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「キリスト誕生の意味」

2006年12月24日 クリスマス礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書1章1節~14節

 クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを祝う祭りです。イエス・キリストの誕生は、聖書において様々な言葉をもって表現されています。その一つが今日お読みした聖書の言葉です。ヨハネによる福音書1章14節では、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と表現されているのです。

肉であるということ

 「言」とはキリストのことです。その直後に「父の独り子」と表現されています。父なる神の独り子であるキリストです。そのキリストが、神の御子が、人間となってくださった。「言が肉となった」とはそういうことです。

 しかし、そうならば、「神の御子は人間となった」と言えばもっと分かりやすいでしょう。そうではなくて、わざわざ「肉となった」と表現されているのはなぜでしょう。実は、聖書が「肉」という言葉を用いる時、それはただ単に「生物学的に「人間である」ということではなくて、もっと生々しい、人間の現実――まことに罪深い人間の現実が表現されているのです。

 それは、私たちが毎日、新聞やテレビのニュースでいやというほど見聞きしている現実です。血を分けた子供が怒りのあまり親を殺し、親が自分の幸せを確保するために子供を殺す。一つの国が正義の名のもとに別な国を破壊し、家族を殺された人々が悲しみと嘆きと怒りの涙が流される。その怨念は報復テロとして形を取り、その結果新たな親を失い、子供を失う家族が生み出される。「肉」であるとはそういうことです。

 いや、それは遠い話ではありません。私たちが日々、見て、聞いて、味わって、経験していることもみな、同じ地平にあるのです。憎み、憎まれ、恨み、恨まれ、ねたみ、ねたまれ、裏切り、そして裏切られ、傷つけ、そして自ら傷つきながら生きている。そのような中で「人間とは所詮こんなものさ」とどこかで諦めながら、なんとか自分の心と折り合いをつけながら生きている。これが「肉」であるということです。

 それは、本来の命の輝きを失ってしまっている人間の姿であると表現することができるかもしれません。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)と聖書には書かれています。神の栄光を映し出すような存在、それが本来の人間の姿です。神との交わりの中で命が輝いている。それが本来の姿なのでしょう。しかし、その命の輝きを人間は失ってしまいました。それが「肉」であるということです。

 聖書は「肉」としての人間を、ごまかすことなく美化することなく、そのまま表現している書物です。それは旧約聖書を少しでも読んだことのある人ならば知っていることでしょう。まさになぜこんなことまで書いてあるのと言いたくなるような、目を覆いたくなるような、耳を塞ぎたくなるような物語が赤裸々に語られている。それが聖書です。

 そのような旧約聖書の中に詩篇という書物がありますが、その詩篇の中である詩人が次のように語っています。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩篇130編)。この「深い淵」という言葉は聖書に幾度も出てきますが、これは「深い深み」という言葉です。本当に深いところです。その「深い淵」で叫んでいるのは、何も特別に不幸な人だけではありません。それは人間社会の現実をありのまま表現した言葉であると言えるでしょう。

 もちろん深い淵の底にいることを忘れさせてくれるものはいくらでもあります。皆が皆、詩編の詩人のように叫んでいるわけではありません。しかし、人は生きている限り、やはりどこかでその現実と向き合わざるを得ない時が来るものです。それは人生の最後であるかもしれませんし、その途上であるかもしれません。いずれにせよ深き淵の底にいる自分を見出したとき、穴から這い上がりたいと思うことでしょう。穴の底の泥水の中にいてはならないことも分かるのです。壁をよじ登れば良いことも分かります。しかし、手をかけても、足をかけても、滑ってもとの泥の中に落ちてしまうのです。泥水からしばしの間上がっていることは出来ましても、泥の中に落ちてしまう。穴の外までは到底登ることは出来ないのです。あまりに深いところにいる。それが「肉」である私たちの現実なのです。

言は肉となって

 しかし、聖書はそのような「肉」である私たちの現実をありのまま語るだけではなく、もう一つのことを語っているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と。キリストが、その深い穴の中に下りてきてくださったのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。高いところから、穴の外から、「そんなところにいてはならない。上がってきなさい」と命じているのではないのです。高いところから「頑張れ、頑張れ」と励ましているのでもないのです。そうではなくて、その御方は穴の底に下りてきてくださったのです。穴の底で泥だらけになっている私たちと共に泥だらけになってくださったのです。私たちを救うために、あえて泥の中に沈んでくださったのであります。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。

 そして、ヨハネは言葉を継いで次のように語ります。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネはキリストの弟子として、約三年半の間寝食を共にしました。そのヨハネはその御方を思い起こしてこう語るのです。「わたしたちは、その栄光を見たではないか」と。父の独り子としての栄光を見たということは、言い換えるならば「神を見た」ということです。

 ヨハネはそのお方の中に神を見たのです。繁栄と栄華を手にした姿の中にではありません。人間と同じ穴の底で泥だらけになってくださった姿の中に神を見たのです。この世にある一人の人間として、罪に悩む者の傍らに立ってくださった、その御方の中に神を見たのです。病に苦しみ、希望を失っている者の傍らに立ってくださった御方の中に神を見たのです。愛する者を亡くして嘆き悲しむ者と共にたたずみ、一人の人間として涙を流された、そういう御方の中に神を見たのです。

 そして、最終的に罪人の一人として十字架にかけられた方の内に、ヨハネは神を見たのでした。罪人として裁かれ、鞭打たれ、人々の嘲られ、唾をかけられ、殴られ、ボロボロにされ、そして十字架にかけられたその御方、その惨めな惨めなキリストの姿、栄光とはほど遠いその姿――その姿の中に神を見たのです。私たち人間の罪の泥水に身を沈めるかのようにして、惨めな死を遂げられた方の内に神を見たのです。

 そして、その十字架において現わされた栄光について、ヨハネはこう言うのです。それは「恵みと真理に満ちていた」と。「恵みと真理に満ちていた」というのは、ちょっと分かりにくい言葉ですが、ヨハネがここで思い起こしていたのは旧約聖書の詩編の言葉であろうと思います。例えば、詩篇にこんな言葉が出てきます。

   「主よ、あなたは情け深い神     憐れみに富み、忍耐強く     慈しみとまことに満ちておられる」(詩編86:15)。

 「慈しみとまことに満ちておられる」――詩編には、しばしばこのような形で「慈しみとまこと」という言葉が出てまいります。「恵みと真理」とは、この「慈しみとまこと」のことです。

 慈しみとは、絶対に手放そうとはしない神の愛のことです。旧約聖書のイスラエルの人々を見ますと、神様に背いて、神様に逆らって、どうしようもない罪深い姿をさらしているわけですけれども、そのようなイスラエルの民を絶対に手放そうとしない、切ってしまおうとしない、それが神の「慈しみ」です。もう相手にするに相応しくないような者であっても、神様は捨ててしまわないで愛をもって呼びかけ続ける。それが神の恵みであり慈しみです。ですから「憐れみに富み、忍耐強く」という言葉と一緒に出てくる。そして、それと一緒に「まこと」が出てくるのです。「慈しみとまこと」。この「まこと」というのは神の真実のことです。私たちを決して見捨てない、神の真実さのことなのです。ヨハネはキリストの内に、肉となってくださったキリストの内に、神の慈しみとまことを見たのです。

 考えても見てください。真暗な深い穴のどん底にいるような私たちが、なお神を知り、神の命に与り、救いに与ることができるとするならば、それは神の側から来てくださって、慈しみとまことを現してくださるしかないのです。神様が、受ける資格のない私たちをなお愛してくださり、神様の恵みを示してくださるのでなければ、私たちは救われないのです。そして私たちを決して見捨てない神の真実をもって私たちに関わってくださるのでなければ、私たちは救われないのです。そして、まさにその神の愛と真実とを、主イエス・キリストが現わしてくださったのです。私たちの所に来て現わしてくださったのです。それこそが今日の説教題ともなっている「キリスト誕生の意味」なのです。

 キリストは深い穴の底のようなこの世にまで来てくださいました。だからもう大丈夫なのです。深い穴の底で叫んでいるような私たちだけれども、もう大丈夫なのです。キリストは肉となって私たちの間に宿られて、神がこのような私たちを愛していてくださることを示してくださったからです。神がこのような私たちを絶対に見捨てないこと、神が徹底して私たちに関わってくださること、そして私たちを必ず救ってくださることを身をもって現してくださったからです。

 ならば私たちとして大切なこと何ですか。信じることです。信じることだけなのです。キリストにおいて現された神の慈しみとまことを信じることだけなのです。信じることです。信じるところにこそ、肉に他ならない私たちが、それにもかかわらず持つことのできる喜びがあるのです。生きる喜びがあるのです。喜びは向こうからやってきます。キリストが神様の方から来られたように、喜びも向こうからやってくるのです。そして、肉である私たちの現実の中に、喜びが満ちあふれる。だから私たちはクリスマスを祝うのです。キリストが肉となってくださったことを大いに喜び祝うのです。このクリスマスがあるゆえに、私たちはこの暗い世界のただ中を、なお希望をもって生きていくことができるからです。

 
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