「新しい神殿」
2007年1月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ハガイ書 2章1節~9節
「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる」(4節)。「勇気を出せ」と繰り返されているこの第一朗読の言葉が、今日、私たちに与えられている御言葉です。
神殿の再建
これはもともと紀元前六世紀にごく短い期間活動したハガイという預言者を通して語られた主の言葉です。ハガイ書にはこの言葉が与えられた日付が明記されています。「ダレイオス王の第二年、七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ」と書かれています。ペルシアの王ダレイオスの治世の第二年と言いますと、今日の暦では紀元前520年に当たります。それは神殿の再建工事が再開した年でした。
神殿の「再建工事」と言いました。再建されなくてはならないのは、それまで壊れていたからです。そこから遡ること約70年前、神殿が建っていたエルサレムはバビロニア軍に包囲されておりました。軍事力では圧倒的な差があります。約二年間持ちこたえたものの、ついに都は陥落し、城壁は破壊され、神殿は焼き払われてしまいました。そして、主だった人々は皆、バビロンへと捕らえ移されることとなったのです。
それから約50年の月日が流れました。バビロニア帝国は崩壊し、ペルシア帝国が支配する時代となりました。支配者となったペルシアの王キュロスは、帝国内の被占領民族に対して極めて寛容な政策を採りましたため、捕囚となっていたイスラエルの民に対しても、エルサレムに帰還し神殿を再建することを許可しました。「キュロスの勅令」などと呼ばれます。捕囚の時代は終わりました。
とはいえ既に50年も経っているわけですから、エルサレムから捕らえ移された人よりも、バビロンで生まれた人々の方が圧倒的に多いのです。異国の地においてもそこそこ成功を収め、財産や地位を築いてきた人々も少なくはないのです。当然のことながら、皆が皆エルサレムに帰りたがったわけではありません。そのような中で、あえて全く生活基盤のないエルサレムに帰還しようとした人たちは、よほど意識の高い人たちです。神殿の再建、さらにはエルサレムの再建の理想に燃えた人たちだったのでしょう。
しかし、現実は極めて厳しいものでした。彼らが目の当たりにしたのは、荒れ果てた土地、まさに廃墟だったのです。それでもなお、彼らは神殿の再建に取りかかろうとしました。しかし、そこに妨害が起こります。経済的な困窮もありました。結局、神殿の再建計画は頓挫してしまったのです。その後、帰還民は増えていきました。ユダの総督ゼルバベルに率いられて、より多くの人々がエルサレムに帰ってきました。しかし、荒れ果てた神殿は放置されたままでした。
皆自分の生活を守るので精一杯だったのです。こんな大変な時に、神殿どころじゃない。礼拝どころじゃない。信仰のことを言っている場合じゃない。そういうことです。今日の私たちだって、何か事が起こって生活が脅かされた時に、そこでなお教会のこと、礼拝のことを考えることができるか。それとも礼拝どころじゃないよ、信仰の話をしている場合じゃないよ、と言うようになるか。そんなことを考えると、彼らの姿は他人事ではありません。ともかく、そのようにして18年の月日が流れていったのです。
しかし、ダレイオス王の第2年の6月1日に預言者ハガイが口を開き、そのような帰還民たちに主の言葉を語り始めたのです。それが1章に記されている言葉です。「今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」(1:4‐5)。その後、11節までを一気に読んでみてください。まったく説明が不要なほどにハガイのメッセージは明瞭です。優先順位が間違っているということです。神様を後回しにして自分の生活を一生懸命に守っているつもりでいるけれど、それは本当の意味で守っていることにならないのだ、ということです。今、立ち止まって、本気で自分が歩んできた道を省み、人間の目に賢いと見えることが実はいかに愚かなことであるかを悟り、これから歩むべき道をしっかりと心に留めることが、どうしても必要だということです。
ハガイの預言の言葉によって、彼らは目を覚ましました。そうだ!何のために帰ってきたのか。神殿を再建するためではないか。礼拝をここにおいて捧げるためではないか。神殿のある都を再建するためではないか。そのことに気づいたのです。彼らは神殿再建へと再び立ち上がりました。ダレイオス王の第2年のことでした。
目に映るのは無に等しいものではないか
しかし、神殿を再建するために立ち上がったものの、実際には資金も資材も限られています。彼らにできることはたかが知れているのです。規模から言っても、大したものは建ちやしない。その現実が重くのしかかってまいります。しかも帰還民の中の高齢者たちはかつてソロモンが建てた壮大な神殿を知っているのです。その装飾品の華やかさ、捧げられていた犠牲の多さ、仕えていた祭司たちの多さ、まさに周辺諸国の来訪者が目をみはったその規模の大きさを知っているのです。どうしても比較して、言いたくもなるでしょう。「みすぼらしいなあ。小さいなあ。」若い人たちだって、自分が実際に見ていなくても分かっているのです。見栄えのしないものしか建ちやしない、と。
自分たちが必死になって努力して成し遂げようとしていることが、現実には他の人から大したものとは見なされないとしたら、しかも自分自身もまた(苦労ばかりは大きいけれど、成し遂げられることは大したことないなあ)と思わざるを得ないとしたら、どうでしょう。気持ちが削がれるではありませんか。やる気が失せてくるでしょう。
ですから、主は再び彼らに語られたのです。それが今日お読みしましたハガイの言葉なのです。「お前たち、残った者のうち、誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか」(3節)。主は彼らの心の内にあるものをご存じです。「目に映るのは無に等しいものではないか」と、そう思っているんだろう?主はそう言っておられるのです。神様は分かっておられるのです。分かった上で、あえて主は彼らに語られるのです。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる」(4節)。
「勇気を出せ」「働け」という言葉が、どうして意味を持つのか。それはひとえに「わたしはお前たちと共にいる」という約束によるのです。苦労ばっかりが多い小さな再建事業のただ中に、神様が共にいてくださるのです。そもそも、神殿を再建しているのでしょう。ならば、一番大事なことは、神様が共にいてくださるということではありませんか。主はさらに言われました。「ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない」(5節)。イスラエルは神に背いたのです。いわばエジプトを出たときに結んだ契約を一方的に破ったのです。そして、結局、国も都も神殿もすべてを失ったのです。しかし、そんな彼らに主は言われます。ここにまだあの契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている、と。要するに、私はお前たちを見捨ててはいない、ということです。神は彼らを赦して共にいてくださるのです。
今こそこの神の憐れみに目を向けなくてはならないのです。自分たちがしていることが大きなことか小さなことか、人の目にどう映るか、自分がどう評価できるか――そんなことはどうでもよいことなのです。「働け、わたしはお前たちと共にいる」と主が言われるのですから。勇気を出して、安心して働いたらよいのです。
新しい神殿の建設
そもそも、神様がそう望まれるならば、大きな神殿などいくらでも建てることはできるのです。資材がない、資金がないということは、神様にとっては極めて小さなことでしかないのです。主は彼らにこう言われました。「まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度、天と地を、海と陸地を揺り動かす。諸国の民をことごとく揺り動かし、諸国のすべての民の財宝をもたらし、この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。銀はわたしのもの、金もわたしのものと万軍の主は言われる」(6‐8節)。すべては神様のものなのですから、必要なものをすべて満たすことがおできになるのです。
歴史的に見るならば、このハガイの言葉は実に奇妙な仕方で実現したと言えます。今日の福音書朗読の中に、こんな場面が出てきましたでしょう。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る』」(ルカ21:5‐6)。550年後のイエス様の時代には、なんとエルサレムに大きな立派な神殿が建っているのです。ヘロデ大王が何十年もかけて大拡張工事を行ったのです。まさに「銀はわたしのもの、金もわたしのもの」と言われる神様の金や銀がそのために用いられたと言えるでしょう。
しかし、それ自体は本当は大して重要なことではないのです。重要なことは、そこに神様が共におられ、まことの礼拝が捧げられているかどうか、ということでしょう。もしそうでないならば――。イエス様は何と言われましたか。そんなものは全部崩れてしまうと言われたのです。石が二つ積み重なっていることもないだろう、と。そして、事実そのとおりになりました。紀元70年、ユダヤ戦争において、ローマ軍の手によって神殿は破壊されてしまうのです。
そのように、イエス様は神殿の崩壊を予告しました。しかし主は、神殿などこの世に存在しなくてよいと思っておられるのではありません。大事なことは神様が共におられることであり、神様が「わたしの霊はお前たちの中にとどまっている」と言ってくださることです。イエス様は、ある意味でそのような神殿、新しい神殿を建てるために来られたのです。石や木で造られたのではない、人間で造られた神殿です。すなわちキリストの教会です。今日の第2朗読でパウロはこのように言っていました。「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(2コリント6:16)と。ペトロもこう言っています。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(1ペトロ2:5)。
しかし、人間で造られた神殿ということで、私たちがその材料であるとしますと、やはりあのハガイの時代の人々と同じ思いになる時があるかもしれません。「みすぼらしいなあ。見栄えしないなあ。労苦ばかり多くて、大したものはできないなあ」と。しかし、主は今日の私たちにも語っていてくださるのです。「勇気を出しなさい。働きなさい。わたしはお前たちと共にいる。ここにキリストの血によってわたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている」と。
重要なことは神様が共にいてくださることです。神の霊が留まっていることです。みすぼらしい。見栄えがしない。そんなことは大したことではありません。主の神殿とされていることを大いに喜びましょう。キリストの十字架と復活によって、そして聖霊の降臨によって、神は確かに御赦しをもって私たちと共にいてくださることを明らかにしてくださったのですから。