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「備えて待ち望む」

2007年5月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 1章12節~26節

エルサレムに留まって

 本日の第2朗読では、使徒言行録1章12節以下をお読みしました。その冒頭には、「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」と書かれていました。イエス様が十字架にかけられ、そして復活してから40日後のことです。今日お読みした箇所の直前には、その日にイエス様が天に昇られたことが記されています。イエス様が昇天されて後、弟子たちはエルサレムに戻っていきました。彼らはエルサレムに留まろうとしていたのです。

 考えてみれば不思議なことです。彼らの大部分はガリラヤ出身ですから、エルサレムに生活基盤があるわけではありません。もともとエルサレムに留まらなくてはならない理由はなかったのです。しかも、エルサレムは、弟子たちにとって、決して居心地の良い場所ではなかったはずです。そこにはイエスに敵対していた人々が大勢いたのですから。イエスを憎んでいた人々は彼らをも憎んでいます。弟子たちにとって、そこは極めて危険な場所でありました。

 さらに言うならば、エルサレムは、彼らが恐れに屈してイエス様を見捨てて逃げ出した、あの惨めな記憶と結びついていた場所です。自分の罪深さと弱さをさらけ出した場所でした。本来ならば、二度とそこの土は踏みたくないと思っても不思議ではない、そのエルサレムに彼らは留まったのです。

 なぜでしょう。理由は単純です。イエス様がエルサレムに留まれと言われたからです。「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(4節)。しかし、彼らはしぶしぶ従ったのではありません。ルカによる福音書によりますと、なんと彼らは「大喜びでエルサレムに帰った」(ルカ24:52)と言うのです。なぜでしょうか。彼らには希望があったからです。待ち望むべき未来があったからです。

 もう一度、イエス様の言われた言葉をお読みします。「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(4節)。父の約束とは、聖霊が与えられるという約束です。父なる神が約束してくださったのです。彼らはやがて神の霊に満たされる。言い換えるならば、神様御自身が、彼らを通して力強く働き始められるということです。神様が行動を開始されるのです。イエス様はそのことを語られたのです。イエス様は、そのために、エルサレムに留まって「待ちなさい」と言われたのです。

 自分自身だけを見つめているならば、そこに一縷の望みもありません。現実は極めて厳しいことは、百も承知でした。しかし、彼らは喜んでいたのです。彼らは喜んで困難の中に留まったのです。なぜなら、どんなに貧相な器でありましても、神が用いられるならば話は別だからです。

 聖霊を待ち望むということ、神の霊に満たされることを求めて待ち望むということは、神の器となることを求めて待ち望むということです。それならば、自分には期待できないとしても、神様には期待できるでしょう。神様に期待をもって待ち望むことのできる人は現実に負けません。自分の弱さにも負けません。神様は弱くはないからです。

 逆もまた言えます。自分自身にしか目が向けられない、これまでの自分の姿にしか目が向けられなくなり、もはや何も待ち望まなくなった信仰者は惨めです。どうせ私はこんなものだ。信仰生活なんてこんなものだ。教会なんてこんなものだ。そのように思い始めるならば、使徒言行録は私たちとは縁のない書物となってしまうでしょう。私たちは、まず彼らの姿を通して、神に期待し神を待ち望むことを学ばなくてはなりません。

彼らは熱心に祈った

 さて、彼らは、期待して待ち望むことのゆえに、具体的にはどうしたのでしょうか。13節をご覧ください。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。」何のために上がったのでしょうか。祈るためです。14節にはこう書かれています。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」

 彼らは祈りました。熱心に祈りました。ある翻訳では、「祈りに専念していた」となっています。彼らの待望は、祈りとして具体化されました。イエス様は「待ちなさい」と言われたのです。しかし、期待して待つことの具体的な形は「祈り」です。神に期待する人は祈ります。神に期待しない人は祈りません。

 そこにおいて心を合わせて祈っていた人々のリストが簡単に記されています。まず、イスカリオテのユダを除く十一人の使徒の名前が記されています。それは、順番は異なっていますが、ルカによる福音書6章14節以下のリストと同じです。改めてここを読みますときに、その選びの多様性に驚かされます。熱心党のシモンがそこにいます。熱心党とは、一世紀初頭に現れたユダヤ民族主義者の戦闘的分子です。一方、マタイはもと徴税人です。祖国を売り、ローマの手先となって同胞を苦しめていた、いわば売国奴です。どうしたって一つになれない人々です。しかも、彼らを弟子として招いたイエス様は、もう目に見える姿では共におられないのです。

 にもかかわらず、そのような人々が「心を合わせて」祈っていたのです。これは驚くべきことです。しかし、当然起こるべくして起こったこととも言えます。人間的な誇りや高ぶりが打ち砕かれて、ただ神様への期待と待望のみがあるならば、その集まりには一致があるはずだからです。

 また、そこに婦人たちについて言及されていることも注目に値します。婦人たちが弟子の群れに加わったことは、ルカによる福音書にも記されていました(ルカ8:2‐3)。しかし、当時の社会的状況において、これは決して当たり前のことではなかったのです。女性の社会的地位は今日と比べものにならないほどに低かったのですから。それは宗教的なコミュニティ一般においても同じだったのです。例えば、当時の敬虔なファリサイ派の男性が生涯を通して捧げる感謝の祈りの一つは、「天の父よ、わたしは女に生まれなかったことを感謝します」という祈りでした。それが、当時の女性を取り巻く宗教的な環境だったのです。

 ですから、ここで婦人たちが使徒たちと同じように、聖霊の満たしを求め、神の霊の働きを期待して祈り求めているということは、それ自体がとても大事なことを語っているのです。つまり世の中の人がどう評価するか判断するかは、神様が霊に満たして用い給うこととは無関係だということです。ファリサイ派の人がなんと言おうと、女性であっても神の霊に満たされて、神の器として神の働きのために用いられる時代が来たのです。

 同じ事は、女性についてだけでなく、他の人々についても言えるでしょう。お年寄りについても言えます。障碍を持っておられる方についても言えます。病弱な人についても、過去に傷を持つ人についても言えるでしょう。世間の人がどう見るかは関係ありません。神はどのような人をも聖霊に満たして用い給うことがおできになるのです。いやむしろ、神の力は弱いところにこそ現れるのです。だから、どのような人であっても、神への期待を持ち続けて祈るべきなのです。

具体的な備えへと導かれた

 さて、彼らが共に集まり祈り始めて数日が経った頃でしょうか、既にそこには百二十人ほどが集まるようになっていました(15節)。そこでペトロが皆に一つの提案をしました。それはユダの代わりとなる使徒を選出しようということでした。

 本日お読みしたところによりますと、ユダはイエスを売り渡した報酬で土地を買い、その地面にまっさかさまに落ちて、死んでしまったとのことです。今日は、ユダについてこれ以上触れることはいたしません。ここで注目したいのはペトロの提案の内容です。イエス様が十二人を選ばれて使徒とされました。ペトロの提案は、その内欠けた一人を補充しようということです。これは明らかに将来に対する備えです。ペトロはイエス様のお働きが自分たちを通して継続されることを見ているのです。

 やがて広くキリストが宣べ伝えられていくことになる。多くの人々が仲間に加えられることになるだろう。ペトロは、そのような事態を既に見越しているのです。その時のために、具体的な準備をしているのです。福音が宣べ伝えられ多くの新しい人々が加えられていくとき、いったい何が重要になってくるでしょう。イエス様についての伝承(言い伝え)が正しく伝えられることです。だから十二人目はそれに相応しい人が選ばれなくてはならないのです。それゆえに、ペトロは次のように提案したのでした。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」(21‐22節)。

 彼らが、宣教の働きの進展を思い描き、具体的に準備をしたということもまた、それ自体驚くべきことです。というのも、そこに集まっていたのはせいぜい百二十人に過ぎないからです。それは多いように思えるかもしれませんが、せいぜいここに集まっている人数と同じくらいです。その彼らの前に立ちはだかっているのは、パレスチナ以外に離散しているユダヤ人社会をも統括する、強力な宗教的支配体制だったのです。パレスチナだけでも四百万人ほどいたであろうユダヤ人を支配する彼らにとって、百二十人の凡人が集まっていることなど、ものの数ではなかったでしょう。その現実は誰の目にも明らかでした。常識的に考えるならば、将来的な展望などは、まったく持ち得ない状況だったのです。

 にもかかわらず、彼らは具体的な準備を始めたのです。自分たちの力にではなく、神のみに期待し、待ち望み、祈り続けた時に、具体的な導きを得たのです。逆説的ではありますが、事を為すのは人間ではなく、人間を用いて働かれる神様御自身であることを謙って認めた時、本当に人間として為すべきことが見えてくるのです。その意味において、祈りは神への期待に基づく具体的な行動――今為すべき具体的な行為――へと導くのです。それが、彼らの場合には使徒の補充ということだったのです。

 イエス様は弟子たちに、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と言われました。こうして今日の箇所に記されていたように、神に期待して待つということは、何もせずにボーッとしていることではなく、具体的に「祈る」ということであり、また祈りによって今為すべき具体的な行動へと導かれることなのです。

 今年もペンテコステが近づいて来ました。今週は、特に、聖霊降臨に至るまでの弟子たちの姿を思いながら過ごしたいと思います。そして、私たちの教会のあり方、信仰生活のあり方を省みたいと思うのであります。いつの間にか、自分の力が神のために何か事を成すかのように思い上がっていることはないでしょうか。そして、そのような傲慢さの故に、結局いつも失望したり落胆したりして、もはや新しい事を何も期待できなくなっているようなことがないでしょうか。私たちは、もう一度、神への期待を新たにし、神の霊の満たしをひたすら求め、祈り続ける者でありたいと思います。そして、その祈りの中で具体的な導きを得、神の御業への備えをしていく者でありたいと思います。

 
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