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「サムエルの母」

2007年5月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 サムエル記 1章1節~20節

 本日はサムエル記の冒頭部分をお読みしました。この書名となっているサムエルという人物は、イスラエルの歴史における大きな転換点に立つ、偉大な指導者であり預言者です。今日お読みしたのは、そのサムエルの誕生にまつわる話です。ここで注目したいのは、サムエルの母となるハンナという女性です。なんら特別な人ではありません。ここに見るのは、家庭の問題に悩み続け、苦しみに打ちのめされてきた、無力な一人の人の姿です。私たちは今日、この人の姿を通して、信仰に生きるということがどういうことかを御一緒に考えたいと思います。

ハンナの苦しみ

 私たちはまず、ハンナの苦しみに目をとめましょう。ハンナは何に苦しんできたのでしょうか。彼女の苦しみは、当時において決して珍しくはなかった、一夫多妻という家庭の形態から来ていました。夫のエルカナにはもう一人の妻がいたのです。ペニナという人でした。妻が複数いたために、そこに不和が生じました。無理もないことだと思います。聖書の中で一夫多妻から生じた家庭の混乱が描かれているのはここだけではありません。ハンナは、ペニナの敵意に苦しみました。

 しかも、ハンナには子供がありませんでした。もう一人の妻であるペニナには息子も娘もいたのです。ペニナはそのことをもってハンナを思い悩ませ、苦しめました。しかし、ペニナは単に「わたしと彼との間には子供がいるのよ。あなたと彼との間には子供がいないじゃない」と言って苦しめたのではありません。あるいは「跡継ぎになるのはわたしの子なのよ」と言って苦しめたのでもありません。聖書には何と書かれているでしょう。「彼女を敵と見るペニナは、《主が子供をお授けにならないことで》ハンナを思い悩ませ、苦しめた」(6節)と書かれているのです。つまりハンナの苦しみは、「主がお授けにならない」というところにあったのです。

 このことについて、もう少し考えてみましょう。確かに5節には「主はハンナの胎を閉ざしておられた」(5節)と書かれています。しかし、それは神様がハンナに意地悪をしておられたということでも、神様がハンナを罰しておられたということでもありません。そんなことは一言も書かれていません。その言葉が意味しているのは、人間の誕生に関しては人間の思いを越えた神様の思いがあるのだ、という単純な事実です。

 しかし、人間の側としては往々にしてそうは思えないわけです。子供が欲しいと思っているのに子供が産まれないとなりますと、神が悪意をもって臨んでいるかのように思えてしまう。あるいは神に見捨てられているかのように感じてしまう。そのようなことがあるものですから、社会全体としても、子供が産まれないということが、神の裁きや呪いとして見なされるということが起こってまいります。そのようなことは世界のどこにでも見られることですけれど、ハンナが生きていたイスラエルの社会もまた、そのような社会でありました。

 ですから、ハンナに子供がいないことは、もう一人の妻であるペニナにとって、恰好の攻撃材料となったのです。特に、ペニナにとりましては、祭りの時こそが、ハンナを苦しめる好機でありました。一家がシロの聖所に上り、主を礼拝していけにえをささげる祭りの日に、ペニナはハンナを苦しめたのです。「毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ」(7節)と書かれているとおりです。

 想像できますでしょう。「あなたは神様に呪われているのよ。そんなあなたが神様を礼拝してどうなるの。あなたがいけにえを捧げても意味がないじゃない。神様はあなたが嫌いなんだから。その証拠に、神様はあなたに子供をお授けにならないじゃない。」恐らくそのようなことを言って苦しめたのだろうと思うのです。ハンナにとって、祭りの時は、最も悲しく苦しい時だったのです。皆が神の御前において喜びをもって食事を共にする時であるのに、ハンナは今年も泣いていたのです。何も食べることができないほどに悩んでいたのです。

 毎年のことです。幾たびこのような悲しい祭りの時を過ごしてきたのでしょう。しかし、毎年このようなことが起こっているのに、最も身近な人が彼女の本当の苦しみを理解していませんでした。夫のエルカナはハンナに言うのです。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか」(8節)。――子供なんていなくたって、わたしがいれば十分だろう。そう言われて解決しますか。解決するはずがありません。エルカナは全く分かっていないのです。

 繰り返しますが、彼女の苦しみはただ夫の間に子供がいないということでも、跡継ぎになる子供がいないということでもなかったのです。そうではなくて、それは信仰に関わる苦しみだったのです。目に見える形で神様の善意見えない。そのような経験、皆さんにはありませんか。神様が慈しみ深い御方に思えない。神様から見捨てられ、見放されているようにしか思えない。神様の愛など見えない。むしろ神様が意地悪をしているとしか思えない。神様の意図が全く分からない。そのような苦しみなのです。まさに信仰そのものが揺さぶられる、信仰の試練とも言える苦しみだったのです。そう考えて見ますと、私たちにも覚えがあるのではないでしょうか。いろいろ形は違えど、そのような経験は誰にでもあるのではないかと思います。いつも神様の笑顔が太陽のように照り輝いて見えるわけではありません。厚い雲に閉ざされて、光が全く差し込んでこない。そのような時もありますでしょう。

命を注ぎ出す祈り

 しかし、そのような時こそ、私たちがどうするのか、私たちのあり方が問われるのです。この苦しみの中でハンナはどうしたでしょうか。次にその点に目を向けて見ましょう。9節以下にはこのように書かれています。「さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」(9-10節)。

 ハンナは立ち上がりました。そして、彼女は嘆きに行ったのです。分かってくれない夫ではない他の人のところではありません。彼女は神の御前に嘆きに行ったのです。神の御前で泣くために行ったのです。神様の善意が全く見えないとしても、それでもなお彼女は神様に背を向けなかったということです。

 信仰者だからと言って、泣きたいときに笑っている必要はありません。泣きたい時には大いに泣いたらよいのです。ふさぎ込むことだってあるでしょう。神様に恨み辛みを言いたくなる時もあるでしょう。しかし、神に背を向けてはらないのです。「なぜですか」と問いたければ、神に背を向けて誰か他の人に問うのではなく、神に向かって問わなくてはならないのです。実際、詩編にはそのような嘆きの言葉が満ちているではありませんか。イエス様も十字架の上で口にした詩編22編の言葉が思い起こされます。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」(詩編22:1)。その人も「なぜお見捨てになるのか」と言いながら、神に向かうことをやめてはいないのです。

 ハンナは激しく泣きながら、長い時間そこで祈っていました。彼女が心の内で祈っていたため唇のみが動いているのを見ると、祭司エリは彼女が酒に酔っているものと誤解しました。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい」とエリは言います。すると彼女が答えます。「いいえ、祭司様。違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」(15節)。

 「主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」というのは、事柄を十分に伝えてる訳ではありません。11節において彼女が自分自身の願いと誓いを語っているので、ここも「心からの願い」と訳されたのかもしれませんが、これはもともと「命」とか「魂」と訳されるべき言葉です。彼女は「主の御前に魂(命)を注ぎだしておりました」と言ったのです。つまり、彼女は単に願いを注ぎ出していたのではないのです。命を注ぎ出していたのです。いわば彼女の全存在を主の前に注ぎ出していたのです。「願い」というような部分的なものではないのです。彼女の内にあったのは単に願いだけではなかったはずです。そこにはペニナに対する恨みもあったでしょう。自分の苦しみを本当には理解してくれていない夫についての悲しさもあったでしょう。彼女がずっと抱えてきた孤独感もあったに違いありません。なぜ自分がこんな思いをしなくてはならないのかという神に対する恨みがあったかもしれません。彼女はそれらすべてを含めて全存在を神の前に注ぎ出していたのです。

安心して帰りなさい

 そのようなハンナに祭司エリは言いました。「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」。皆さん、どう思われますか。この言葉。このエリという祭司は、彼女がよっぱらっているものと誤解していたのです。実際の彼女の祈りを何一つ聞いてはいないのです。恐らく祭司エリが口にしたのは、神殿において用いられていた型どおりの形式的な言葉でしかありません。個人的な共感をもって慰めの言葉をかけているわけではないのです。

 しかし、どうでしょう。ハンナはその言葉を聞いて、帰って行ったのです。こう書かれているのです。「ハンナは、『はしためが御厚意を得ますように』と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。」

 考えてみてください。まだサムエルが生まれたわけではないのです。その兆候すらありません。彼女の生活そのものは何も変わってはいないのです。家に帰れば相変わらずペニナの嫌がらせがあるでしょう。そこには全く理解してくれない夫がいるでしょう。世間の人は、子供が産まれない彼女のことを、相変わらず噂の種にすることでしょう。そう、何も変わっていないように見えるのです。しかし、彼女の表情はもはや前のようではありませんでした。彼女は苦難の中にありながら、苦難を突き抜けていたのです。なぜですか。彼女は確かに「安心して帰りなさい」という言葉を聞いたからです。祭司エリからではありません。神様からです。

 どうしてエリが口にした形式的な言葉が、神様の言葉として彼女の心に響いたのでしょう。それは「安心して帰りなさい」と言ってくださる神様に、既に祈りの中で向き合っていたからです。ハンナが命を注ぎだして祈っていた時、全存在を注ぎだして祈っていた時、神様は確かにその彼女の全存在を受け止めておられたのです。ハンナは、全部を受け止めてくださり、「安心して帰りなさい」と言ってくださる御方に、既に祈りの中で触れていたのです。

 ハンナが自分の全てをその御前に注ぎ出すことのできた神様。ハンナの全てを受け止めてくださった神様。このハンナの神様こそ、やがて時満ちてイエス・キリストをこの世に遣わされた神様に他なりません。後の日に、キリストを通して神様は御自身を現されました。私たちのすべてを、それこそ私たちの罪までも、自らの身に受け止めてくださる神様として、御自身を現されたのです。

 確かに、私たちは神様の為さることすべてが分かるわけではありません。そこには私たちの納得のいかないこともあるでしょう。神様の善意が黒雲に遮られて全く見えなくなってしまうこともあるでしょう。なぜですか、と嘆かざるを得ない時もあるでしょう。しかし、一つのことだけは確かなのです。神様は罪深い私たちの全存在を受け止めてくださる。だから私たちは自分の全てを神様の前に注ぎ出すことができるのです。注ぎ出してよいのです。それが信仰に生きるということです。そこで私たちは神の御声を聞くのです。主は私たちにも言ってくださいます。「安心して帰りなさい」と。私たちはその時、苦難の中にあって既に苦難を突き抜けている自分を見出すことでしょう。あのハンナのように。「彼女の表情はもはや前のようではなかった。」

 
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