が関わってくださり、恵みと命の支配のもとに生かしてくださることを――まさに天の国を――、今この世において経験することができるのです。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国は彼らのものである」。アーメン。

 
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