「忍耐しなさい」
2006年12月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヤコブの手紙 5章1節~11節
アドベント(待降節)に入りました。アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。これからクリスマスまでの約四週間、特に「キリストの到来」に関する聖書の言葉が読まれます。この期間の信仰生活のテーマは「キリストの到来」です。その場合「キリストの到来」とは、第一には今から約二千年前に起こったキリストの到来を指すことはもちろんですが、それと同じく重要なのは、この世の終わりにおいてキリストが再び来られるという主の約束です。これを教会は「キリストの再臨」と呼び慣わしてきました。使徒信条において、「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁き給わん」と言い表しているのは、このことを指しているのです。
そのように、アドベントにおいて重要なのは「キリストの到来」という主題です。それはキリストについて言えば「到来」という表現になるのですが、私たちの側からすれば、来られるキリストを「待ち望む」ということになります。そして、教会の暦はこのアドベントから始まります。それは「待つ」あるいは「待ち望む」ということが、私たちの信仰生活において何にもまさって重要な位置を占めていることを示していると言えるでしょう。
主が来られるときまで忍耐しなさい
そのようなアドベントの第一主日に与えられているのは次の御言葉です。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(ヤコブ5:7)。この「忍耐しなさい」という勧めは、「待つ」ということと深く結びついています。この「忍耐する」という言葉は、「気を長く持つ」ことを意味する言葉だからです。
この手紙を初めから読みますと、この「忍耐しなさい」という勧めは、「試練」ということを背景として語られていることが分かります。この手紙の一章を読みますと、例えば「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(1:2)、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(1:12)と語られております。
彼らは迫害を経験していたことでしょう。あるいは、富める者や権力を持つ者たちによって抑圧され苦しんでいる貧しい人々が教会には数多くいたことでしょう。いずれにせよ、ここで「いろいろな試練」と書かれておりますから、その具体的状況は一つではなかろうと思います。実に様々な場面において、信仰者はその信仰が問われます。試されるのです。そもそもこの世はキリストを主とし王としている世界ではありません。その中において、キリストに従って生きようとするときに、ありとあらゆる事柄が、信仰の試練となり得るのは当たり前のことなのです。その点においては、ヤコブの手紙の時代も現代も変わりません。
そこで重要なことは、いかなる試練も決して永遠ではない、という認識です。すべての試練には終わりがあるのです。終わりがあることを考えられる人は、耐え忍んで待つことができるのです。そして、聖書はすべての試練について究極的な終わりについて教えています。それが「キリストの再臨」です。それは神がすべての試練にピリオドを打たれる時に他なりません。そして、それがいつであるかは分からないのです。分からないということは大変ありがたいことでもあります。それは次の瞬間かもしれないからです。すべての試練は、次の瞬間には終わっているかもしれない試練であると言えるのです。
もちろん、「キリストの再臨」は裁きの時でもあります。「かしこより生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」ですから。今日お読みしました5章1節以下には、いかにこの世において富を持ち、権力を持っている者であっても、最終的な神の裁きを免れ得ないことが書かれております。力ある者は、この世においてはいくらでも正義をねじ曲げることができますが、神は最終的にそのねじ曲げられた正義をまっすぐにされ、自らの正義を貫かれるのです。それゆえに神に敵対する人、神ではなくてあくまでも自分を中心に据えたい人にとっては、「キリストの再臨」はすべてを覆される恐るべき時となるに違いありません。
しかし、神を愛し、キリストを主とし、その主を待ち望んでいる者にとっては、まさにキリストの再臨こそ最終的な希望であり、神の報いの時であり、すべての試練の終わりの時に他ならないのです。ですから、「主が来られるときまで忍耐しなさい」と語られているのです。そして、「忍耐する」ということが、農夫を例えとして教えられています。農夫は待つことを知っています。農夫は実りの時までにはプロセスがあることを知っています。種まきの直後に秋の雨が降ります。そして、実が熟す直前に春の雨が降ります。この定められた時を経なくては実りを見るに至りません。実りをすぐに見られないからと言って、畑を投げ出してしまう愚かな農夫はいないでしょう。彼が待つのは、実りの時が来ることを知っているからです。だから忍耐しながら待つのです。
それは信仰においても同じなのです。様々な試練は、人に信仰を投げ捨てさせ、神から引き離す誘惑ともなります。しかし、その誘惑に屈してはならないのです。ですから、ヤコブは「心を固く保ちなさい」と勧めます。もちろん、これは信仰に関してのことです。信仰をしっかりと守らねばなりません。試練は永遠ではなく、必ず実りの時が来ることを信じて、忍耐しつつ待たねばならないのです。
互いに不平を言わないように
ではどのようにしてその時を待つべきでしょうか。ヤコブはさらに、「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです」(9節)と勧めています。実は、言葉に関する戒めが出てくるのは、ここが初めてではありません。人間の舌というものの恐るべき力をヤコブは既に3章で語っています。「ご覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(3・5‐6)。そして、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(3・9‐10)と彼は言います。さらに、4章で、「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません」(4・11)と勧めているのです。
なぜ言葉についてヤコブが繰り返し語るのかは分かるような気がします。試練の時には、舌を制御することが困難になるからです。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野の旅の苦しさの中で、繰り返し不平や不満をつぶやいたのと同じです。普段は穏やかに語れるのに、困窮している時には同じように語れなくなります。普段なら全く気に留めないであろう他人の行為や言葉が、妙に気に障るようになります。そのような経験はありませんか。
しかし、普段ならば気にならないということは、本当の問題は他人の行為や言葉ではなくて、こちらの状態にあるのです。にもかかわらず、往々にして問題は相手や自分を取り巻く環境にあると思い込んでいるのです。その結果、悪口や不平が舌という器官を通して言葉となって外に現れるようになります。
教会が外からの迫害と圧迫を受けた時、本当の危機は実は迫害そのものではなく、教会の内に起こりつつあった不平や不満であったに違いありません。教会に不平や不満の言葉が満ちるならば、それは確実に教会の交わりを崩壊させていくからです。崩壊は外からではなく内側から起こるのです。もちろん、試練のもとにあった当時のキリスト者たちには、互いに解決しなくてはならない問題がたくさんあったに違いありません。しかし、不平や不満が互いの関係を絶て上げ、教会を建て上げる力となることは絶対にないのです。
そこで私たちは何を考えねばならないのでしょうか。ヤコブは続けてこう言います。「裁く方が戸口に立っておられます」(9節)。終末におけるキリストの再臨を空間的に表現するとこうなります。キリストが戸口に立っておられます。そして、ある瞬間に、キリストが戸を開いて入ってこられるのです。そこで、キリストは何を耳にするのでしょう。私たちの言葉です。私たちが今しがたまで語っていたことです。いや、もう既にキリストは聞いておられたのです。戸口におられたのですから。
不平を言う時には、自分が正しいと思っているものです。しかし、私たちは同じ言葉を再臨のキリストを前にしても、なお語り続けることができるでしょうか。再臨のキリストの前においてもなお語り得る言葉を口にしているならば何ら問題はないでしょう。しかし、本当に主の前でそう言えるだろうか、ということを一度は考えてみなくてはなりません。その意味においても、再臨のキリストを、戸口に立っておられ今まさに入って来ようとしておられるキリストとして思い描くことは極めて重要なことなのです。
預言者たちを忍耐の模範としなさい
そして、再び話は忍耐のことに戻ります。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」(10節)。旧約聖書に見る預言者たちの姿を考えて見ましょう。彼らは神に召され、神の言葉を語りました。しかし、多くの人々は彼らに耳を傾けませんでした。預言者たちは悔い改めを呼びかけました。しかし、人々は神に立ち返ることよりも、手軽な平和と幸いを求めました。預言者たちは神の裁きを語りました。しかし、人々は耳に好ましいことを語る偽預言者の言葉の方を求めました。
預言者たちは人々の罪のゆえに国家は滅亡するだろうと語りました。しかし、彼らが語った滅亡はすぐに実現したわけではありませんでした。預言者たちは人々の嘲笑と敵意を耐え忍ばなくてはなりませんでした。しかし、彼らは自分の力によって自分の正しさを示そうとはしませんでした。神の言葉の正しさは神自らが証明されるのです。彼らは、神の正しい裁きに自らをゆだね、神の時を待ちました。そうです、預言者たちは、まことに《神の時を待つ人々》でありました。彼らはそのように生き、語り、そして死にました。ヤコブは、預言者たちを指し示し、これが忍耐だと言うのです。
さらに彼はヨブについて語ります。「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」と言って、苦難の人ヨブを指し示すのです。なぜヨブが幸いなのでしょうか。「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」(11節)とヤコブは言います。私たちは、神が最終的にヨブの繁栄を回復してくださったことだけを考えてはなりません。もっと重要なことは、ヨブが神にまみえたということなのです。ヨブ記に出てくるヨブ自身の最後の言葉は神に対する次のような言葉です。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42・5‐6)。
苦しみは私たちを神から引き離す誘惑ともなります。また、そこから生じる不平や不満は、互いの関係を崩壊させる原因ともなります。しかし、苦しみは私たちの信仰を確かにし、純化し、神を目で見るかのように深く知る契機ともなるのです。何が必要なのでしょうか。それは、つぶやかずに神の時を待つ忍耐です。最終的には主が来られるときを待つことのできる忍耐なのです。