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「なぜ泣いているのか」

2007年4月8日 イースター礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 20章1節~18節

美しい再会の場面

 週の初めの日、つまり日曜日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。なぜ墓などに行ったのでしょうか。それはイエス様の遺体に香料を塗るためであったと、他の福音書が伝えています。愛するイエス様は死んでしまいました。その遺体に香料を塗ること、それが彼女のできるせめてものことでありました。

 しかし、墓に着いてみますと、なんと墓の入り口を塞いでいたはずの大きな石が取りのけてあるではありませんか。見るとイエス様の遺体がありません。誰かが持ち去ってしまった。遺体が盗まれてしまった。彼女はそう思いました。すぐにペトロのところに行ってこの事態を伝えます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

 その後に、ペトロともう一人の弟子が墓に走って行ったという話が続きます。彼らが墓に行って中をのぞいてみた。すると、そこには「亜麻布が置いてあった」と書かれています。亜麻布が置いてあったこと、ペトロがそれを確認したことが、殊更に強調して書かれています。そして、わざわざ「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」というようなことまで書かれているのです。なぜ、このようなことがくどくどと書かれているのでしょう。それは要するに、《マリアは重大な勘違いをしている》ということを示しているのです。マリアは「主が墓から取り去られました」と言いました。皆さん、考えてみてください。死体を持って行くのに、わざわざ亜麻布をきちんと解いて中身だけを持って行きますか。もしそうであったなら、それはよほど几帳面な風変わりな泥棒です。たとえ泥棒ではなくて、善意で誰かが遺体を移したとしても、普通は中身だけ移すなどということはしないわけです。だから、やはりマリアは間違ってる。「主が墓から取り去られた」のではないのです。マリアは重大な勘違いをしている。気付いていないことがあるのです。

 そのように大事なことにまだ気付いていないから、彼女は泣き続けます。「マリアは墓の外に立って泣いていた」(11節)と書かれていました。泣きながら、墓の中を見ると、「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた」と書かれています。この辺になるとよく分かりません。いったいどのように見えたのか、どうして天使であったことが分かったのか。明らかに天使であったなら、どうしてマリアは驚かなかったのか。良く分かりません。しかし、ここで大事なのは、天使が見えたということよりも、泣きじゃくっていたマリアに語りかけられた言葉です。マリアはこういう言葉を聴いたのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」墓で人が泣いていること自体は、不思議なことでも何でもありませんから、これは単に理由を尋ねているのではありません。そうではなくて、「どうして泣いているの。もう泣かなくていいんだよ」ということでしょう。そう、本当はもう泣かなくてよいのです。

 しかし、マリアはなおも泣き続けながら言います。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら、後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた、と書かれています。ところが、それがイエス様だとは気付かなかった。本当はイエス様が近くにいるのに、マリアは気付かなかった。そう、彼女が気付いていなかった重大なこと――それは、イエス様が復活なさったこと、イエス様はもはや死の中にはおられないということ、イエス様は生きておられ、しかも彼女のすぐそばにおられる、ということだったのです。

 彼女はそのことに気付いていなかった。だから、再びイエス様を背にして泣き続けるのです。そのようなマリアに主は言われます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」イエス様は先の天使と同じ事を聞かれます。しかし、マリアは園丁だと思って、泣きじゃくりながら答えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

 すると、イエス様はただ一言、「マリア」と声をかけられました。「マリア」――。その一言で十分でした。マリアには分かったのです。自分の名前を呼ぶその声で分かったのです。彼女は振り向いて言いました。「ラボニ」すなわち「わたしの先生」。これまでいくどとなくそう呼んでいたように、いつものようにイエス様を「ラボ二」と呼んだのです。マリア――ラボニ!聖書の中で最も美しい再会の場面です。

なぜ泣いているのか

 さて、今日の聖書箇所を読みますと、「泣く」という言葉が繰り返されていることに気付きます。マリアが「泣いていた」ということが、この場面で殊更に強調されているのです。彼女は、まさに泣くことしかできない者として泣いていた。そうでしょう。先にも申しましたように、死んでしまったイエス様に香料を塗ることだけが、彼女にとってせめてものできることだったのです。しかし、その遺体さえも無くなってしまった。もう泣くしかないではありませんか。

 いや、泣くことしかできない者として泣いているのは、この時だけではなかったでしょう。イエス様が十字架にかかられた金曜日から、恐らく彼女はずっと泣き通しだったと思うのです。イエス様が捕らえられて不当な裁判にかけられ、むち打たれて血を流していたとき、彼女はどうすることもできませんでした。イエス様が十字架を背負ってゴルゴタの丘へと向かっていた時、彼女はどうすることもできませんでした。手足が釘で刺し貫かれて、イエス様が叫び声を上げているとき、彼女はそれを耳にしても、どうすることもできなかった。イエス様が十字架の上で苦しみ続けている時、彼女はどうすることもできなかった。イエス様がまさに息絶えようとしているとき、彼女はどうすることもできなかった。ただただ泣くことしかできなかったに違いありません。イエス様が墓に葬られた時、彼女はもはやどうすることもできなかったのです。三日目の朝が来て、彼女が墓に向かっていたときも、彼女には何ができるわけではなかった。ただイエス様の遺体に香料を塗ること。そのくらいしかできなかったのです。しかし、その遺体さえも無くなってしまった。もう彼女はどうすることもできませんでした。彼女は泣くことしかできなかったのです。

 私たちにも泣くことしかできない時があります。そうです、そのような時が確かにある。だからマリアの涙に共感を覚えます。特に私たちが最も無力さに打ちひしがれるのは、彼女と同じように死の現実に直面したときでしょう。このマリアのように、愛する者の命の火が消えていく時、消えてしまった時、人はどうすることもできない。泣くことしかできないのです。実際、この一年の間にも、私たちが座っているこの場所で、この礼拝堂で、多くの涙が流されました。葬儀が行われる度に、多くの涙が流されてきたのです。ただただ泣きくれているマリアの姿は、決して他人事ではないのです。

 しかし、そのような私たちに、今日の聖書箇所は一つの出来事を伝えているのです。あのとき、あそこで、ただただ泣くことしかできなかったマリアだったのだけれど、その彼女にイエス様が語りかけてくださった。イエス様は言われたのです。「なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」。それは、「どうして泣いているの。もう泣かなくていいんだよ。ここにわたしがいるではないか」ということでしょう。そのようにイエス様が語りかけてくださったのです。

 なぜもう泣かなくてよいのか。マリアは気付いていないだけだったからです。イエス様は復活されたのです。イエス様は死の門を打ち破ってくださったのです。死は絶望ではないことを示してくださったのです。そのイエス様が、すぐ側にいてくださる。マリアはそのことに気付いていないだけだったのです。だから、本当は泣かなくてよいのです。

 主は同じように、今日、この復活祭において、私たちに語りかけていてくださいます。私たちは繰り返し自分の無力さにうちひしがれます。泣くしかない時がある。ここにももしかしたらそんな悲しみを抱えて来られた方があるかもしれません。いや、今この時には自分はそんなに弱くないと思っている人でありましても、最終的には確かに聖書が示しているように私たちは死の現実の前に完全に無力です。確かにそうです。しかし、人間がどんなに無力でも、泣くことしかできないような者であっても、もう泣かなくてよいのです。なぜなら、イエス様は無力ではないからです。死を打ち破られて、絶望の黒雲を吹き飛ばしてくださったイエス様が、すぐ近くにいてくださって、語りかけてくださる。もう泣かなくていいんだよ、と言ってくださるのです。

わたしにすがりつくのはよしなさい

 さて、物語の続きに戻りまして、もう一つのことだけを心に留めたいと思います。振り返ったマリアに対して、イエス様はこんなことを言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。

 マリアは目に見える御方として復活のキリストに出会いました。しかし、イエス様は「すがりつくのはやめなさい」と言われたのです。これは厳密に言いますと、「触るな」ということではありません。「すがりついているのはやめなさい」という言葉なのです。いつまでも、見える姿で現れたキリストにしがみついていてはいけない、ということなのです。なぜでしょうか。キリストは言われます。「まだ父のもとへ上っていないのだから。」

 イエス様は父のもとに行って、天に帰って、目には見えない御方となるのです。キリストはもはや、目で見たり、手で触ることのできない方になられる。それでよいのだ、ということをマリアは理解する必要がありました。マリアが泣いていたとき、既にイエス様は既に彼女の後ろにいたのでしょう。彼女が気付かなかっただけでした。後ろを振り向いてもまだ分からなかった。彼女は確かに「見た」のです。でも分からなかった。そのときにも、イエス様はそこにいたのです。ではどうしてイエス様だと分かったのでしょう。姿を見たからではありません。イエス様が「マリア」と語りかけたからです。ただその声が音声として耳に届いたからではありません。そうではなくて、その声がマリアの心に響いたからでしょう。

 心に響くイエス様の声、その御声を通して、(ああ、イエス様が共にいてくださったのだ)と分かったのです。そして、それで十分なのです。それで十分なのだということをマリアは知る必要がありました。そして、私たちもそのことを知る必要があるのです。イエス様は天に帰られ、見えざる御方となりました。しかし、その声が心に響く。その時に人は気付くのです。今まで分からなかったけれど、目に見えない御方、復活したイエス様が一緒にいてくださった。今まで気付かなかっただけだった、と。そのことが分かる。それが私たちにも起こるのです。そして、そのようなイエス様が、復活されたイエス様が、私たちに繰り返し語ってくださるのです。「どうして泣いているのか。もう泣かなくてよいのだよ」と。

 
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