「来て、見なさい」 2006年1月15日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ヨハネによる福音書1章43節~51節 来て、見なさい  今日の聖書箇所には、まずフィリポがイエス様に出会ったことが書かれています。いや正確に言いますと、《イエス様が》フィリポに出会ったのです。そして「わたしに従いなさい」と言われました。フィリポは、既に弟子となっていたアンデレやペトロと同郷人であったことが書かれています。この繋がりによって、既にフィリポがイエス様のことを耳にしていたのかもしれません。しかし、ここでフィリポがイエス様の招きの言葉を聞き、自らの足をもって従い始めます。そして、この方こそメシアであるとの確信を得たのです。  メシアに出会った喜びに満ち溢れたフィリポは、そのことを誰かに伝えたくてたまりません。彼は出会ったナタナエルにこう言いました。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」フィリポは、このナザレのイエスというお方こそ、旧約聖書が指し示しているメシアなのだ、と興奮しながら語り聞かせたのです。  喜びに溢れ、興奮しながら語っても、必ずしも相手が共感してくれるとは限りません。フィリポの言葉に対するナタナエルの反応は冷ややかでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とナタナエルは応えます。もちろん、イスラエルの伝統に生きる者として、彼もまたひたすらメシアを待ち望んで生きてきたに違いありません。しかし、ナザレ出身ということがつまずきとなりました。ナザレはイスラエルの歴史と伝統において何ら重要な位置を持たないガリラヤの小さな町に過ぎないからです。そのような所からメシアが出るわけがない!ナタナエルはナザレ出身のメシアなど信じたくなかったのです。  そこでフィリポは言いました。「来て、見なさい。」フィリポは賢明でした。彼はナザレのイエスについて説明することに時間を費やしませんでした。議論によって真理を明らかにしようとはしませんでした。フィリポは《出会った》のです。ならばナタナエルに必要なのも説明ではなくて《出会い》です。ナザレのイエスについて議論するだけであるなら、百年議論したところでそこから出会いは生まれません。何が必要ですか。「来て、見なさい」。大事なことは、自分の足で踏み出して「行く」ことです。そして、自分で「見る」ことです。  それはここにいる私たちにも言えることです。「行く」というのは行動です。行動を起こさねばなりません。皆さんは、教会に足を運びました。これは行動です。そして「見る」というのは体験です。行動の先に体験があります。私たちは単にキリストについて「お勉強」したり「論じたり」するために集まっているのではありません。礼拝をするために集まっているのです。キリストに向かい、讃美し、祈る――自分自身で実際に主に向かうという体験の中に身を置いているのです。そこにこそ出会いがあります。主との出会いがあるのです。信仰の世界というのはそういうものです。  ナタナエルはフィリポの勧めを受け入れました。そして、疑いを持ちながらも、ともかくイエス様に会いに行ったのです。一方、そのようなナタナエルを迎えたイエス様はどうなさったでしょう。懐疑的な眼差しをもって近づいてくるナタナエル、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」という侮蔑に満ちた態度で近づいてくるナタナエルを出迎えた時、イエス様は彼についてこう言われました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47節)。  ナタナエルは驚いて尋ねました。「どうしてわたしを知っておられるのですか」。すると主は答えます。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。この言葉を聞いたとき、ナタナエルは――恐らくはイエス様の前にひれ伏して――こう言ったのです。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。彼の内に大きな変化が起こりました。イエス様の言葉が彼を捕らえたのです。そのようにして、彼はイエス様と出会ったのです。いったい彼は、イエス様の言葉の中に、何を聞き取り、どのような出会いを経験したのでしょうか。  「見なさい、まことのイスラエル人だ」。――その言葉を聞いてすぐさま、「どうしてわたしを知っておられるのか」とナタナエルは答えます。そのやりとりから、ナタナエルがある程度、自分がまことのイスラエル人、まことの神の民であるという自覚と誇りとを持って生きてきたことが分かります。恐らくは幼い時から律法に親しみ、イスラエルの伝統の中で育まれ、自らもその伝統を大切にして生きてきたのだと思います。それゆえに、その伝統と全く結びつかない「ナザレから出たメシア」という話に抵抗を示したのでしょう。  しかし、イエス様の言葉が単に律法をきちんと守ってきたかどうかといった外面的なことを言っているのではないことは、ナタナエルにも明らかでした。主は言っているのはそれ以上のことです。主は、「この人には偽りがない」と言われたのです。「偽りがない」という言葉は、決して軽い言葉ではないでしょう。偽りがあるかないかは深く内面に関わることです。人はいくらでも表面的には、それこそ「まことのイスラエル人」らしく振る舞うことはできるのです。ですので、その心にあるものまでも含めて、「この人はまことのイスラエル人だ、神の民だ」と語る、あるいはそのように語られるということは、ユダヤ人にとって決して小さなことではないのです。イエス様の言葉は、まさに「わたしはこの人の心の内にあるものまですべて知っているよ。わたしはこの人の本当の姿を知っているよ」という主張に他ならないのです。  そのような言葉に対してナタナエルは、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と問うたのです。その答えが、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」でありました。  そもそも彼はフィリポから「来て、見なさい」と言われて、ここに来たのです。ですから、実際に「見る」ためにイエス様のもとに行ったのです。しかし、そこで知ったことは、自分が見る前に、いや見ようと考えもしていなかった時に、イエス様が自分を「見て」おられた、目を留めておられた、ということでありました。  「いちじくの木の下にいるのを見た」とイエス様は言われました。「いちじくの木の下」が何を意味するのかは、定かではありません。しかし、それはナタナエルにとって何か特別な時だったに違いありません。「あなたはいちじくの木の下にいたね」と言われて、ハッと思い起こされるような、何か特別な時だったのです。いちじくの木の下は祈りの場所でもあったと言われます。彼は祈っていたのかもしれません。誰とも分かち合えない、誰にも語り得ないことを抱えて祈っていたのかもしれません。いずれにしても、それはナタナエル本人のみが知っていることでした。そのはずでした。しかし、そのナタナエルに目を留めている御方がおられた。彼は知られていたのです。  これがキリストとの出会いでした。イエス様と出会うということは、そういうことです。私たちが知る以前に私たちを知っていてくださる御方との出会いです。それが教会において今もなお私たちにも起こることです。 もっと偉大なことを見る  しかし、主はさらにこう言われました。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(50節)。いったいその偉大なこととは何でしょうか。主はその偉大なことを、次のように表現しました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(51節)。  ここで、「あなたは見ることになる」と言わずに、「あなたがたは見る」と言われたことに注意してください。ただナタナエルが個人的に神秘体験をするということではなさそうです。弟子たち皆が見ることになる。いや、さらに言うならば、この「あなたがた」には福音書の読者も含まれるのです。つまり私たちがこの福音書を読み進んでいく時に、私たちもまた「神の天使たちが人の子(すなわちイエス・キリスト)の上に昇り降りする」のを見ることになるのです。いったいどういうことでしょうか。  このイエス様の言葉を理解するために、その背景となっていると思われる旧約聖書の物語を見ておきたいと思います。創世記28章10節以下に書かれているイスラエルの先祖ヤコブのエピソードです。  ナタナエルについてイエス様は、「まことのイスラエル人だ、この人には偽りがない」と言われましたが、イスラエルの先祖ヤコブという人は、まさに偽りに満ちた人でした。兄であるエサウを騙し、年老いた父親を騙して、長子の特権と長子が受ける祝福を奪い取るという話がその前に書かれております。やがて騙されたことを知った兄は激怒して、ヤコブを殺そうと考えるに至ります。今も昔も変わりません。そこには実に醜い骨肉の争いがあります。命の危険を感じたヤコブは、母親の助けを得て、母の故郷であるハランに逃げていきます。ここに書かれているのは、その途上での出来事です。  やがて日が落ち、辺りは闇に包まれます。彼は一人寂しく土の上に横たわり、石を取って枕とします。惨めです。実に惨めです。長子の特権をだまし取って、いったい何になったと言うのでしょう。彼の手もとに残ったのは、罪の結果だけでした。過去についての後悔、未来についての不安を抱きつつ闇の中に彼は身を横たえます。しかし、そこで彼は夢を見るのです。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(12節)。そして、彼は神の声を聞いたのです。「見よ、わたしはあなたと共にいる」(15節)。ヤコブは眠りから覚めて叫びます。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」  彼は自らの罪の結果を刈り取って、惨めさと孤独の中にいたのです。しかし、彼はそのまさに絶望のどん底にまで伸びている天からの階段を見たのです。天に向かって伸びている階段ではありません。天から地に向かって伸びている階段です。その上を天使が上り降りしているというのは、神がそこにおいても働きかけていてくださるということです。見捨てておられないと言うことです。そして、神はヤコブにこう語られたのです。「見よ、わたしはあなたと共にいる」と。  イエス様の言葉の背後にこの物語があります。要するに、言い換えるならば、「聖書が伝えているあの出来事を、やがてあなたがたも見ることになるのだ」と主は言われたのです。そして、どうなったでしょうか。確かに、ナタナエルは、弟子たちは、そしてこれを読んでいる私たちは、「もっと偉大なこと」に行き着くのです。そうです、やがて十字架のもとに行き着くのです。それを見ることになるのです。見上げれば、そこには私たちの罪の贖いとして血を流し給うキリストがおられます。このキリストの十字架のゆえに、神と人とを隔てる罪は取り除かれました。天が開け、天から地に向かって階段は伸ばされたのです。いわばキリストは身をもって、天から伸ばされた階段となってくださったのです。人はそのキリストのもとにおいて、「見よ、わたしはあなたと共にいる」という神の語りかけを聞くのです。それこそが、イエス様の言われた、「もっと偉大なこと」だったのです。  ナタナエルの身になって考えてみてください。確かにそれまで「わたしはまことのイスラエル人である」と思って生きてきたのかもしれません。しかし、イエス様から「この人には偽りがない」と言われるならば、「本当にわたしはそうだろうか」と自らに問わざるを得ないでしょう。そして、イエス様に従い、共に歩むということは、まさにそのことを問い続ける歩みであったに違いありません。そして、イエス様が捕らえられた時、彼は主の言葉を全面否定せずにはいられなかったに違いありません。なぜなら、ナタナエルもまたイエス様を見捨てて逃げたからです。しかし、その彼は確かにもっと偉大なことを見たのです。あの偽りに満ちたヤコブにさえ天から伸ばされた階段を、ナタナエルもまた見たのです。だから彼は弟子であり続けることができたのです。それは他の弟子たちにしてもまた同様です。  先ほど、キリストとの出会いは、私たちが知る前に、私たちに目を留め、私たちの心の内の奥底まで知っていてくださる方との出会いであると申しました。しかし、もしそれだけならば、それは極めて恐ろしいことであるとも言えるでしょう。この御方の眼差しの前においては、もはや表面的な取り繕いなど通用しないからです。しかし、キリストとの出会いは、それだけではなく、もっと偉大なことを含んでいるのです。「来て、見なさい」という言葉に導かれてキリストを求めていく人は、私たちのために十字架にかかられたキリストと出会うのです。そこにおいて、人は天が開け、神が共におられることを知るのです。