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「イエスと共に楽園に」

2006年11月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書23章35節~43節

 今日の福音書朗読は、イエス様が十字架にかけられた場面です。ゴルゴタの丘の上には三本の十字架が立てられていました。二人の犯罪人が共に十字架にかけられていたと聖書は伝えています。その内の一人が断末魔の苦しみの中から声を絞り出すようにして言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。すると、イエス様はこう答えられたのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。これが今日、私たちに与えられている福音の言葉です。

十字架につけられた犯罪人

 二人の「犯罪人」。いったいどのような罪を犯したのでしょうか。マルコによる福音書では「二人の強盗」となっています。あるいは「強盗」と訳されているもとの言葉を反ローマの革命家をも意味する言葉と解し、彼らは政治犯であったと言う人もいます。そのように彼らが何を行ってきたかは定かではないのですが、彼らの内の一人についてははっきりしていることがあります。強盗であったにせよ、革命家であったにせよ、《彼自身は》自分が確かに罪を犯したと認めているということです。自分は十字架にかけられても仕方のないことを行ってきたのだと認めているということです。ですから彼はもう一人をたしなめてこう言ったのです。「お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 そして、もう一つ明らかなことがあります。罪を犯してきた彼の体は、もはや動かすことができない状態にあるということです。善をも悪をも行うことができない。悪を行うために用いてしまったその体を、善を行うために再び用いることはできないということです。悪を行って生きてきた人生を改めて、善を行う人生として生き直すことは、もはやできないのです。十字架につけられているのですから。

 さて、これらの「犯罪人」についてどう思いますか。私がこの箇所を読む度に思わせられてきたことは、この犯罪人の姿は何ら特別なものではなく、ある意味ではすべての人間が最終的に行き着く姿ではないか、ということです。

 私たちもまた、もはや自分の体を悪を行うためにも善を行うためにも動かすことができなくなる時がやってきます。善を行う人生として改めて生き直すということができなくなる時が確かに来るのです。その時に、私たちはこの人のように自分の罪を認めるでしょうか。程度の差こそあれ、やはり自分の行ってきた悪が思い起こされるに違いありません。しかし、その時には、もはや償うために体を動かすことはできません。それは人生の最後のある程度長い期間かもしれません。あるいは最後の一瞬かもしれません。しかし、いずれにせよその時は来るのです。この犯罪人のようにそれが十字架の上であるか、床の上であるかは、大した違いではありません。そのように、ここに描かれているのは、人間が必ず行き着く姿です。私の行き着く姿であり、皆さんの行き着く姿です。

 しかし、そこで聖書はもう一つのことを伝えているのです。もはや何をもすることのできない罪人の傍らに…キリストがおられた、と。声が届くほど近くに、キリストがおられたのです。共に十字架にかけられた姿で!

 もちろん、イエス様がそこにおられるからと言って、この人が再び動けるようになるわけではありません。もう一人の犯罪人はこうののしりました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。「救ってみろ」という言葉で彼が意味しているのは、「自分が十字架から降りて、我々をも十字架から降ろしてみろ」ということでしょう。いいえ、イエス様が傍らにおられても、彼らは十字架刑から解放されることはありませんでした。十字架から降りられるわけでもない。体が動かせるようになるわけでもありませんでした。

 しかし、それでもなお、イエス様が傍らにおられ、声の届くところにおられるということは、この人の最後を決定的に違ったものとしたのです。そのことをこの聖書箇所は私たちに伝えているのです。彼はイエス様にこう言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。そのように語りかけることができた彼は、十字架の上にあって苦しみもがいていにもかかわらず、もはや絶望の中にはいなかったのです。

わたしを思い出してください

 「わたしを思い出してください」。彼はそう言いました。言い換えるなら、「わたしを覚えていてください。忘れないでください」ということです。考えてみれば、これはとても不思議な言葉です。皆さんがこの場面にいたら、同じように「わたしを思い出してください」と言うでしょうか。

 先にも申しましたように、彼は自分の罪を認めているのです。十字架刑に処せられても仕方ないと言っているのです。言い換えるならば、彼は自分自身の人生を、十字架刑によって総括されるべき人生と見なしているのです。いや自分がそう見ているだけではありません。十字架につけられるという形において、彼の罪が人の目にも露わになりました。そのような彼が、誰かに対して、「わたしを覚えていてください。忘れないでください」と言っているのです。それは当たり前のことでしょうか。

 皆さんは、自分が死んだ後、自分という人間が存在したことを誰かに覚えていて欲しいと思いますか。「わたしのことを忘れないで」――そう誰かに言いますか。きっとここにいる多くの方は、「覚えていて欲しいと思います」と答えるに違いありません。しかし、もしそう仰るとすれば、それは人生の多くの部分が人の目からは隠されているからに違いありません。見られて良いことしか見せてこなかったからです。友人にも家族にもそうです。だから「覚えておいて欲しい」などと思えるし、言うこともできるのです。

 仮にすべてが暴露されたらどうでしょう。自分自身のしてきた何もかもがが人の目に明らかになったらどうでしょう。自分の犯してきた罪深い行いがすべて明らかにされたらどうですか。それでもなお「わたしを忘れないで」と言いますか。言えないだろうと思うのです。いや、すべてとまでは行かなくても、自分の人生が十字架刑によって総括されるような形で終えられるとしたら、そのような形で自分の人生が人の目に露わになったらどうでしょう。「いったい私が生きてきたことは何だったのだ」と思わざるを得ない形で人生を総括せざるを得なかったらどうでしょう。「わたしを忘れないで」と言えますか。言えないだろうと思うのです。

 いや、それだけではありません。この人はよりによって、その前にこう言っているのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには」と。「御国」とは「王国」という言葉です。「あなたの王国」と言っているのです。イエス様を「王」として見ているのです。天の御国の王となるべき御方にそう言っているのです。

 イエス様が「王」であるとはどういうことでしょうか。古代の王国においては、王は裁判官でもありました。王は罪を裁く権威を持っているのです。この人はローマ皇帝の権威のもとに裁かれて十字架にかけられました。しかし、この人は知っているのです。ローマ皇帝よりももっと上にある権威がある。神の権威をもって地上の罪を裁くことのできる御方がおられる。すべての人は、地上において生きてきた日々を、天の王座に着かれる御方の御前において裁かれることになる。ここにいるイエスこそ、その天の王座に着かれる御方だ。――「イエスよ、あなたの御国においでになるときには」とはそういうことです。

 彼はそのことを認めているのです。そのような御方に「わたしを覚えておいてください」と言っているのです。それは当たり前のことですか。皆さんは、最終的に自分の人生を正しく裁くことのできる御方に言えますか。「わたしを覚えておいてください。わたしを思い出してください」と。むしろ「私のことを忘れてください。私が生きていたことも忘れてください。私が行ってきたすべてを忘れてください」と言わざるを得ないでしょう。

あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

 では、どうして彼は「わたしを思い出してください」などと言ったのでしょう。それは王の口から、罪の赦しの言葉を聞くことができると期待できたからでしょう。彼はこの世の裁きにおいては有罪とされて十字架にかけられて死んでいくのです。けれど、天の裁きにおいて赦しの言葉を聞くことができる。そう信じたからこそ、「わたしを思い出してください」と言えたのでしょう。

 では、どうして彼はそう信じることができたのでしょうか。声の届くところにおられたイエス様の御声を聞いたからであるに違いありません。今日の朗読の直前にはこのようなイエス様の御言葉が記されているのです。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」十字架の上でイエス様は執り成しておられたのです。最終的に人間を裁くことのできる王が、地上において命がけで父なる神に赦しを求めて執り成しておられたのです。彼はその声を聞いたのです。だから、そのイエス様の執り成しに、彼は自分自身をゆだねたのです。十字架によって総括された自分の人生をゆだねたのです。もはやどうやっても埋め合わせのできない自分の人生をゆだねたのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。そして、王なるあなたはその権威をもって、わたしを赦してください」と。

 するとイエス様は、即座にこう答えられたのでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。なんとイエス様が御国の王座に着いた後ではなくて、そしてこの犯罪人が死んだ後ではなくて、まだ生きている時に、その時に、彼はイエス様の口から答えを聞いたのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」これは完全な罪の赦しの宣言に他なりません。十字架刑が人生の総括ではなくなったのです。イエス様と一緒に楽園にいることが人生の総括となったのです。罪は赦されたのです。その赦しの言葉を、地上において、まだ十字架の上でもがき苦しんでいるときに、前もって聞くことができたのです。

 イエス様はこの男が十字架の上で死を迎える苦しみを取り除かれはしませんでした。しかし、この男が赦しの言葉を聞いた時、十字架の上で苦しみながら死んでいくことの意味は全く違ったものとなったのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。――彼の苦しみはまさにそこへと向かう苦しみに他ならないのです。

 さて、先にも触れましたように、ここに見る犯罪人たちの姿は、遅かれ早かれ迎える私たちの姿です。私たちはやがて、この体をもって善をも悪をも行い得なくなる時が来るのです。いかなる意味においても「やり直す」ことができなくなる時が来るのです。しかし、それでもなお、私たちには為しえることがあります。「わたしを思い出してください」。そう言うことはできるのです。イエス様に対してなら、私たちは安心してそう言うことができる。私たちの一生をそっくりそのまま安心してその御手にゆだねることができるのです。なぜなら、その御方は十字架の上で罪の赦しを願って執り成し祈ってくださった御方だからです。

 そして、私たちは天において赦しの言葉を聞くのではなく、先だってこの地上において、罪の赦しの宣言を聞くことができる。その時、人生の終わりの意味も変わるのです。どのような形で死を迎えるか。それは大したことではありません。十字架の上で死を迎えるのは、いわば最悪の形でしょう。しかし、それでもなお、それは全き救いに向かっての入口に他ならなかったのです。

 そして、人生の終わりの意味が変わるなら、その終わりに向かう人生そのものの意味も変わることになるのです。キリストが共におられるなら、そして安心して「わたしを思い出してください」と言える御方が共におられるなら、私たちの人生は決して滅びに向かって歩いているのではなく、全き救いに向かって歩いていることになるのです。

 
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