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「父よ、彼らをお赦しください」

2007年4月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 23章32節~49節

敵を赦す愛

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。十字架の上から聞こえるイエス様の言葉です。「彼らをお赦しください。」

 彼らとは、直接的にはそこにいた人々です。イエス様を十字架にかけた人々です。そこには積極的に関わった人と消極的に関わった人々がいました。一方において、イエス様を憎んでいる人々がいました。自分たちの権益を守るためにもこの男を亡き者としなくてはならないと考えていた人々がいました。そのように、イエスを処刑するために積極的に動いたのは祭司長たちや最高法院の議員たちでした。彼らは十字架のもとでキリストをあざ笑って言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と。また、そこには祭司長たちに煽動されて一緒になって罵っていた人々もいたであろうと思います。

 そして、そこにはまた立って見つめている民衆もいたことをルカは伝えています。積極的に罵っている人々ではありません。彼らはこの出来事に様々な感情を抱いていたかもしれません。中にはイエスの処刑に不当な何かを感じ取っていた人もいたであろうと思います。あるいは十字架が立てられるまで、隣りにいる人とこの出来事について語り合っていたかもしれません。しかし、所詮は傍観者です。何を感じたとしても何をするでもなく、やがてそこから立ち去っていって、何もなかったかのように生活の中に戻っていく、そういう人々です。しかし、彼らは傍観者という形でこの出来事に参与しているのです。

 また、そこにはローマの兵士たちがいました。彼らは上からの命令に従ってイエスを侮辱します。痛めつけます。もともとイエスを憎んでいたわけではありません。しかし、日頃の鬱憤を晴らすには良い機会だったのでしょう。無抵抗の男をさんざんにいたぶりました。彼らにとってはイエスが生きようが死のうが、そんなことはどうでも良いのです。関心はないのです。

 そのように積極的に関わった人々、消極的に関わった人々の違いはありますが、いずれにしても、それらの人々がよってたかってイエス・キリストを十字架につけたのです。そのような人々について主は祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。――「愛する」とはどういうことなのでしょう。「赦す」とはいったいどういうことなのでしょう。それを知りたければこの御方に目を向けることです。イエス様は愛についても赦しについても抽象的な概念として語ることはありませんでした。その身をもって、その生と死をもって、主は愛と赦しを見せてくださいました。

 しかし、イエス様の十字架の姿がただ愛と赦しの模範であったなら、話はこれで終わりでよいでしょう。「そのように祈りながら死んでいきました」と。しかし、福音書はそこで終わっていないのです。

 そもそも、これがただ愛と赦しの模範を見るだけであるならば、それは私たちに希望をもたらしはしないだろうと思います。イエス様が十字架の苦しみの中において現された驚くべき愛が、いったい何をもたらしたのかを考えてみてください。確かにこのイエスの祈りの言葉によって信仰に導かれた人を私は何人も知っています。しかし、この場面そのものをよくよく思い描きながら読んでみてください。現実に、そこにおいて、敵をも赦す主の愛は、いったい人々の内にいかなる変化をもたらしたと言えるでしょうか。

 イエス様の足もとには、愛と赦しに満ちた祈りの言葉などに全く無頓着に、くじを引いて、イエスの服を分け合っている人々がいるではありませんか。民衆は相変わらず傍観者であり続けているではありませんか。議員たちはあざ笑っているではありませんか。兵士たちは酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱しているではありませんか。イエス様の祈りの言葉の部分を切り抜いてしまっても、恐らく何の問題もなく話はつながるのです。(写本によっては実際にその部分が失われているものもあります。)イエス様の赦しの愛によっても、その祈りの言葉によっても、事態は何も変わっていないということです。

 そう読んでみますと、思い当たることがありますでしょう。これは私たちもしばしば直面する冷たい現実ではありませんか。私たちが人を赦す時、そのことによって相手が少しでも変わることを期待するのではないでしょうか。私たちが愛を示す時、そのことによって相手が少しでも変わることを期待するのではないでしょうか。しかし、現実には、私たちは赦したところで、相手が自分の過ちに気づいて回心するわけではない。愛したところで、相手が愛してくれるようになるとは限らない。そうでしょう。イエス様の姿が、ただ愛と赦しの模範であるだけだったら、全く希望がないじゃないですか。イエス様の完全な愛と赦しをもってしても、変え得なかった人々がいたという冷たい現実を、私たちは突きつけられるだけですから。

大祭司の祈り

 皆さん、聖書が私たちに伝えているのは、単なる愛と赦しの模範ではないのです。ここにはそれ以上のことが語られているのです。イエス様はここで愛と赦しのデモンストレーションをしているのではないのです。そうではなくて《祈っている》のです。人々のために罪の赦しを求めて祈っているのです。そもそも、執り成しの祈りというものは、その祈っている姿をもって、なんらかの感化をもたらすために行うものではないのです。そうではなく、祈りというものは、聞いてくださる方がおられるから祈るのです。執り成しの祈りを捧げるのは、その祈りを受け取ってくださる方がいるから捧げるのです。イエス様は神の御前に立つ祭司として、人々のために罪の赦しを求めて、執り成しの祈りを捧げているのです。

 その昔、神殿には祭儀を司る大祭司と呼ばれる人がいました。彼が執り行う祭儀の中で特に重要であったのは、贖罪日における罪の贖いの儀式でした。贖罪日にどのようなことを行うのか、その祭儀の規定はレビ記16章に記されています。その日、贖罪の雄牛と雄山羊が屠られます。大祭司がそれぞれの犠牲の血を携えて至聖所に入っていきます。それらは自分の罪の贖いのため、そして民の罪の贖いのための犠牲です。そのように人間の罪が赦されるために、罪のない動物が屠られなくてはなりませんでした。大祭司はその血をもって定められた仕方において罪の贖いの儀式を執り行います。そこで執り成しの祈りを捧げ、罪の赦しを祈り求めるのです。

 しかし、毎年繰り返されていた罪の贖いの儀式は、いわば映画で言うならば予告編なのです。本当に見るべきものは、その後にやってくるのです。神殿において行われていた儀式は、この世の歴史においてただ一度だけ行われる最も大事な贖罪の儀式の予告編だったのです。

 その最も大事な贖罪の儀式とは、神の子自らが大祭司として執り行う祭儀です。イエス様はその最も大事な祭儀を行う大祭司となられたのです。そして、大祭司であると同時に罪の贖いの犠牲ともなられました。それは雄牛や雄羊を屠る儀式ではなく、罪のない神の子が自分自身を罪の贖いの犠牲として捧げる祭儀だったのです。それは罪を完全に贖うことができない雄牛や雄羊の血ではなく、罪を完全に贖うことのできる御子の血が流される祭儀でありました。そのように、まさに最初にして最後の完全なる犠牲が捧げられ、完全なる執り成しの祈りが捧げられる祭儀を、御子自らが執り行われたのです。それが、今日お読みしている場面に起こっていることなのです。

 さて、そのように自らの血を流して捧げられた執り成しの祈り、「父よ、彼らをお赦しください」という祈りは、果たして聞き入れられたのでしょうか。あの祈りは、虚しく消えていってしまわなかったのでしょうか。このことについて、聖書は確信をもって、「確かにあの祈りは聞き入れられたのだ」と語っているのです。何をもってでしょう。キリストの復活を伝えることによってです。大祭司が執り成しの祭儀を完了して至聖所から現れて来るように、この最初にして最後なる贖罪の祭儀は神に受け入れられて、主は再び現れてくださいました。今年も今日から受難週に入ります。しかし、受難週で終わるのではなくて、一週間後の日曜日には必ずイースターが来るのです。それはあの執り成しの祈りが完全に神に受け入れられたことを表しているのです。

ただ受けるしかない者として

 その贖罪の犠牲と執り成しの祈りのゆえに、今やユダヤ人だけでなく異邦人も、全世界の人々が罪の赦しを受け、救いにあずかることができる。それが私たちにも伝えられている福音です。そして、この救いが及ぶ広がりには限界がないことを、ルカは続く一つのエピソードをもって示しているのです。

 そこには三本の十字架が立てられていました。大祭司であり同時に贖いの犠牲でもあるイエス様の両側には、二人の犯罪人が十字架にかけられていたのです。彼らが実際にどのような罪を犯したのか、どのような理由がそこにあったのかは、大して重要ではありません。重要なことは、彼らはもはや自分の過去の罪について何もできない状態にあるということです。自分で自分の罪の償いをすることによって人が救われるとするならば、彼らは絶望するしかありません。もはや罪の償いのために何かをすることはできないからです。善行を積むことによって救われるとするならば、彼らは絶望するしかありません。もはや何の善行も為しえないのですから。

 しかし、この二人のうち一方は、大胆にもイエス様にこう願ったのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と。彼はイエス様を求めたのです。もはや何も為しえない彼が救われるとするならば、それは彼のためにも執り成して祈ってくださったイエス様によるしかないのです。イエス様にすがりつくしかないのです。

 そして、彼は確かにイエス様の恵みの言葉を聞いたのでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。「楽園にいる」とは完全なる救いを意味します。彼は今日死ぬんでしょう。惨めな姿をさらして、苦しみながら死んでいくんでしょう。しかし、彼は滅びてしまうのではありません。「今日、私はパラダイスにいるのだ」と言い得るのです。それほど確かなこととして、救いに与ることができるのです。なぜなら、罪を贖ってくださり執り成してくださったイエス様が一緒にいるからです。それで良いのです。それで十分なのです。

 そんなことで人が救われるなんて、なんと虫の良い話だろう。そう思われますでしょうか。そうです。虫の良い話です。それで良いのです。なぜなら、虫の良い話でないならば、人間が神に受け入れられ救われるなどということは、あり得ないからです。私たちは、ただ受けるしかないのです。キリストの執り成しに寄りすがり、神の赦しと恵みの言葉をただ受けるしかないのです。

 それはこの後に行われます聖餐においてよく表現されているではありませんか。既に洗礼において信仰を表された方々が前に出て来られます。何のためですか。受けるためです。そうです、受けるしかない者として、前に出てこられるのです。ぜひここに並ぶ時に今一度思い起こしてください。私たちは、ただキリストの執り成しによりすがり、神の赦しと恵みの言葉を受け取るしかない者であるということを。そして、まだ洗礼を受けておられない皆さん、どうぞ受けるために並ぶ人の列をよく見てください。これが聖書のメッセージです。人間はただ感謝して受けるしかない。そして、それでよいのです。どうぞ、いつかこの列に加わられ、神がキリストにおいて表された救いの恵みを御自分の手で受け取ってください。

 
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