「神の国に入るには」 2006年8月20日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マルコによる福音書 10章13節~16節  今日の説教題は「神の国に入るには」となっています。どのような人が神の国に入るのでしょうか。どのような人が救われるのでしょうか。およそ救いを求める人は皆、最終的にはこの問いに行き着きます。この問いに対する答えは、今日お読みしましたイエス様の言葉において明確に与えられております。主は次のように語っておられるのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(14-15節)。これが今日、私たちに与えられている御言葉です。 子供たちを妨げた弟子たち  イエス様と弟子たちはエルサレムへと向かう宣教の旅の途上にありました。大勢の群衆もまた彼らの後に従っておりました。主はいずこにおきましても、人々に神の国の福音を語られ、悪霊を追い出し、病を癒されました。そして、その旅も終わりにさしかかかり、いよいよエルサレムが近づいてきましたある日のことです。群衆の間に分け入って子供たちを連れてくる人々がおりました。それはイエス様に触れていただくためでした。マタイによる福音書では、「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た」(マタイ19・13)と書かれています。彼らは子供たちを祝福してもらうために連れて来たのです。しかし、これを見て弟子たちは彼らを叱りつけました。なぜでしょうか。  彼らが子供を連れてきた、その行為そのものは、決して珍しいことではりませんでした。ユダヤにおいては満一歳になった子供をラビのもとに連れて行って祝福してもらう習慣がありましたし、大贖罪日と呼ばれる日の夕方には、子供を長老やラビのもとに連れて行って祈ってもらうことが習わしでありました。ですから、弟子たちが叱ったのは、彼らが非常識で失礼だったからではありません。  弟子たちがそうしたのは、単純に子供たちが宣教の邪魔になると思ったからです。手を置いて祈ってくれですって?群衆は後から後から押し寄せてくるのです。手を置いて祈って欲しい人は他にも大勢いるのです。イエス様には時間がいくらあっても足りないほどなのです。しかも、宣教の旅はいよいよクライマックスに近づいているのです。彼らはエルサレムに近づきつつあるのです。まさに神の都エルサレムにおいて最終的な神の御業が現れ、イエスがメシアであることが明らかにされると、弟子たちは信じておりました。そのような緊迫した状況において、子供たちなどに関わっている暇などあろうはずがありません。「宣教においては大人が優先だ。大人が神の言葉を聞き、大人が神の言葉にどう応答して生きるかが重要なのだ。」弟子たちは明らかにそう考えていたのです。また他の多くの群衆も弟子たちと同意見であったに違いありません。  さて、私たちもまた、往々にして同じように考えているのではないでしょうか。現に今ここに子供たちはおりません。ほとんど大人だけが集まっている礼拝です。日本の多くのプロテスタント教会では、このように、いわゆる《大人の礼拝》を守っています。もちろん教会学校が別の時間に別の場所で行われてはおりますので、必ずしも子供たちが軽んじられているわけではありません。しかし、恐らくここに集っている多くの方々は、教会にいる子供たちをほとんど意識することなく、毎週日曜日を過ごしておられることと思います。大人の礼拝を守り、大人の姿だけを見て教会生活を送ることに、多くの人は何の不思議さも違和感も感じておられないに違いありません。宣教は大人のため、教会は大人のためのものと、あからさまに口に出して言わないまでも、心のどこかでそう思っているものです。  いや、もちろん「子供たちは大事だ」という言葉が聞かれないわけではありません。「教会に子供がいることが大事なのだ。彼らが教会の未来を担うのだ。今は子供であっても、数年すれば中学生になり高校生になるのだ。ここから教会の役員になる人も出るだろう。だから、今から彼らを育てねばならないのだ」。そのような言葉は、いろいろな教会の集まりにおいても耳にします。しかし、ちょっと待ってください。「教会に子供がいることが大事なのだ」という言葉は、往々にして、彼らが《やがて大人になること》を前提として語られているものなのです。その場合、次世代を担う大人になるという意味で、子供の存在が大事にされているのであって、必ずしも《子供が子供として教会に存在すること》が重んじられているわけではありません。ならば子供の存在を重んじているように見えながら、「宣教においては大人が大事なのだ」と言っているのと大して変わらないのです。  皆さん、イエス様は何と言っておられますか。「子供たちをわたしのところに来させなさい」(14節)と言っておられます。イエス様は、「わたしのところに来させなさい」と言って、子供たちを呼び寄せられました。イエス様が子供たちを呼び寄せられたのは、《やがてその子たちが立派な大人になるから》ではありません。そのうち役に立つようになるからではありません。イエス様は、子供を子供として呼び寄せられたのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい」と。ならば、私たちが子供たちをイエス様のもとに連れて来るのも、その子たちが次世代を担うからではありません。イエス様が「わたしのところに来させなさい」と言われるから、主がそう望まれるから、連れて来るのです。私たちが妨げてはならないのです。  もちろん、弟子たちのしたことは悪意から出たことではありませんでした。宣教の働きを考えての配慮でもあったろうと思います。しかし、善意から出た配慮が、時として主が望まれることの妨げになるのです。そのような「配慮」が、父親、母親、祖父、祖母によってなされることがあります。「この子を連れていったら、皆さんの邪魔になるのではないだろうか。教会の働きの妨げになるのではないだろうか」。そう言って子供をイエス様から遠ざけてしまいまうのです。しかし、その配慮こそがイエス様の邪魔になるのです。主は、子供たちを来させなさいと言われるのです。「妨げてはならない」と。 神の国はこのような者たちのもの  いや、さらに言うならば、子供たちの存在は、弟子たちが考えていたように宣教の邪魔になるどころか、むしろ積極的な意味を持つのです。子供たちの存在こそ、まさに神の国を指し示しているからです。イエス様は子供たちを呼び寄せて何と言われましたか。「神の国はこのような者たちのものである」と言われたではありませんか。神の国を知りたければ、子供たちの姿に学ばなくてはならないのです。  では、どのような意味において「神の国はこのような者たちのもの」なのでしょうか。ある人は、子供たちについて、その清さを考えます。しかし、子供を持った親は知っています。子供は必ずしも罪のない清い存在ではありません。子供は我が儘です。そして、誰から教えられたのでもないのに、意地悪をするようになります。誰が教えたのでもないのに、嘘をつくようになります。あるいは、子供について、その素直さを考える人もいるでしょう。しかし、素直でない子供はいくらでもいます。聖書は人を生まれながらの罪人として語ります。これは非常に現実的な見方です。私たちは、子供を理想化してはなりません。もちろん、イエス様もそのようなつもりで子供たちについて語られたのではないでしょう。  では、子供たちの特徴とは何なのでしょうか。それは無力さなのです。ルカによる福音書では、わざわざ「乳飲み子たちを呼び寄せて言われた」と書かれています。乳飲み子ならばなおさらでしょう。乳飲み子は無力です。乳飲み子は自分の力で生きられません。乳飲み子は何も差し出すものを持ちません。そのような乳飲み子がそのまま乳飲み子として招かれている、それが神の国なのです。それが神の救いの世界なのです。何も差し出すことのできない者たちが、ただ神の恵みによって招かれている、それが神の国なのです。ですから、教会に乳飲み子が乳飲み子として存在することが、神の国の何たるかを指し示すしるしなのです。  このように考えますと、イエス様の語られたもう一つの言葉を思い起こします。主は別の場面で次のように語られました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ6・20)。その場合には、「貧しい人々」が神の国を指し示すしるしとなっているのです。ここで「貧しい人々」という言葉は、「物乞い」という意味の言葉です。物乞いであるならば、受けることしかできません。何も差し出すものはありません。ただひたすら施し与えてくれる人を求めます。イエス様は言われるのです。もしあなたがたが受けることしかできない者、何も差し出すことができない者、ひたすら憐れみを求めるしかできない者であるなら、神の国はあなたがたのものだ、と。  乳飲み子ならば、自分の力ではとうてい生きられないのですから、本能的に親を求めます。そうです、泣いて叫んで親をひたすら求めるのです。そして、親の腕の内にあって安んじます。乳飲み子は、親の愛を勝ち取るために、何かを差し出そうなどと考えません。ただ求めるだけです。そして、ただ親の愛と親のまったき支配に身をゆだねるのです。このように考えてまいりますと、最初に引用しました主の言葉の意味が明らかになってまいります。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(17節)。神の国とは神の愛と恵みが支配する世界です。そこに入るのは、何かを差し出して神の愛を獲得しようとする人ではありません。自分の持っているものと引き替えに神の愛を獲得しようとする人ではありません。そうではなくて、ただひたすら神御自身を求める人です。乳飲み子が親を呼び求めるようにです。そして、神の国に入るのは、神の愛と恵みに感謝をもって身をゆだねる人です。神の国、神の支配を受け入れる人なのです。  実は、今日は16節までしか読みませんでしたが、この直後には、乳飲み子の姿とは全く対照的な一人の人物の姿が描かれているのです。ある人がイエス様のもとに走り寄って、こう尋ねるのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)と。彼は子供の時から神の掟を守ってきた人です。そのようにして立派な大人になりました。しかし、まだ神の国に入り、永遠の命を受け継ぐには十分ではないように思えたのです。神の国に入る資格がないように思えたのです。だから尋ねました。「何をすればよいでしょうか」と。  しかし、考えて見てください。もしこの人が、「ではこうしなさい」と言われて、それを実行できたらどうなるのでしょうか。それで自分は神の救いを約束されたと、自分は神の国に入る資格があると、そう思ったらどうなるのでしょうか。恐らくその瞬間から、神の国に入る資格のない人を見下すようになるに違いありません。自分と同じようにしない人を裁き始めるに違いありません。自分が努力したように、同じように努力しようとしない人が許せなくなるに違いありません。しかし、そのようになることは、実は最も神の国から遠いところに身を置くことに他ならないのです。  ですから、イエス様は裕福なこの人がとうてい実行できないようなことを要求したのです。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)。彼は気を落としました。悲しみながら立ち去りました。イエス様はそうなることをご存じだったに違いありません。この人は打ち砕かれなくてはならなかったのです。そして、幼子だった頃に戻らなくてはならなかったのです。誇るべきものを何も持っていなかった頃に、差し出すものなど何も持っていなかった頃に、ただ求めることしかできなかったあの頃に、戻らなくてはならかったのです。なぜなら、神の国は、そのような者たちのものだからです。  そのように、神の国に入るのは、子供のように神の国を受け入れる人なのです。それが最も明瞭に表現されているのは、教会に与えられている二つの聖礼典(洗礼と聖餐)です。「洗礼を受ける」「聖餐を受ける」と言いますでしょう。そこで人は完全に受け身になるのです。人は、救いの事柄に関しては、ただ「受けるしかない」のだと認めて、洗礼を受け、聖餐を受けるのです。その意味において、洗礼を受け、聖餐を受けて生きるということは、まさに子供のように神の国を受け入れて、神の支配を受け入れて、まことの親なる神の御手に自らを全くゆだねて生きることに他ならないのです。