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「神は真実な方です」

2007年1月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章1節~9節

 「神は真実な方です。」――先ほどお読みしました第2朗読の言葉です。「神は真実な方です。」この言葉が先週一週間、絶えず私の頭の中を巡っていました。先週は特に人と会ってお話ししたり電話でお話ししたりすることの多かった週でした。それぞれ大きな重荷を負っている方々とお話ししていた時に、いつも私の心に響いていたのは先ほどの御言葉でした。「神は真実な方です。」多くのことを話したように思いますが、結局はこの御言葉を共有したかったのだと思います。そして、ここにいる皆さんとも、この御言葉を共有したいと思いつつ今日はここに立ちました。

キリストとの交わりに招き入れられて

 「神は真実な方です。」――真実であるとは、信頼に価するということです。ある人は次のように表現していました。「真実とは変わらない愛である。永遠に変わらない愛、それが神の真実である。」神はそのような意味において真実な方です。私が今日申し上げたいのは、そのような真実な神様を共に信じましょう、ということです。変わらぬ愛をもって愛してくださる御方に信頼しましょう、ということです。

 「神は真実な方です」。――その真実な神が、私たちをここに招いてくださいました。教会へと招いてくださいました。礼拝の場へと招いてくださいました。さらに言いますならば、礼拝から礼拝へと向かう信仰の生活へと招き入れてくださいました。私たちがここにいるとはそういうことです。そのことを聖書は次のように言い表しています。「この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(9節)。信仰の生活、祈りながら生きる生活、礼拝しながら生きる生活――それは主イエス・キリストとの交わりの生活です。私たちの救いのために十字架にかかられ、そして復活して今も生きておられるキリストとの交わりへと私たちは招かれたのです。それが信頼に価する神、変わらぬ愛をもって愛してくださる神が、私たちにしてくださったことです。信頼に価する神がしてくださったことだということは、言い換えるならば、これさえあれば大丈夫だということでしょう。

 私たちは様々なものが必要であると思って生きていますし、(あれがない、これが足りない)と思いながら生きているものです。ともすると自分自身についても、(このことが欠けている、これが足りない、これがないからダメなんだ、ああダメだ、ダメだ)と思いながら生きているものです。ですから不安で、心配で、恐れてばかりいます。しかし、真実な神、信頼に価する神が既にしてくださったことがあるのです。そこにまず目を向けるべきでしょう。真実な神が私たちに信仰生活を与えてくださいました。既にキリストとの交わりへと招き入れてくださいました。信頼に価する神がしてくださったことですから、それで完全であり十分なのです。私たちにとって何よりも大事なことは、真実な神がしてくださったことに信頼することであり、キリストとの交わりに留まることです。信頼して留まることなのです。

すべての点で豊かにされて

 「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」さらにこの御言葉の持つ豊かな内容を味わってまいりましょう。パウロが「神は真実な方です」と言っている時、彼が具体的に思い描いていたことがありました。それは4節から8節まに書かれています。この9節の言葉は、その前に書かれています4節から8節までのまとめとなっているのです。

 4節で彼は「いつもわたしの神に感謝しています」と言っています。これを書いている時だけではありません。「いつも」です。この手紙の宛先であるコリントの教会を思って、神に感謝しているのです。コリントのクリスチャンが皆、立派な信徒だったからでしょうか。コリントの教会が理想的な教会であったからでしょうか。いいえ、そうではありません。事実はその正反対でした。この手紙に見るように、コリントの教会は問題だらけの教会でした。しかし、パウロはその手紙の冒頭においてまず神に感謝しているのです。なぜでしょうか。神がコリントの人たちも、キリストとの交わりへと招いてくださったからです。その恵みが与えられているからです。「あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて」感謝しているのです。真実な神がそのようにしてくださったのです。真実な神がしてくださったことならば、それは完全であり十分なはずです。ですからパウロは安心して感謝を捧げているのです。もちろん解決されなくてはならない問題はたくさんあります。しかし、そこにはキリストとの交わりにおいて既に与えられている恵みがあるのです。コリントの教会に現実に始まっている神の恵みの現れがあるのです。

 パウロはまずそこに目を向けてこう語ります。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(5‐7節)。

 あなたがたは「すべての点において豊かにされている」とパウロは言います。原文ではこれが5節の冒頭の言葉です。これはある意味では驚くべき言葉です。コリントの教会には、この世的に見るならば、貧しい人、弱い人、無力な人が少なくなかったのです。しかし、それにもかかわらず彼らは豊かなのです。すべての点において豊かにされている。この上ない豊かさがキリストとの交わりにおいて与えられているのをパウロはしっかりと見ていたのです。その豊かさとは何でしょう。「あらゆる言葉において、あらゆる知識において…豊かにされています」とパウロは言います。教会において語られる「あらゆる言葉」ということで考えられるのは、一つには《神を語る言葉》、すなわち宣教の言葉であり、もう一つには、《神に語る言葉》、すなわち祈りの言葉でしょう。「あらゆる知識」も同様に、神を知る知識ということでしょう。

 考えてみれば、本当の意味で豊かなことって、これではないですか。いかなる状態にあっても神様について多くを語ることができる、真実なる神の恵みを豊かな言葉をもって証しすることができる、また困難と窮乏の中にあっても神に向かって語りかけることができる。そのようにして真実なる神を豊かに知る者として生きている――パウロが見ているように、本当の豊かさというものはそこにこそあるのです。キリストとの交わりにおいて、神は確かにコリントの教会にその豊かさを与えてくださっていました。そして、私たちにも与えてくださるのです。

主が最後までしっかりと支えてくださる

 そして、コリントの信徒たちは、神からいただく豊かな賜物によって互いに仕えながら、後に見ますように、キリストに再び相見える時を待ち望む者とされていたのです。彼らは「待ち望む者」すなわち真の希望に向かって生きる者とされていたのでした。そして、パウロはそのような彼らについてこう語っているのです。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」(8節)と。

 これこそ私たちの希望でもあります。真実な神が招いてくださったキリストとの交わり――その交わりが私たちを支えるのです。キリストが私たちを支えてくださるのです。「しっかり支える」とは、「確かにする」とか「しっかり立たせる」という意味の言葉です。私たちがしっかり立って生きることができるとするならば、それは本当の意味で拠り頼むことのできる支えによるのです。その支えは、頼りにならない私たちと同じ次元のモノや人ではあり得ません。キリストが支えてくださるのです。キリストが私たちをしっかりと立たせてくださるのです。いつまで?「最後まで」です。そう書かれていますでしょう。「主も《最後まで》あなたがたをしっかり支えて」と。

 「最後まで」とはどういうことでしょう。ここには「死ぬまであなたがたをしっかり支えて」と書かれてはいません。「最後まで」です。だいたい「死ぬまであなたがたをしっかり支えて」では困ります。死んで放り出されたのでは困るではありませんか。そもそもこの「最後」というのは、「もはやおしまいだ」という「最後」ではないのです。これは言い換えるならばゴールを意味するのです。死は私たちのゴールではありません。私たちはお墓に向かって生きているわけではありません。もっと大事な本当のゴールがあるのです。

 そのゴールとは何でしょうか。先に見ましたように、パウロは7節後半でコリントの信徒たちについてこう言っているのです。「(あなたがたは)わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」「キリストの現れ」は、教会ではしばしば「キリストの再臨」、つまり再びキリストが来られる事として言い表されます。それは要するにキリストにお会いする時に他なりません。

 確かに私たちはキリストとの交わりへと招き入れられました。信仰生活はキリストとの交わりです。しかし、私たちはまだキリストをおぼろに知るに過ぎないのです。完全に知ることはできないのです。しかし、永遠にそうなのではありません。やがて私たちははっきりとキリストを知る時が来るのです。顔と顔を合わせて相見えるようにキリストを知る時が来るのです。それが「わたしたちの主イエス・キリストの現れ」であり、その「イエス・キリストの日」こそ、私たちが向かっているゴールなのです。

 その時まで、私たちはキリストをおぼろに知るに過ぎないと申しました。しかし、それはさほど問題ではありません。キリストは私たちをおぼろではなくはっきりと知っていてくださるからです。そのように私たちを知っていてくださるキリストが、私たちをしっかりと支えてくださるのです。いつまで?最後まで、ゴールまでです。

 そして、そのキリストの現れというゴールこそ、私たちの救いが完成される日でもあるのです。ですから8節全体ではこのように書かれているのです。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」

 「非のうちどころのない者」とは、罪のない者ということです。皆さん、私たちが生きている限り、悲しいことは沢山ありますが、何が悲しいかと言って、最も悲しいことは私たちに罪があるということでしょう。罪の根っこが私たちの存在の最も深いところにまで食い込んでいるのです。根っこがあるから、雑草のように刈っても刈っても生えてくるのでしょう。そのようにして私たちは人を苦しめ自分も苦しんで生きているのでしょう。

 しかし、私たちは永遠にそうなのではありません。私たちは罪から完全に解放される時が来るのです。それがキリストの日です。その時には罪のないものとされて神の御前に立っているのです。その時まで、そのようなキリストの日まで、キリストは私たちを見捨てず、投げ出さず、見限らず、最後までしっかりと支えてくださるのです。

 私たちはそのようなキリストとの交わりへと招き入れられました。それが真実な神のしてくださったことです。そのように、キリストとの交わりへと私たちを招いてくださった、変わることのない愛をもって愛してくださる神、信頼に価する神を信じましょう。 神は真実な方です!

 
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