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「安心して行きなさい」

2007年6月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 8章43節~48節

癒しの話?

 本日の福音書朗読には一人の女性が登場してきました。彼女は12年もの長い間、出血が止まらない婦人病でした。幾人もの医者にかかりました。治療のために全財産を使い果たしました。しかし、治ることはありませんでした。そんなある日、彼女はイエス様の噂を聞きました。このイエスという人は、手を置いて病気を治すらしい。目の見えない人は見えるようになったらしい。足の不自由な人が歩き出したらしい。そんな話をも耳にしたのでしょう。折しもガリラヤ湖の向こう側に行っていたイエス様が町に帰ってきました。まさに「藁にもすがる思い」とはこのことです。彼女はイエス様を取り巻く群衆に紛れ込みました。そして、後ろからイエス様に近づいて、そっとその服の房に触れたのです。そしてどうなったでしょうか。聖書はこのように伝えています。「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」(44節)。彼女の長年の病気は癒されたのです。

 今日の福音はそのような病気が癒されたという話です。皆さん、どう思われますか。「服にさわったぐらいで病気が治ってたまるか!」と思う人がいても不思議ではありません。あるいは「そんなことがあったらいいなあ」と思う人もいるかもしれません。いずれにせよ、これがただ病気が癒されたという話であるだけならば、ここにいる私たちの中で病気の人以外にはあまり関係ない話ということになってしまうでしょう。

 しかし、どうもこれはただ出血の止まらない病気の人が癒されたというだけの話ではないようなのです。病気が癒されたという話ならば、それが全てなら、癒されたところで話は終わってよいのです。メデタシ、メデタシ、で終わりのはずです。ところが今日お読みした物語は、それで終わってはいません。さらにたいへん奇妙な話が続いているのです。

 45節以下を御覧ください。イエス様は、「わたしに触れたのはだれか」と言って、周りをキョロキョロ見回し始めたのです。触った人を何としてでも捜し出そうとするのです。どう考えても変でしょう。イエス様の周りには、それこそ朝のラッシュ時の渋谷駅みたいに大勢の群衆が押し合いへし合いしていたのですから。だからペトロはこう答えたのです。「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」。――触った人を特定するなんて絶対に無理ですよ、ということです。実際、そうだったのだと思います。にもかかわらず、イエス様は譲りません。あくまでも見つけ出そうとするのです。「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われるのです。

 ただ一人の女の人が癒されたというだけではなくて、そのような変な話が続くのです。どう考えても、ただ病気が治ったというだけの話ではないらしい。では何なのでしょうか。この女の人には何が起こったのでしょうか。この物語は私たちに何を伝えているのでしょうか。

愛されない苦しみ

 そのことを考えるために、私たちはこの女性の苦しみそのものに、今一度目を向けたいと思います。出血が止まらない病気、しかもその病気が12年もの長い間治らなかった彼女にとって、一番苦しかったことって、何だったのでしょう。

 実は、このように血が止まらない病気とか、膿が止まらない病気というのは何であれ、ユダヤ人の社会においては「汚れ」と見なされていたのです。汚れているということは、その人が何かを触ると、それが汚れるということです。そのように汚れをうつす人として見られるのです。「汚れた人」と見なされるって、辛いことでしょう。もちろん、病気以外にも「汚れた人」と見なされることはありました。例えば、たまたま死体などに触れてしまった場合です。しかし、そのような形で汚れを受けたというのなら、祭儀的な清めによって清められるのです。病気の場合は、そうはいかないでしょう。出血が続くかぎり、汚れていると見なされるのです。汚れているものと見なされ続ける。それが十二年間続いたのです。汚れていると見なされ続けた12年間。皆さん、想像できますか。

 12年前ですから、発病したのは、まだ若かった時でしょう。それまでは友達も少なからずいたに違いない。みんなと騒いで、笑って、楽しい時を過ごしてきたのでしょう。しかし、「汚れた人」とされてから、仲良かった友達が、一人去り、二人去り、みんな去って行ったであろうと想像します。触れたら汚れるから。もうだれも近寄ってなんかくれません。

 それだけではありません。このような病気になりますと、家族も世間からいろいろ言われるようになるのです。「あの家の子、血が止まらない病気なんだってよ。どうしていつまでも汚れているのかねえ。なにか先祖が悪いことでも、したんじゃないかねえ。あの親が悪いことでもしてたんじゃないかねえ。」家族が白い目でみられる。ですから、家族からも厄介者扱いされるようになります。

 汚れている人は、もちろん宗教行事には参加させてはもらえません。ユダヤ人の社会というのは、社会生活そのものが数多くの宗教行事によって成り立っているのです。そのすべてに参加できない、いつまで経っても参加できないのです。宗教家たちからも軽んじられます。自分のせいではないのに、汚れと見なされる病気が延々と続いているならば、神様からも忌み嫌われているとしか感じられなくなることでしょう。

 一方、そんな彼女に近づいて来る人もまたいたに違いありません。病気の弱みにつけ込んですり寄って来る人がいるのです。医者と薬屋とまじない師です。今日の医者や薬屋を考えてはなりません。国家資格などないのですから、昔は怪しげなのが沢山いたのです。まじない師や占い師の類もまた然り。それぞれ、こうした苦しんでいる人にカネ目当てですり寄ってくるのです。苦しければ、それから逃れるためにいくらでも出してしまうでしょう。ですから彼女は「全財産を使い果たした」と書かれているのです。要するに、持っているお金、全部吸い上げられてしまったということです。そしてどうなったかは火を見るより明らかです。「カネの切れ目が縁の切れ目」と言います。このようにカネ目当てですり寄ってきた人たちは、カネがなくなればもう近づいてなんかこない。彼女はカネを吸い上げられた上、ボロ雑巾のように捨てられたのでしょう。全財産を失って、ただ病気だけが残ったのです。

 彼女の12年間を想像してみると見えてきます。この人の苦しみは、病気そのものの苦しみなどではなかったのです。そうではなくて、「愛されない苦しみ」だったのです。汚れた者とされた彼女。誰も愛してくれなかった。友達も、家族も、医者も、誰一人として、彼女の痛みを自分の痛みとして愛してくれる人なんかいなかった。汚れた者と見なされ続けるとはそういうことなのです。愛されない苦しみ。その苦しみならば、たとえ病気でなくても分かります。その苦しみに関わる話なら、恐らく誰にとっても無関係な話ではないでしょう。人からそっぽを向かれたり、利用されるだけ利用されて捨てられたり、いろいろな形で傷つけられたことのある人なら――人から傷つけられたことのない人って、いるのでしょうか?――彼女の「愛されない苦しみ」がどれほど苦しかったであろうかは、想像できるに違いありません。

服の房に触れるだけの関係

 その人が、後ろからそっとイエス様の服の房に触れたのです。そうです。隠れるようにして、そっと触れたのです。彼女は、イエス様の正面に立って、「わたしの病気を癒してください」とは言いませんでした。言えませんでした。群衆が取り巻いていたからですか。いいえ、そうではありません。この直前には、ヤイロという人が、それこそ正面からイエス様に願っているのです。わたしの家に来てください、と。できないわけではないのです。しかし、《彼女には》できなかった。群衆に紛れて、隠れるようにして、後ろからついていって、そっと服の房に触れることしかできませんでした。どうしてですか。――怖かったからでしょう。もうこれ以上、傷つきたくなかったからでしょう。

 人から愛されなくて、裏切られたり、辛い仕打ちを受けたり、人間関係で深く傷ついたら、人と正面から向き合うこと、怖くなります。当たり前です。もし、イエス様の前に立って、「癒してください」とお願いして、このイエス様にまで冷たくされたら、もう生きていけないでしょう。「あなたは汚れた女だから、だめだよ」と言われたら、そこまで傷つけられたら、もう生きていけないでしょう。癒して欲しいのは山々だけど、これ以上傷つきたくない。だから群衆に紛れて、群衆の一人として服の房に触れたのです。服の房だったら気付かれないでしょう。もちろん、それでは人格的な出会いは起こるはずがありません。でも、それでよかったのです。「服の房に触れるだけの関係」でよかったのです。それで何か良いことが起これば儲けものです。

 皆さん、このような人との関わり方、身に覚えがありませんか。私にはそんな経験が確かにあります。服の房に触れるだけの関係。――友達ですか?確かにいますよ。けれどお互い正面から腹を割って向き合ったりなんかしない。お互い服の房に触れる程度のつきあい。それでいい。傷つきたくないから。皆さんはどうですか。ケータイはひっきりなしに鳴っている。メールも沢山入ってくる。ブログを開設すればコメントも付けてもらえる。そうやってつながっているようにしているけれど、本当は自分でも分かってる。服の房に触れるだけの関係でしかないってこと。本当に人格的になんか向き合ってなんかいない。愛ですか?期待してません。これ以上傷つきたくないから。服の房触れるだけの関係でいいです。――この女の人の中に見えるそんな思いは、他人事ではないような気がしませんか。

安心して行きなさい

 ところが変なことが起こったのです。《この女の人は》服の房に触れる程度の関係でいいと思っていた。群衆の一人でいいと思っていたのです。しかし、《イエス様は》そうじゃなかった。触れた人を捜し始めたのです。今までとっても苦しんできた人、傷ついてきた人、癒しを本当に必要としている人が、自分に触れたと分かったからです。イエス様には分かった。力が出て行ったから。だからイエス様は、自分に触れた人、その苦しんできた人、傷ついてきた人を捜し始めたのです。そのような人と自分との間が、ただ触れられる程度の関係であって欲しくなかったのです。イエス様は、向き合いたかったのです。顔と顔とを合わせて、目を合わせて、心からの言葉を、腹の底から湧き出る言葉を、愛から湧き出てくる言葉を、その本人に対して語りたかったのです。

 この女の人は恐る恐る出て行きました。そして「触れた理由」を話したと書かれています。病気のことを話したのでしょう。苦しかったこれまでのこと、彼女はイエス様にすべてありのままに話したのでしょう。もう彼女は群衆の一人ではありません。服の房に触れるだけの人ではありません。一人の人間としてイエス様と向き合っているのです。そして、イエス様は、この人としっかりと向き合って、その人の苦しみも傷ついてきたことも、服の房に後ろか触ることしかできなかったその心も、全部を聞いた上で、全てを受け止めた上で、彼女にこう言ったのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

 これはただ病気が癒されたという話ではありません、と最初に申しました。彼女に何が起こったのでしょうか。彼女は、愛に出会ったのです。彼女の本当の苦しみは、「愛されない苦しみ」でありました。その苦しみが癒されたのです。病気が癒されただけじゃなくて、愛されなかったことによる多くの傷が癒されたのです。

 「安心して行きなさい」。そうイエス様は言われました。そうです、もう怖がる必要はないのです。人と向き合うこと、怖がる必要はないのです。イエス様との出会いによって、私たちもまた本当の愛に出会います。そしてイエス様は、私たちにも「安心して行きなさい」と言ってくださる。イエス様の愛に出会うなら、私たちはもう怖がる必要はないのです。愛することも、愛されることも、もう怖がる必要はないのです。

 
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