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「体のよみがえりを信ず」

2007年4月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 24章36節~43節

体をもって現れたキリスト

 わたしは性格的に辻褄の合わない話が大嫌いです。ですから、今日の福音書朗読のような箇所は、ある意味では私の最も苦手な箇所の一つです。ここに書かれていることは、どう考えても辻褄があいませんでしょう。

 「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(36節)。明らかにドアをノックして入ってきたのではありません。それこそ亡霊のように突然、彼らの真ん中に現れたという書き方です。だから皆は亡霊を見ているのだと思ったわけです。実はその前には、イエス様の姿が突然「見えなくなった」(31節)という話があります。先週お読みした箇所です。そのように復活したイエス様は、突然見えなくなったり現れたりするのです。にもかかわらず、そのイエス様がこう言われるのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

 どう考えてもおかしいでしょう。亡霊ならまだわかります。現れたり消えたりしても文句言いません。しかし、肉や骨があるならば、突然消えたり現れたりしないでほしい。そう思いませんか。しかも、イエス様はわざわざ「ここに何か食べ物があるか」と言われます。そして、差し出された焼き魚を「彼らの前で食べられた」というのです。突然現れたり消えたりする方ならば、焼き魚を食べるのだけはやめて欲しい。そう思います。もしここでイエス様がまた見えなくなったら、食べた焼き魚はどうなるのでしょう。焼き魚まで消えるのでしょうか。

 しかし、こういう理屈に合わない《変な話》を、それこそキリスト教会はこの二千年間大真面目に伝えてきたのです。それは単に「理屈に合おうが合うまいが、実際に見たんだからしょうがないだろう」という話ではないのです。もしその程度のことなら、それを実際に見なかった次の世代か、あるいはその次の世代でこの話は消えていったはずでしょう。しかし、そうではなくて、幾世代も伝えられてきたというのは、これが私たちの救いに関わるとても大切なことを教えている話であるからに違いありません。そのメッセージを、私たちは聞き取らなくてはならないのです。

 復活したイエス様は、明らかに御自分が「亡霊ではない」ということにこだわっています。霊ではなくて、「体を持っているのだよ」ということにこだわっている。かなりこだわっています。ですから魚を食べてデモンストレーションまでなさいました。実は、このイエス様のこだわりこそ、後の教会もまたこだわり続けてきたことなのです。このこだわりを、後の教会は次のように表現しました。「我は体のよみがえりを信ず」――ご存じでしょう。使徒信条の中に出てくる言葉です。教会は「肉体は滅びても霊魂は永遠に不滅なんですよ」ということに死を越えた希望を見てはいなかったのです。あくまでも「体のよみがえり」にこだわったのです。だから、イエス様が体をもって復活したことを、二千年もの長きに渡って伝えてきたのです。

愛するための体

 ではなぜ、「体のよみがえり」であることがそれほど重要なことなのでしょう。それを理解するためには、そもそも「体」は何のためにあるのかを考えてみる必要があります。体を与えてくださったのは神様です。私たちに体を与えてくださった神様は、体をもって生きる私たちの人生にいったい何を求めておられるのでしょう。聖書によれば、神様の求めは二つの戒めに集約されます。第一に、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。そして第二に、「隣人を自分のように愛しなさい」。神を愛すること。人を愛すること。そのための体なのです。

 何よりもイエス様がそのことを語り、そして、そのことを見せてくださいましたでしょう。神の独り子は、体を持たない霊としてこの世に来られたのではありません。私たちと同じ体を持つ人間として、この世にお生まれになりました。そして、その体をもって父なる神を愛し、そして人を愛されました。イエス様にとって、「抽象的な愛」なるものは存在しませんでした。イエス様は、その体をもって、それこそ具《体》的に愛されました。イエス様にとって愛するということは、具体的にその手をもって人に触れることでり、一緒に食事をすることであり、友のために涙を流すことであり、――そして、私たちを救うためにその体に鞭を受けることであり、私たちのためにその体から血を流すことであり、その体における痛みに耐えることであり、さらにはその体をもって十字架にかかって死ぬことだったのです。

 愛するための体です。イエス様が見せてくださったとおりです。具体的に愛するための体です。私たちにはそのような体を与えられているのです。そのような体をもって生きる人生を与えられているのです。そこにこそ体をもって生きる人生の尊さがあります。私たちの人生は、この体をもって神様と関わり、この体をもって他の人と関わりながら生きる人生なのです。一生の間に最も多く繰り返される営みの一つは「食べる」という行為でしょう。誰かと一緒に食事をするという行為を考えて見てください。ある人にとっては単なる栄養補給かもしれません。しかし、それは本当は、愛するために神が与えてくださった体をもって行う尊い営みなのであり、その体をもって食物を与えてくださった神と触れ合い、また体をもってその恵みを分かち合う他者と触れ合っているのです。体をもって生きているとはそういうことなのです。だからこそ神の国の希望は、「体のよみがえりを信ず」と表現されるのです。

すべてが生かされる

 しかし、皆が皆そのようにこの体を見、そのように人生を見なしているわけではありません。いや、実はこの福音書が書かれた頃に支配的だったギリシア的なものの考え方によれば、その正反対だったのです。肉体とは霊魂を閉じこめている牢獄のようなものとしか考えられなかった。肉体をもって生きている間というのは、魂が牢獄に閉じこめられている期間ですから、基本的には価値がないのです。だから死ぬことにこそ希望がある。死は霊魂の牢獄からの解放に他ならないと考えられていたのです。

 そのような考えが、ともすると教会の中にまで入り込んでまいります。そうしますと、世の人と一緒になって「我は霊魂の不滅を信ず」と言って、それで良いような気になってしまうのです。するとどうなりますか。この目に見える世界はどうせ滅びるんだ。この目に見える体も、どうせ滅びるんだし、むしろ滅びたほうがいいんだ。だからこの世界において、この体が生きた人生も、それは本質的に意味などないんだ。真に価値あるのは体を脱ぎ捨てた魂だけ。永遠なる魂と目に見えない永遠なる世界だけ。そう考えるようになります。そうやって体をもって生きていることの価値が分からない信仰者になるのです。そして、自らの人生を大切にせず、この世界との関わりを大切にせず、隣人との交わりを大切にせず、ただ死んでこの世とオサラバすることにしか希望を見出さない信仰者となってしまうのです。そのような誘惑はいつも身近な問題だったのです。

 だから、教会はあえて「体のよみがえりを信ず」にこだわったのです。わたしたちの救いは、体と分かれて、体を失った亡霊のような状態になることではありませんよ。死を打ち破ったイエス様は、そんな姿を私たちに見せてくださったのではないよ。そうではなくて、《神を愛し人を愛したその体が》復活した姿を見せてくださったのですよ。そのように教会は語り続けてきたのです。実際、復活したイエス様は「わたしの手や足を見なさい」と言われたではありませんか。釘の跡があるからでしょう。それはまさに《十字架にかかって死んだあの体が復活したのだ》ということです。神を愛して、人を愛して生きて、最後には十字架にまでおかかりになった、まさにその体が復活したのです。それが神の国の姿だったのです。その姿を弟子たちは見たのです。そのことを教会は伝えてきたのです。

 そのようにイエス様は、死を越えた希望が何であるかを見せてくださいました。私たちは、この体をもって為されたすべてが生きるところ、体をもって為されたすべてが完成するところ、愛が完成するところへと向かっているのです。そこでは私たちの体がかかわったすべてが生きるのです。苦しみも生きるのです。涙を流したことも生きるのです。辛い思いをしたことも生きるのです。悔しかったことも生きるのです。何年も何年も病気で苦しむ人だっているんでしょう。その人生が終わると共にすべてが無に帰して、病気であったことも何の意味のなかったかのようにすべてが消え去って終わるのですか。いいえそうではないのです。病気で苦しんできたことも生きるのです。病気を耐え抜いた《その体が》神の国に復活するのですから。すべてが生きるのです。何一つ無駄に地に落ちることはない。イエス様においては、十字架におかかりになったことさえも生きたではありませんか。十字架の釘跡でさえ栄光に輝いていたではありませんか。すべてが生きて私たちは栄光の姿へと変えられる。私たちはそこに向かっているのです。

罪を赦されて

 しかし、ある人はこう思うかもしれません。私たちとイエス様とでは違うではないか。イエス様は、その体をもって神を愛し、人を愛して生きた。だからイエス様には「体のよみがえり」という言葉はぴったりと来る。しかし、私たちは違うではないか、と。

 確かに、私たちは愛するために与えられた体を、いつもそのように用いているわけではありません。むしろこの体をもって罪を犯してきたのではないでしょうか。神に対しても人に対してもこの体をもって罪を犯してきたのではないでしょうか。そのような私たちにとっては、「体のよみがえり」というよりも、やはり体のない亡霊のようになるほうが、ありがたいのではないでしょうか。体も体がかかわった人生も、すべてが無に帰してしまう方がうれしいのではないでしょうか。私が体をもって存在した人生など、無かったことにしてもらえたほうがうれしいのではないでしょうか。どうですか。皆さんはどう思いますか。

 しかし、今日の聖書箇所を読みますと、どうも神様は、私たちの人生を《無かったこと》にしたくはないようなのです。体をもって私たちが生きたことを無にしたくないのです。たとえこの体をもって神に対して、人に対して、罪を犯してきた人生であっても、神の目には尊いのです。だから神様が「体のよみがえり」にこだわっておられるのです。だからイエス様の体を復活させられた。そして、私たちにも「体のよみがえり」を与えようとしておられるのです。御自分の独り子を罪の贖いのために十字架にかけでも、そのように私たちに罪の赦しを与えてでも、私たちに「体のよみがえり」を与えようとしておられるのです。

 「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」。そうイエス様は言われました。彼らが見た手と足には釘の跡がありました。イエス様は永遠に手と足に傷跡を持つ御方となられました。私たちがやがてまみえるイエス様の手足には傷跡があるのです。その傷跡を目にする時に、なぜ自分に体のよみがえりが与えられ、なぜ自分が復活した体をもって神の国にいるのかが、本当の意味で分かることでしょう。その時に、私たちは罪を赦された者として人生を振り返り、そしてそのすべてが決して無に帰することなく意味を持ち、すべてが生かされたことを改めて思うに違いありません。

 
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