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「お言葉ですから」

2007年1月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 5章1節~11節

 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方です。かつて人々の苦しみに目を向けられたイエス様は、今も私たちの苦しみに目を向けていてくださいます。かつて一人一人の人生に入ってこられたイエス様は、私たちの人生にも救い主として入ってきてくださいます。私たちは聖書の中に、長年の病気で苦しんでいる人の人生に入ってこられたイエス様の姿を見ることができます。差別と抑圧にあえいでいる人の人生に入ってこられたイエス様の姿を見ることができます。イエス様は娘を失った父親の悲しみの中に入ってこられました。息子を失った母親の悲しみの中に、イエス様は入ってこられました。そして、イエス・キリストは、実を結ばない労苦の虚しさの中にも入ってこられました。今日の聖書箇所は、そのようなキリストの姿を伝えております。今日は、そのようにしてイエス様が関わられ、召し出された一人の人物、シモン・ペトロに注目したいと思います。そこに見るのは、私たちの姿でもあるからです。

沖へ漕ぎ出して、網を降ろしてみなさい

 今日の福音書の物語において、ペトロはどこにいるのでしょうか。彼は岸から少し漕ぎ出した一そうの舟の中にいます。その同じ舟の中にイエス様がおられます。イエス様は腰を下ろして岸にいる群衆を教えておられます。大勢の群衆が聞いておりました。特にここには「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」(1節)と書かれております。そのように神の言葉を聞く群衆の中で、ペトロという人は図らずもイエス様に一番近いところで神の言葉を聞く恵みを得ております。

 やがてイエス様は群衆に語り終えられます。そして、今度は同じ舟にいて一番近いところにいるペトロに個人的に言葉をかけられました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」

 ペトロと主は同じ舟の中にいました。そこでペトロはつい先ほどまでイエス様が神の言葉を語るのを聞いておりました。しかし、それはあくまでも群衆に語りかけられる言葉でした。主が群衆に語りかけておられる限り、その言葉は何ら困難を引き起こすことはありませんでした。ペトロは傍らで聞いていて、ある言葉にうなずき、ある言葉に感心していたかもしれません。しかし、イエス様とペトロとの関わりは、そのようなもので終わりませんでした。イエス様は今、《ペトロに》語りかけておられるのです。ある特定の具体的な状況にいるペトロに語りかけておられるのです。いわば、イエス様は神の言葉を携えて、ペトロの生活の中に入ってこられたのです。

 御言葉が単なる群衆への語りかけでなくなる時、自分への言葉として聞き始める時、そこに何が起こるのでしょう。――そこには葛藤が生じるのです。イエス様の言葉への抵抗が起こるのです。人々一般に対する話しではなく、他ならぬこの《私が》、神と向き合い、《私が》神に信頼し従うのか否かを問われることになるからです。

 ペトロの身になって考えてみてください。ペトロは夜通し苦労して働いても何一つとれなかったのです。不毛な労苦による虚しさをいやというほど味わっていたのです。主はそのような虚しさの中に入って来られたのです。そして何と!もう一度、バカバカしい労苦へと向かわせようとなさるのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。

 もちろん、この言葉によってペトロがどんな気持ちになるかを、イエス様が知らなかったはずはありません。「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた」(2節)と書かれているのです。イエス様はしっかりと見ているのです。ガリラヤ育ちのイエス様なら、その様子を一目見ただけで、(ああ、捕れなかったんだな)ということは分かるはずです。一匹の魚をも獲ることなく、ただ汚れるだけ汚れた網を洗っている、疲労と落胆に歪んだ漁師たちの顔を、イエス様が見過ごしているはずがありません。

 イエス様はすべて分かっておられるのです。その上で言われるのです。「一晩中働いて何もとれなかったんだね。実りのない労苦のゆえに疲れ果てているんだろう。でも、もう一度、今度は私と一緒に行こうじゃないか。沖に行って漁をしよう。私と一緒に、もう一度あの何もとれなかった沖に漕ぎ出て、網を降ろしてみるんだ」。そう主は言っておられるのです。

お言葉ですから、網を降ろしてみましょう

 この主の語りかけに、ペトロはこう答えました。「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5節前半)これは思わず口をついて出た、彼の心の叫びです。その意味するところは明らかです。さらに労苦を重ねることに何の意味があるのか、ということです。そんな苦労をするのはもうイヤだ、ということです。目に見える結果が出ることが分かっているのなら、そのための労苦はどれほど大きくても人は辛抱するものです。実りが期待できるなら、その期待のゆえに人は労苦を引き受けるものです。人は無意味に見える労苦には耐えられません。真っ昼間に行う漁のように、何も期待できないことのために苦労するのはまっぴらごめんです。そんなことはイヤなのです。それが「何もとれませんでした」という言葉が示すペトロの心です。

 しかし、ペトロの言葉はそれで終わりませんでした。さらに彼は言います。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節後半)。5節の前半が彼の心の叫びであるとするなら、後半は彼の実際の行動です。彼はともかく、沖へと漕ぎ出したのです。彼が沖に出たいからではありません。それがイエス様の言葉であるから、ただそのゆえにその言葉に従ったのです。

 人は「お言葉ですから」と言って従うこともできれば、「お言葉ですけれども」と言って従わないこともできます。心の中に抱いていた思いがいかなるものであれ、その両者は決定的に異なるのです。

 ペトロはともかく主の言葉に従い、沖に漕ぎ出しました。その結果、何が起こったでしょうか。福音書の物語は次のように続きます。「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」(6‐7節)。

 主の言葉に従った時、そこで奇跡が起こりました。大漁です。沖へ漕ぎ出して網を下ろした労苦は無駄になりませんでした。イエス様が一緒におられたゆえに、労苦は報われました。多くの実りを得ることになりました。めでたし、めでたし。…と、私たちの目は大漁というその結果にのみ向きがちです。しかし、どうもこの物語が本当に伝えたいことは、御言葉に従った時に奇跡的な大漁を得たたということではなさそうです。ペトロは次なる大漁を得るために、もう一度イエス様に一緒に舟に乗ってくれと頼んではいないでしょう。実は、ペトロにとっては、大漁を得たということよりも、もっと大きなことがここにおいて起こっているのです。

 ペトロはどうしたでしょうか。彼はひれ伏したのです。「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである」(8‐9節)と書かれているのです。このことこそ、ペトロの人生において起こった、決定的に重大なことなのです。

 そもそも、シモン・ペトロはここで初めてイエス様の奇跡を見たわけではありません。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいた時、主が彼女を癒されたのです。その時、シモンは確かにイエス様が、「枕もとに立って熱を叱りつける」(4:39)という驚くべき仕方でしゅうとめを癒されるのを見たのです。そしてその夕べ、イエス様が連れてこられた多くの病人に手を置いて癒されるのを目撃しているのです。しかし、それでもペトロは主の前にひれ伏すことはありませんでした。「わたしは罪深い者なのです」と告白することもなかったのです。

 ではなぜ、ペトロはここで「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ってひれ伏さざるを得なかったのでしょうか。それは彼がイエス様の言葉に従って沖に出たからです。御言葉に従って実際に沖へと漕ぎ出して初めて、まさに彼は神の言葉のリアリティに触れることになったのです。彼はそこで信仰を求めておられる神、信頼と従順を求めておられる生ける神と、本当の意味で向き合うことになったのです。

 そして、たいへん逆説的ではありますが、ペトロは御言葉に従ったときに、初めて自らの不信仰と不従順に直面することになったのです。ですから彼は恐れおののいてひれ伏したのです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言って主の前にひれ伏さざるを得なかったのです。

人間をとる漁師になるのだ

 しかし、そこでペトロは驚くべき言葉を耳にしたのでした。それは恐らく彼が生涯忘れることのできなかった主の御言葉であろうと思います。

 主は、ひれ伏したペトロに「恐れることはない」(10節前半)と言われました。「恐れることはない」。それはキリストを通して語られた神の宣言です。「恐れることはない」という言葉が神の側から語られるとき、人はもはや「主よ、わたしから離れてください」と言う必要がなくなるのです。「恐れることはない」という言葉が与えられるとき、神のリアリティの前に恐れおののかざるを得ない罪人が、再び頭を上げることができるのです。

 いや、ペトロはただ頭を上げることが許されただけではありません。イエス様はさらにペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節後半)と言われたのです。「人間をとる漁師」とは、正確に言うならば、「人間を生け捕りにする漁師」ということです。捕らえるのは殺すためではありません。真に生かすためです。ペトロはやがてその本当の意味を知ることになります。なぜなら、ペトロ自身、主によって生け捕りにされた者だからです。実りのない労苦の虚しさに呻いていた彼の人生に、イエス様が神の言葉を携えて入ってこられた。そして、彼を捕らえて真に生きる者としてくださったのです。さらにそのようなイエス様の働きへと、ペトロは新たに召されたのでした。捕らえられた者が主と共に捕らえる者とされ、生かされた者が主と共に人を生かす者とされたのです。

 やがてペトロは初代教会の中心的な指導者となります。主のために大きな働きをなす人になりました。しかし、彼は決して忘れなかったに違いありません。すべてはあのガリラヤ湖畔にてはじまったことを。「あの時、主はこの《私》に語りかけられた。主がこの《私》に語りかける言葉を聞いたのだ。そして、心の中で葛藤しながらも、ぶつぶつ言いながらも、ともかくあの方に従ったのだ。まことに不信仰極まりない、不従順極まりない、まことに罪深い不遜な私が、『お言葉ですから』と言って従ったのだ。そして、真実なる主は私を赦し、人間を生け捕る漁師にしてくださった」。そうペトロは証しし続けたに違いありません。

 そうです、それは私たちにしても同じなのです。主の言葉を《私への言葉》として受け入れ、「お言葉ですから」と言って従うところからはじまるのです。

 
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