「自分の十字架を負う」
2007年3月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 9章18節~27節
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
若干言葉は異なりますが、このペトロの信仰告白をマタイもマルコも伝えています。しかし、ルカは特にこの場面を「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」(18節)という言葉をもって書き始めています。この福音書は繰り返し、ひとりで祈っておられるイエス様の姿を伝えています。しかし、ここでは弟子たちも共にいるのです。それでも祈っておられるのはイエス様おひとりなのです。
イエス様がどれほど深刻な事態と直面しつつ祈っておられたか、それは22節を見ると分かります。後に主は弟子たちにこう語られるのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。これから歩むべき苦しみの道を思いつつ祈られるイエス様がそこにいます。弟子たちのただ中にありながらたったひとりで祈られるイエス様の姿がそこにあるのです。
弟子たちの置かれていた状況
しかし、弟子たちは、主の祈られる姿をよそに、ただ遊びほうけていたわけではありません。そのような弟子たちならば、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」などとイエス様が尋ねるはずがありません。弟子たちは確かに群衆のことを常に考えていたし、関わってもいたのです。
彼らの置かれていた状況は、その直前の出来事から伺い知ることができます。そこには、五つのパンと二匹の魚で多くの群衆を養われたイエス様の奇跡物語が書かれています。男だけを数えても五千人ほどいたと記されています。旅を続けるイエス様と弟子たちを取り巻く人の群れは、この時点で驚くほど巨大化していたことが分かります。巨大化した群衆にイエス様が関わるには、当然のことながら弟子たちの働きが必要です。それはかなりの重労働であったに違いありません。弟子たちは心身共にくたくたになったことでしょう。しかし、人々に喜ばれ、感謝され、賞賛される働きのために身を粉にして働くということは、うれしいことでもあります。彼らの心には今まで経験したことのないような充実感が満ち溢れていただろうと思うのです。
弟子たちは、そのように急速に拡大し、これからも限りない発展を見るであろうイエス様の宣教活動について、いつも語り合っていたのではないかと思います。そのように運動が巨大化していく時には、群衆の意識を知ることが極めて重要な課題となります。いわばリサーチが必要になるわけでありまして、実際弟子たちはそのことをきちんと行っております。イエス様が「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねた時、弟子たちはすぐに答えることができました。大群衆の大勢を占めている一般的見解を弟子たちはイエス様に伝えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(19節)。
そこでさらに主は弟子たちに問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」するとペトロはすぐに答えました。「神からのメシアです」(20節)。ペトロの答えに異論を唱える者はいませんでした。要するにこの答えは弟子たちの統一見解だったのです。この誇らしげなペトロの答えに、弟子たちの共通した意識を見ることができます。彼らは群衆の見解と自分たちの見解との間に、はっきりと一線を引いているのです。彼らが従っているこの御方こそ、イスラエルが待ち望んできたメシア、神の油注がれた王、救いをもたらすために来るべき御方である。その点において彼らは一致していたのです。そこに彼らの自負があったに違いありません。彼らにとって、群衆というものは、まだイエスを十分に理解していない人々であり、これから教化され目が開かれなくてはならない人々なのです。
だれにも話すな
ところが、イエス様は弟子たちに驚くべきことを語り始めたのでした。「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』」(21‐22節)。イエスがメシアであることを、弟子たちはまだ語ってはならないと言うのです。
それはなぜでしょう。それは主が言われるように、彼らがまだ決定的に重要なことを、その目で見てはいないからです。彼らは、イエス様が人々から捨てられ、苦しみを受け、殺されてしまうことを、見なくてはならないのです。そして、十字架の先に復活があることを見なくてはならないのです。彼らはまだメシアの本当の姿をまだ見てはいないのです。それゆえに語ってはならないのです。
主が語られたのは実に衝撃的な言葉でした。拡大しつつあるメシア運動の延長上に、メシアの王国があるのではないということです。メシアは、人々から喜ばれ、賞賛され、感謝され、迎えられて王座に着かれるのではない、と主は言われたのです。そうではなくて、イエスは人々から憎まれて、殺されるのです。十字架にかけられて殺されるのです。それがメシアであるということだ、と。すべては一度、無に帰することになる。そして、無に帰して初めてその先に復活があるのだと語られたのです。
弟子たちはイエス様について「神からのメシアです」と告白しました。しかし、彼らが本当に人々にそのことを語り得るためには、まずメシアがそのような《苦難のメシア》であることを理解しなくてはならなかったのです。メシアに従うということは、苦難のメシアに従うことなのです。苦難のメシアに従うのであるならば、それは単に人々から喜ばれ、感謝され、賞賛されることのために労苦することではあり得ません。単に自分の理想を実現することでも、民族や国家の理想を実現することでもあり得ないのです。そのような労苦なら、弟子たちはもともと喜んで引き受けるつもりでいたのです。しかし、苦難のメシアに従うということは、そうではありません。むしろ誰からも顧みられないような労苦、感謝されるのではなくむしろ憎まれ排斥されることになる労苦、目に見える豊かな結果を生むよりは、むしろ虚しく費えていくような労苦、そのような労苦の中に身を置くことでもあるのです。
それゆえに、主はさらに言われるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と。十字架を背負うとはどういうことですか。十字架刑に処せられる者がその十字架を背負って歩くことに、目に見える報いがありますか。あろうはずがありません。それは意味のない労苦の最たるものでしょう。しかし、苦難のメシアに従うということは、そういうことなのだと主は言われるのです。
命に向かって
さて、私たちはこの主の言葉をどう聞くのでしょうか。これは私たちにとって、受け入れることが困難な、あるいは不可能なほどに、あまりに厳しい要求なのでしょうか。――いいえ、そうではありません。この言葉は私たちにとって大きな慰めの言葉として、励ましの言葉として、そして希望の言葉として与えられているのです。
実際、どうでしょう。私たちが現実的になって自らの人生を見つめるならば、そこには何が見えてきますか。多くの労苦にいつも報いが伴っていますか。私たちが経験する苦しみには、いつも肯定的な意義を見出せますか。そうではないでしょう。否、むしろ私たちの経験する労苦の多くは、無理矢理負わせられて、しかも報いが全く返ってこないような、なんらの意義も見出せないような、なんで私がこんな思いをしなくてはならないのかと問わざるを得ないような、そんなものばかりではありませんか。
信仰を持ったらそのような労苦は減りますか。いいえ、増えるかもしれません。それこそ迫害の時代であるならば、愛を示しても石が飛んでくることだって起こるのです。イエス様は弟子たちを待っているそのような現実を思い描きながら語っているのです。私たちだって同じです。キリストの福音を携える者として、神の御心に従って、愛し難き人を愛し、受け入れ難き人を受け入れて生きようとするならば、自分に都合の悪い人を自分の人生から切り捨てながら生きるのではなく、隣人として共に生きていこうとするならば、それこそ負わなくてもいいような苦労を、しかも感謝もされないような労苦を、あえて背負うようなことにだってなる。そういうものです。
しかし、そこで私たちはイエス様の声を聞くのです。主は言われるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」――「わたしについて来い」と主は言われます。「日々、自分の十字架を背負って、わたしについてこい!」イエス様がそう言われるのです。この言葉を語られたのは、自ら十字架に向われたイエス様です。しかし、ただ十字架に向かっているだけじゃない。復活へと向かっているイエス様なのです。死に向かっているのではなくて、命へと向かっているイエス様なのです。そのイエス様が「わたしについて来い」と言われるのです。そのようにしてイエス様は、苦しみを背負わざるを得ない私たちに、十字架の向こうに輝く復活の命を指し示されるのです。
主は言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(24節)。それはなにも迫害の中で命を落とすかどうかということだけではありません。そもそも報われないような苦しみを背負うということは、人生のある部分を失うということではありませんか。命のある部分を失うことではありませんか。失うことはいやなことです。怖いことでもあります。しかし、そんなふうに思っている私たちに、イエス様は言われるのです。本当は少しも失ってはいないのだよ、と。むしろそのようにして命を得るのだ、命を救うのだ、と主は言われるのです。実際に文字通り十字架を背負って、そしてその十字架にかかられた御方、――そして永遠の命に復活した御方がそう言われるのです。命を失って命を得る。主はその事実を見せてくださった。だから、私たちも失うことを少しも恐れる必要はないのです。ただその御方についていきさえするならば!
とはいえ、肉なる私たちは弱いものです。その弱さゆえに、イエス様が指し示す復活の命を見失って揺らぐこともあるでしょう。希望を失って倒れ伏してしまうこともあるかもしれません。イエス様はこのように語っておられますが、弟子たちの弱さを知らなかったわけじゃありません。ペトロも転び、他の弟子たちも転び、逃げ出してしまうことをもご存じだったイエス様です。
だからこそイエス様は祈られたのです。今日の場面で弟子たちを代表して胸を張って「あなたは神からのメシアです」と信仰を言い表したペトロでした。しかし、そのペトロに対して、イエス様は後にこう語られるのです。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:31‐32)。
イエス様はひとりで祈っておられました。十字架に向かわれるイエス様はひとりで祈っておられた。しかし、それはただ御自分のことだけを思って祈っておられたのではないのです。その心の内には弟子たちがいたのです。私たちもそこにいるのです。ペトロは、そして弟子たちは、イエス様の祈りに支えられて、復活の主に従っていったのです。私たちも同じです。イエス様の愛と祈りに支えられて、イエス様についていくのです。日々、自分の十字架を背負って、そしてイエス様が示してくださったまことの命に向かって、イエス様についていくのです。