「まことの王の到来」
2006年12月31日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 2章1節~12節
 私たちは先週、クリスマスを祝いました。クリスマスは、キリストがこの世に来られたことを祝う祭りです。既にキリストは来られました。マタイによる福音書は、キリストの到来をまことの王の到来として伝えています。人間を治め、そして救う、まことの王が来られました。私たちが御前にひれ伏し、自らを明け渡し、安心して自分自身をゆだねることのできる本当の王、救いをもたらす王が来られました。この王の到来と共に神の救いの御業が始まりました。新しい救いの時代が始まりました。私たちはその中に生きているのです。クリスマスを大いに喜び祝ったように、私たちは人生を喜び祝いながら生きてよいのです。既にキリストは来られ、私たちは自分をその救いの御業にゆだねることができるのですから。
 しかし、今日の聖書箇所を読みますと、キリストが誕生し、そしてその知らせが伝えられてなお、そこには喜んでいる人とそうでない人が出てきます。ヘロデ王とエルサレムの人々は喜んでいません。むしろ不安を抱いています。いや不安を抱いているだけでなく、ヘロデはキリストを見つけ出して抹殺してしまおうとさえ思っています。喜んでいるのは占星術の学者たちだけです。キリストの到来が必ずしも喜びをもたらすとは限らないようです。では、喜びにあふれたこの人々はどのような人々だったのでしょうか。私たちがキリストの到来の喜びにあずかるために、何が必要なのでしょうか。今日はこの占星術の学者たちに注目したいと思います。
喜びにあふれた異邦人
 そこでまず目に留まりますのは、彼らがユダヤ人ではなく異邦人であったという事実です。彼らは「東の方から」エルサレムにやって来た人々でした。彼らは尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2節)。これを聞いたヘロデ王は、「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」(4節)と書かれています。今では世界中でクリスマスが祝われていますが、ここで占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」と言っているように、もともとメシア=キリストの到来を待ち望んでいたのは世界中の人々ではなくて、ユダヤ人たちでした。メシア=キリストは、もともとユダヤ人を救う「ユダヤ人の王」としてユダヤ人によって待ち望まれていたのです。メシアの到来を告げる聖書も、天から降ってきた書物ではなくて、もともとはユダヤ人の書物だったのです。しかし、そのユダヤ人が待ち望んでいたはずのメシアが誕生した時、そのメシアを求めてやって来たのは当のユダヤ人ではなくて、東方から来た異邦人だったのだ、と今日の聖書箇所は伝えているのです。
 しかも、彼らは占星術の学者たちでした。モーセの律法は占いやまじないの類を厳しく禁じています(例えば申命記18・10以下)。当然のことながらユダヤ人たちは異教の占星術師を神の律法を知らぬ汚れた人々と見なしていました。ユダヤ人からすればこの占星術師は救いから最も遠い部類の人々であったのです。しかし、そのような彼らこそ、キリストを求めてやってきて、キリストにある喜びにあふれたのだ、と聖書は伝えているのです。
 このことは、まさに後のイエス・キリストの宣教と教会の歴史を象徴している出来事であったと言えます。キリストが歳およそ三十にして公の宣教の働きを開始した時、キリストのもとに来て喜びにあふれたのは、ユダヤ人社会においては汚れた者として軽蔑されていた徴税人たちや罪人たちでありました。また、後に教会がキリストを宣べ伝えていった時、教会を満たしたのは、メシアを待ち望んでいたはずのユダヤ人たちよりも、むしろ救いから遠いと見なされていた異邦人だったのです。
 神の招きはいつでも私たちの思いを越えて遠くに及んでいます。私たちは自分についても、他の人についても、神の救いの対象外であるかのように思ってはならないのです。異邦人の占星術師でさえ喜びにあふれているのです。神は彼らを喜びから閉め出しませんでした。喜びから閉め出すのは神様ではありません。私たち自身です。人間の側の問題です。この占星術師のようになるか、それともヘロデとなるかということなのです。
礼拝すべき方を求めていた人々
  ヘロデとエルサレムの人々についてはこう書かれています。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。ヘロデは政治的な支配者です。彼は政治的な意味において自分が支配することのできる世界を持っています。しかし、ヘロデは純粋なユダヤ人ではなかったために、民衆の支持基盤を持ちませんでした。ですから、いつも権力の座を失う危機感を覚えていたのです。それゆえに、疑心暗鬼から自分の妻を処刑し、息子たちも自ら処刑してしまったのでした。そのようなヘロデがメシアの誕生の噂を聞いて不安になったことはうなずけます。メシアの到来は彼の支配している古い世界の終わりを意味するからです。このように、メシアの前にひれ伏すつもりがなく、ただ自分の古い世界を守ろうとする人にとって、メシアの到来は決して喜びをもたらすことはないのです。
 不安になったのはヘロデだけではありませんでした。「エルサレムの人々も皆、同様であった」と書かれています。ここで「エルサレム」という言葉が表現しているのは、特定の場所というよりは、むしろユダヤ人社会の宗教的な支配体制のことであろうと思われます。その代表は、後に出てくる民の祭司長たちや律法学者たちです。彼らは宗教的な意味において自分たちが支配することのできる世界を持っています。しかし、メシアが到来するということは、神によって決定的に新しいことが始まるということですから、彼らの持っている古い宗教的世界もまた終わりを迎えることを意味するのです。彼らの不安はヘロデの不安と同質です。メシアの前にひれ伏すつもりがなく、ただ自分の古い世界を守ろうとする人々にとって、メシアの到来は喜びとならないのです。
 救いを求めるということは、自分よりも大いなる方の前にひれ伏し、大いなる方の御業を求めることに他なりません。しかし、人は自分が支配できる古い世界を手放したくないのです。自分を明け渡してひれ伏したくないのです。しかし、自分が主であり続けようとし、自分の古い世界を守ろうとする時、せっかく神が送ってくださったメシア=キリストであっても、古い世界を脅かす不安材料にしかならないのです。
 私たちはこの東方から来た占星術師がどのような人々であったかを心に留めねばなりません。占星術師は、星の運行が人間の運命を支配していると信じられていたオリエントの世界では、それなりの高い地位と支配力を有しておりました。彼らが対外的にも低い位の人間でなかったことは、エルサレムに入ってすぐにヘロデ王に謁見できたことからも分かります。しかし、彼らには自分の古い世界を守ることよりも大事なことがありました。自分が本当の意味でひれ伏すべき御方を見出し、その御方を礼拝することだったのです。それこそ彼らの人生の最重要事項だったのです。
 彼らが携えて行った献げ物は「黄金、乳香、没薬」でありました。ある学者は、これらが占星術師の商売道具でもあったのだと言っています。なるほど、もしそうならば、まさに彼らの献げ物は、彼らが自分の持っていた古い世界、占星術の世界をメシアの前に献げてしまったことを意味するでしょう。実際、彼らは帰る時、もはや星に尋ねるのではなく、神の御声に従って帰って行ったのです。そのように礼拝すべき方を求めていた彼らであるゆえに、メシアの星の出現は、決して不安をもたらすものとはならなかったのです。むしろ、彼らの希望となったのであり、彼らにとって大きな喜びとなったのです。
実際に旅に出た人々
 さらに私たちは、彼らが祖国を後にして《実際に旅に出た》ことにも注目すべきでしょう。古代の占星術の世界には、それなりに学問的な体系と呼べるものがあったようです。彼らはありとあらゆる書物に当たり、メシアの星について調べることができたことでしょう。また、バビロニアには多くのユダヤ人たちが住んでいましたから、ユダヤ人の王として到来するメシアについても調べることはできたでしょう。しかし、彼らはそれだけに留まらなかったのです。彼らはメシアを見出し、自らがひれ伏して礼拝するために、実際に立ち上がって旅に出たのです。調べることまでは本の前でできます。しかし、礼拝することは体をその場に運んでいかなくてはならないのです。
 そう言えば、聖書の中には、実際に旅立った人の話がたくさん出てきます。アブラハムもそうでした。モーセに導かれたイスラエルの民もそうでした。イエス様のたとえ話の中の「放蕩息子」もそうです。放蕩息子は自らの悲惨な生活の中で悩んでいただけではありませんでした。「彼はそこをたち、父親のもとに行った」(ルカ15・20)と書かれているのです。あるフィンランドの東方教会の指導者が次のように書いています。「信仰は考えることによってではなく、実行することによって得られる。言葉や考察ではなく、体験が神を教えてくれる。窓を開けない限り、新鮮な空気は部屋に入れられない。日光浴をしない限りは、肌は黒くならない。信仰を得ることも、同様なことである。教父たちの言っているように、ただ楽に腰かけて待っているだけでは、私たちは目標に達することはできない。」ーーなるほど、その通りです。
 ヘロデ王が民の祭司長たちや律法学者たちに、メシアはどこに生まれることになっているのかと問うた時、彼らはすぐに「ユダヤのベツレヘムです」と答えることができ、その根拠となる旧約聖書のミカ書の言葉を挙げることができました。地図で見ますと、エルサレムからベツレヘムは、さほど離れてはおりません。せいぜい10キロメートルぐらいの距離です。彼らはメシアがベツレヘムに生まれることを知ってはいました。占星術の学者たちが、今からそこに向かおうとしていることも知っていました。しかし、律法学者たちは彼らに同行しようとはしませんでした。それゆえに、喜びに与ることもありませんでした。
 占星術師は、遠くから旅をしてきました。二千年前の砂漠越えの旅がいかに困難であったかは想像を絶します。しかも、それはかなりの長旅であったに違いありません。後に二才以下の男の子をヘロデが皆殺しにするという話が出てきます。なぜ二才以下なのか。7節に「ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた」とありますが、その時期に基づいて判断したのです。星が出たのは二年も前のことでした。この二年間、彼らは求め続けたのです。その大部分を長旅で費やしました。彼らは諦めませんでした。求め続けました。そして、ついに彼らは礼拝すべき御方に出会ったのです。そこに大きな喜びがありました。そして、この喜びに与った彼らは、もはや星に尋ねるのではなく、神の言葉に従って帰っていきました。神の導きによって別の道を通って帰って行ったのです。
 さて、これがこの物語に出てきます「喜びにあふれた」人々です。既にキリストは来られました。既に救いの御業は始まっています。その知らせは、異邦人である私たちのもとにまで伝えられました。神の救いは、私たちに及ぶほど広いのです。私たちは、神の救いの御業のただ中にいるのです。そこにおいて、私たちはヘロデになることもできるし、あの占星術の学者になることもできるのです。願わくは私たちの内にキリストによる喜びが満ちあふれますように。