「洗礼を受けられたイエス」 2006年1月8日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マルコによる福音書1章1節~11節 神の子はどこに  「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9節)。これがマルコによる福音書において、イエス様が初めて登場する場面です。それにしては、驚くほど簡潔な描写しかなされておりません。読者としては、ここで洗礼を受けられた御方がナザレでどのように育たれたのか、どのような姿でヨルダンのほとりに現れたのか、知りたい思いにかられるでしょう。しかし、福音書を書いたマルコは、イエス様の少年時代を端折ります。風貌さえ描写することを省きます。ただ一つのことだけを単純に短く記すに留めるのです。「ヨハネから洗礼を受けられた」と。  イエス様の生い立ちや少年時代についての伝説は、それこそ尾ひれの付いたものが山ほどあったことでしょう。しかし、イエス様がどんなに希有な少年時代を過ごそうが、幼い時から不思議な能力を発揮していようが、そんなことはマルコにとってある意味でどうでも良かったのです。また、マルコはもちろん生前のイエス様に会ったことのない後の人々のためにこれを書いているわけですが、イエス様の容姿や風貌を伝えることには全く関心がなかったのです。読者が心を向けなくてはならない大事なことは別にあるからです。それは何でしょう。――イエス・キリストがどこにおられるか、というこです。その御方は、悔い改める罪人たちの列の中にいるのです。彼らと共に洗礼を受け、彼らと同じ水の中におられるのです。福音書はそこからイエス様の物語を語り始めるのです。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」。  この短い言葉が伝えているその情景を想像してみましょう。ヨハネと呼ばれる一人の男が、ユダヤの荒れ野に現れました。彼はいにしえの預言者のごとく、悔い改めを呼びかけます。そしてヨハネのもとに来た人々にヨルダン川において洗礼を授け始めました。ヨハネのメッセージは、当時の多くの人々の心を捕らえました。この洗礼運動は瞬く間にユダヤの全地方に広がってゆきました。夥しい人々がヨハネのもとを訪れ、罪を告白して洗礼を受けるに至りました。聖書はその様子を、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来た」という言葉をもって伝えています。  もっとも、「エルサレムの住人は皆」というのは、幾分誇張された表現であるに違いありません。いくらなんでも住民全員が来るはずはないからです。実際には、多くの人々がヨハネのもとに赴く一方で、ヨハネのもとに来なかった人々、彼に批判的な人々もいたようです。そのような人たちが、11章の終わりに出てきます。ユダヤにおける指導的な立場にいた人々、すなわち祭司長、律法学者、長老たちはその代表です。彼らからすれば、悔い改めて洗礼を受けるなどということは、神を知らぬ異邦人のすべきことでありました。自分が異邦人同様に扱われることなど、我慢がならなかったに違いありません。  そのような人々は、他にいくらでもいたことでしょう。ヨハネが授けていた洗礼は、「罪の赦しを得させる洗礼」と表現されています。そこから分かりますように、ヨハネのもとに来て洗礼を受けた人々は、明らかに罪の赦しを求めて来た人たちです。ですから、当然のことながら、罪の赦しを求めない人は来なかったのです。そもそも罪の赦しを求めることは、罪を裁かれる側に身を置くことに他なりません。ですから、他者を裁く側に身を置いている人は、決して自らの罪の赦しを求めることはありません。正しい人たち、自分を正しいと思っている人たちは、他の人を断罪することはあっても、自ら罪の赦しを求めることはありません。そのような人たちは、ヨハネのもとには来なかったのです。  自分の罪を認めて神に立ち帰り神に赦しを求めよと呼びかけるヨハネ、そしてその呼びかけに応えて罪の赦しを願い求める人々の長い列を思い描いてみてください。そして、それらの人々を遠巻きに眺めている人々の姿を想像してみてください。ヨハネのもとに行こうとはしない人たちです。ヨハネの言葉を聞きいて苦虫をかみつぶしたような顔をしている人々。自分の罪深さに涙を流している人々を見てせせら嗤っている人々。「悪い連中が悔い改めて社会が良くなるなら、そりゃ結構なことですなあ」と言い合っている人々。「悔い改めろだって?悔い改めなくちゃならないのは、うちの旦那のほうだよ!」と腹を立てている人々。まったく関心を示すことなく立ち去る人々。さてそんな場面を思い描く時、はたして私たちはどこにいるのでしょうか。悔い改める人の群れの中にいますか。それとも遠巻きに冷ややかに眺めている人々のただ中にいるのでしょうか。どうでしょう。  しかし、そのような彼らの傍らを――そのような私たちの傍らを――一人の人が通り過ぎていきます。見ると、それはイエス様です。罪なきイエス様が静かに通り過ぎて行かれます。イエス様は、自らの罪深さに涙を流して赦しを求めている人々の中に入っていき、彼らと同じ有様で頭を垂れ、洗礼を授けて欲しいとヨハネに願います。そして、罪人の一人として、罪人たちのただ中で、ヨルダン川の水に身を沈めておられるのです。それがここに描かれている場面です。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」とはそういうことです。――みなさん、どう思われますか。  実は、そのようなイエス様のお姿は、この福音書においてここだけに見られるのではありません。全体を貫いているのです。罪人の一人としてヨルダン川に身を沈められた方を、私たちは後にどこに見出すのでしょうか。驚いたことに、私たちは、その方を罪人たちのテーブルに見出すのです。一緒に食事をしているのです。一方、その周りで、徴税人や罪人を軽蔑している正しい人たちが口々にこう言って騒いでいます。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(2・16)。  しかし、それはまだ事の始まりに過ぎません。最終的に、私たちはどこでイエス様を目にするのでしょうか。その方は、十字架の上におられます。「イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた」(マルコ15・27)と書かれております。そこでも、イエス様は最後まで罪人の一人として数えられているのです。イザヤ書にはこんな言葉があります。「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ」(イザヤ53・12)。イエス様の御生涯は、その言葉の通りになりました。  私たちが読んでいますこの福音書は次のような言葉から始まります。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。この福音書が伝えているのは、「神の子イエス・キリスト」の物語です。しかし、その神の子はどこにおられるかといえば、罪人たちのただ中におられるのです。正しい人たちを救うために、正しい人たちの間に身を置かれたのではなく、罪人たちの一人として、罪人たちのただ中に身を置いておられる姿がそこにあるのです。 天が裂けて  それが神の子イエス・キリストの物語です。しかし、それがわざわざ「神の子イエス・キリストの《福音》」と呼ばれていることに注意してください。福音というのは良い知らせのことです。ここに書かれているのは良い知らせなのです。では、イエス様が罪人の一人として洗礼を受けられ、罪人と共に食事をし、最終的に罪人の一人として死なれたことは、いかなる意味において私たちにとって良い知らせなのでしょうか。  私たちはさらにそのことを考えながら、先を読んでいきたいと思います。イエス様が洗礼を受けられ、水から上がられた直後のことを、マルコは次のように記しています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(10‐11節)。  洗礼を受けられたイエス様は、水から上がられた時に「天が裂けて、神の霊が降って来るのを」見たのです。「天が裂けた」となっていますが、正確には「天が裂かれた」と書かれているのです。「裂かれた」ということは裂いた方がいるわけで、それは他ならぬ神様です。それを「見た」わけですが、見たのはイエス様お一人です。聖霊が降ってきたのも、イエス様お一人に対してです。「あなたはわたしの愛する子」という言葉を聞いたのも、周りの人々全員に聞こえたのではなくて、イエス様一人に聞こえたのでしょう。つまりこれらすべては、イエス様お一人の経験なのです。これをどうぞ心に留めておいてください。  それにしても、「天が裂かれた」というのは耳慣れない表現です。「天が開かれた」という方がもう少し馴染みがある表現でしょう。実際、この「天が裂かれる」という表現は、聖書の中には他に出てこないのです。ならば、わざわざこのような表現が意図的に用いられているに違いありません。  そこで次に裂かれるのは何かということを考えますと、聖書に親しんでいる人ならば、もう一つの場面を思い起こすことでしょう。もう一つ裂かれたものがあります。そうです、そうです、「神殿の垂れ幕」です。マルコによる福音書15章37節以下をご覧下さい。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15:37‐38)。ここでも「裂けた」と訳されていますけれど、実際には「裂かれた」と書かれているのです。裂いたのはもちろん人間ではありません。神様御自身です。この福音書で神様によって「裂かれる」のはこの二つだけです。  では、この垂れ幕が神によって裂かれたことには、いったい何の意味があるのでしょうか。この「神殿の垂れ幕」は、神殿の聖所と至聖所を隔てているものです。その垂れ幕を通って、至聖所に入ることができるのは、大祭司だけでした。一年に一回しか通ることは許されていないのです。しかも、ただ何も持たずに至聖所に入ることは許されません。何を持って入るかというと、「血」を携えていくのです。贖罪の犠牲の血です。それなしには、入れないのです。要するに、その垂れ幕は、神が聖なる御方であり、罪ある人間は本来近づくことができないことを象徴的に表しているのです。しかし、その垂れ幕が神によって裂かれたのでした。すなわち、これは、神自らが罪人に対して道を開かれたことを意味するのです。言い換えるならば、神はすべての人に対して、天を裂かれ、天を開かれたということなのです。  先ほど、イエス様の洗礼の時に起こった事――天が裂かれた、聖霊が降った、声が聞こえた事――はすべてキリストお一人に対して起こった事であり、お一人が経験されたことだと申しました。キリスト一人に対して――。それが今日の聖書箇所に書かれていることです。しかし、それは始まりに他なりませんでした。決定的な神の御業の始まりだったのです。そこからキリストは歩み出されるのです。どこに向かって?神殿の垂れ幕が裂かれるあの一点へと向かってです。イエス様の生涯は、まさにそこに向かっていたのです。「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と書かれているとおりです。  その出来事は、罪のないキリストが罪人の一人として洗礼を受け、罪人と共に生き、罪人の一人として死ぬことによって起こりました。罪なき神の子が、すべての人の罪を背負い、罪人の一人として死なれることによって、罪人と神との隔ては取り除かれたのです。天は裂かれ、開かれたのです。イエス様お一人から始まりました。しかし、ついに全ての人に対して、天は裂かれ、開かれたのです。  これは福音です。これは神に立ち帰り、神と共に生きたいと願う人にとって福音です。これは罪の赦しいただき、神に向かって顔を上げたいと願っている人にとって福音です。あのヨハネの声に応えて、ヨハネのもとに赴いた人々にとって、大いなる福音です。そして、私たちが冷ややかに遠巻きに眺めている人々ではなく、あの悔い改めて赦しを求める人々の列の中に自分自身を見出すなら、これは私たちにとっても大いなる福音なのです。  私たちは、開かれた天を仰いで生きることができるのです。キリストお一人に対してだけ裂かれた天ではなく、私たちに対して、私たちのために、裂かれ開かれた天を仰ぐことができるのです。そうです、私たちはもはや下を向いて生きる必要はないのです。希望のない罪人として、神の顔を避けて生きる必要はないのです。神自ら裂いて開いてくださった天を仰いで、神を仰いで生きたら良いのです。この福音が、今日も私たちに語られ、与えられているのです。