「不自由な人」 2006年7月9日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マルコによる福音書 6章14節~29節 ヘロデ王  今日の福音書朗読には、「ヘロデ王」なる人物が出てまいります。「ヘロデ」と言えば、クリスマスの物語にもヘロデが出てきましたでしょう。幼きイエスを抹殺しようとして、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにした、残忍極まりないヘロデ大王ですが、今日の箇所に出てきましたのはその息子のヘロデ・アンティパスです。彼はガリラヤおよびペレヤ地方の領主です。しかし、マルコがあえて彼を「ヘロデ王」と呼んでいるのは、ある意味で皮肉です。実際、彼は王のごとくに振舞っているからです。今日の聖書箇所に描かれていた酒宴の席において、彼は踊りをおどったヘロディアの娘にこう言い放ちます。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と。このセリフは恐らく誰もが知っていたであろう有名なフレーズです。今日の第一朗読で読みました、エステルの物語に出てきます。かつてオリエント一帯を支配した大ペルシア帝国の王クセルクセス一世が口にした言葉なのです。つまりヘロデは傲慢にも自らをあのクセルクセス王になぞらえているのです。そして、実際に彼は自らの“王権”を振るい、その結果、一人の預言者の首が切って落とされるのです。それが今日お読みした物語です。  事の発端はヘロデとヘロディアの結婚にありました。結婚と言いましても、実際には、ヘロデが自分の異母兄弟フィリポの妻を奪ったのです。ヘロディアとしては、夫フィリポを捨てて、ヘロデに乗り換えたということになります。それは明らかに神の律法に背いた行為でした。しかし、彼らの罪深い行為を誰も止めることはできません。ヘロデには権力があるからです。しかし、洗礼者ヨハネは、勇敢にもヘロデに悔い改めを迫りました。「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と。しかし、ヘロデにとって洗礼者ヨハネの口を封じることなど、いとも容易いことでした。彼はヨハネを捕らえて投獄したのです。そして最終的にこのヨハネは獄中にて首を切られて死んでしまいます。かくしてヘロデとヘロディアを咎める人間は、この地上にはいなくなりました。結局誰も彼らの行動を制限することはできませんでした。誰も彼らを縛り付けることはできない。その意味において彼らは極めて自由な人間です。他者を支配する力はその人に自由をもたらす。力を持てば持つほど、その人は自由になる。確かにそのように見えるものです。  しかし、そのように自らの権力を振るって一人の人間の命を奪ったヘロデを、この福音書は極めて不自由な人間として描いているのです。奴隷のような惨めな人間として描いているのです。その現実に、私たちはしっかりと目を向けたいと思うのです。 奴隷である王  第一に、ヘロデは欲望の奴隷でありました。20節には次のように書かれています。「なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」(20節)。ここにヘロデの複雑な心境がよく現われています。彼は、何が間違ったことか、神の御心に適わないことか、何が汚れたことであるか、分かってはいたのです。彼は確かに望んでいたものを手に入れました。しかし、それは本来望んでいけないものであり、手に入れてはいけないものであることを、彼は分かっていたのです。分かっていながらも、自らの内に働く欲望を抑制することができなかったのです。  モーセの十戒の十番目の戒めをご存知ですか。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト20:17)。これが第十戒です。口語訳では「むさぼってはならない」という訳になっていました。もちろん人間の欲望そのものは決して悪ではありません。欲すること、望むことが無くなったら、人は生きていけませんし、人類は絶滅してしまいます。しかし、ここで「一切欲してはならない」と命じられているのは、欲してはならないものを欲することについてであり、その欲望に支配されてしまうことなのです。  「欲してはならない」。戒めの言葉です。戒めや禁止は、一見すると人間を不自由にするものに思えるものです。しかし、十戒というのは、もともと奴隷であった人々を神様が解放した後に与えた言葉です。奴隷を解放した神が、わざわざ不自由にするために戒めを与えると思いますか。そうではありません。これらは奴隷であった者たちが、真に自由に生きるために与えられたものなのです。  したいことをしたいだけできることが自由なのではありません。欲しいものを欲しいままに手に入れられることが自由なのではありません。欲してはならないものを欲して、それを手に入れたらどうなりますか。人はさらに欲してはならないものを欲するようになります。欲望は限りなく増大していくのです。そして、人間はその欲望に支配されることになるのです。  本当の自由は、欲するものを手に入れられる自由ではなく、欲しないでいられる自由です。欲する心をコントロールできる自由です。権力者ヘロデは、その意味で不幸であったとも言えます。彼は欲しいものを手に入れることができました。恐らく幼いときからそうだったでしょう。欲してはならないものであっても、いくらでも手に入れることができた。しかし、それは彼にとって不幸でした。彼は奴隷となりました。欲望の奴隷となりました。  第二に、ヘロデは虚栄心の奴隷でもありました。ヘロデにとって重大事は、他人が自分をどう評価するかということでした。どのように見られているかが心に掛かりました。それは彼にとって、一人の人間の命よりも重いことでした。  ヘロデの誕生日。彼は高官や将校やガリラヤの有力者などを招いて宴席を催しました。その時、ヘロディアの娘がたいそう上手に踊りをおどったのです。人々は大いに喜びました。そこで王は皆の前で大見得を切るのです。先にも触れましたように、彼はかつての大帝国の王を演じてこう言いました。「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう。」さらには「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と口にしました。彼は自分の権力を誇示して、列座の人々の前で誓ったのです。  ヘロディアの娘は、母親の入れ知恵によって、王にとてつもない要求を出してきました。「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」この求めに対して王はどうしたでしょうか。26節以下にその様子が記されております。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた」(26‐27節)。  ヘロデはヨハネが正しい聖なる人であることを知っていたのです。ですから非常に心を痛めたのです。彼はその娘の求めがヘロディアの入れ知恵であることを悟ったはずです。その求めに応じてヨハネを殺すことは正しいことではないと知っていたはずなのです。しかし、結局、ヘロデは命令を下してしまいました。福音書ははっきりと「客の手前、少女の願いを退けたくなかった」とその理由を記しています。最も重要なことは、招いた客の目にどう映るかであったのです。最終的に彼を支配したのは彼の良心ではありませんでした。虚栄心だったのです。その意味で彼は虚栄心にも支配された惨めな奴隷に他なりませんでした。  そして第三に、彼は罪責感と恐れの奴隷でもありました。罪は恐れを生み出します。それは聖書が始めから言っていることです。創世記3章において、アダムとエバが禁じられた木の実を食べた後の有様が、次のように描かれております。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから』」(創世記3:8‐10)。  いろいろ言い訳はあります。正当化はできます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と彼は言い訳しました。しかし、いくら正当化して、罪を罪でないと言い張っても、私は悪くないと言い張っても、自分の心は知っているのです。だから恐れは去りません。「恐ろしくなり、隠れております」といわざるを得ないのです。  ヘロデも同じです。ヨハネは死にました。もう誰も咎める人はいません。しかし、罪が封印されてしまえば恐れは去るのでしょうか。いいえ、恐れは決して去りません。だからイエスの評判を耳にしたとき、恐れがよみがえってきたのです。彼は「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言って震え上がったのです。そうです、彼だって言い訳はできたはずです。「あれはヘロディアが望んだことだ。わたしは望んではいなかった」と。しかし、自分の心は知っているのです。「わたしが首をはねたのだ」と。自由に罪を犯した彼は、それゆえに恐れと罪責感の奴隷となりました。  このように、マルコはヘロデを「ヘロデ王」と呼びながら、実に不自由な人間として描いているのです。王でありながら実は奴隷である。力をもって支配しているように見えながら、実は支配されている。ヘロデは特別な人ですか。いいえ、そうではありません。私たちにも思い当たることがいくらでもあります。自分の人生にしても、自分の周りの人々にしても、何でも自分の思い通りになることばかりを願って生きているなら、必ず奴隷になってしまうのです。それぞれ小さな王様になることを願って生きているうちに、いつのまにか惨めな奴隷になっている自分自身を見出すのです。 神の国は近づいた  さて、こうして今日の聖書箇所を読みますと、私たちは暗澹たる思いに沈まざるを得ません。しかし、私たちは、このエピソードが単独で存在するのではなくて、福音書の一部として書き記されていることを感謝したいと思います。これがただヘロデとヘロディアとヨハネだけの物語で完結していたならば、どこにも希望はありません。ヘロデとヘロディアが罪の奴隷となり、ヨハネの首が切り落とされて話が終わりならば、どこにも希望はありません。人間とはこういうものさ、人間社会ってこんなものさ、としか言いようがないではありませんか。しかし、そうではないのです。これは福音書の一部なのです。イエス・キリストの物語の一部なのです。  そうです、既にイエス・キリストの物語は始まっているのです。その宣教は始まっているのです。イエス様の声が既に響いているのです。イエス様は何と言われたでしょう。イエス様の宣教については、既に一章においてこう書かれておりました。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』」(マルコ1:14‐15)。  「神の国は近づいた!」――「神の国」とは、「神の支配」を意味します。神様が王として支配してくださることです。神の支配は近づいているのです。もうここまで来ているのです。そうイエス様は言われたのです。人間が王となろうとすれば惨めな奴隷とならざるを得ません。しかし、そこに神様が入ってきてくださって、神様が王となって支配してくださるならば、そこには解放があるのです。  そして、イエス・キリストの物語はどこへ向かいますか。先駆者であるヨハネが苦難を受けて死んだように、イエス・キリストもまた苦難を受けて死ぬことになるのです。私たちの罪を贖うためにです。そのようにキリストは、神の国・神の支配を宣べ伝えただけではなくて、私たちがその中に生きることができるようにしてくださったのです。私たちが、罪を赦された者として、安心して神の支配の中に身を置くことができるようにしてくださったのです。  ならば大事なことは何ですか。イエス様は言われました。「悔い改めて、福音を信じなさい」。自分の支配ばかりを求めていた私たちが、自分の思い通りになることばかりを求めていた私たちが、悔い改めて、思いを変えて、方向転換して、神様の方を向いて、神の支配の中に生き始めるのです。私たちはもう小さなヘロデ王になる必要はありません。福音を信じて、心から信頼して安心して、神の支配の中に生き始めるのです。そうしてよいのです。その時、まことに不自由に生きてきた人間が、本当の自由に向かって第一歩を踏み出すことになるのです。