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「賛美しながら戻って来た人」

2007年7月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 17章11節~19節

信頼して出発した十人

 イエス様の一行がエルサレムへ上る旅の途中の出来事です。ある村に重い皮膚病を患っている十人の人がおりました。彼らは主のなされた病気の癒しの奇跡をどこかで耳にしたのでしょう。この十人はイエス様を村の入り口で出迎えました。そして、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて憐れみを乞うたのです。なぜ遠くの方に立ち止まっていたのかと言いますと、彼らは人に近づくことが許されていなかったからです。

 この病については様々な規定がありました。まず祭司が念入りに調べて注意深く診断します。その上で、それが「重い皮膚病」と訳されているその病であることが判明しましたら、その人は汚れた者と見なされます。その人が道を歩く時には、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と声を上げることが定められていました。また人々の居住地区に住むことは許されません。町の外に独りで住まなくてはなりません。それがこの十人の置かれていた状況でした。

 もっとも実際には独りで住んでいたわけではなく、恐らく共同生活をしていたのでしょう。彼らのひとりはサマリア人でした。残りはユダヤ人です。ユダヤ人とサマリア人が共に住むということは、通常では考えられないことでした。サマリア人とユダヤ人は敵対関係にあったからです。しかし、病の苦しみと社会から排除された苦しみとが、彼らの対立意識を取り除くこととなりました。そして、彼らは共に連れ立って、病気を癒すと言われているイエスを求めて来たのです。彼らは一緒に叫びました。「どうか、わたしたちを憐れんでください!」と。

 イエス様はそのような彼らに言いました。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」彼らは憐れみを求めているのです。それは具体的には病気が癒されることであったに違いありません。ルカによる福音書5章にも同じ病気を患った人が出てきますが、イエス様は彼に手を伸ばして触れられ、その人を癒されました。ここに出てくる十人もまた、そのような特別な癒しの行為を期待していたに違いありません。しかし、主は彼らに「祭司たちのところに行け」とだけ言われたのです。

 祭司たちのところに行くのは、社会復帰の手続きのためです。旧約聖書のレビ記には、重い皮膚病が癒された時の手続きが、次のように記されています。「以下は重い皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示である。彼が祭司のもとに連れて来られると、祭司は宿営の外に出て来て、調べる。患者の重い皮膚病が治っているならば、祭司は清めの儀式をするため、その人に命じて、生きている清い鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を用意させる」(レビ一四・二‐四)。このようにして清めの儀式を執り行い、定められた手続きを経て、癒された人は社会生活に復帰するのです。

 しかし、この十人は癒されたわけではありません。当然のことながら、皮膚病が治っていなかったら祭司に見せに行っても意味がないのです。にもかかわらず、イエス様は彼らに祭司たちのところへ行けと命じました。何を意味しているのでしょうか。「信じなさい」ということでしょう。彼らが祭司たちのところに向かって出発するというのは、まさに信頼と従順を形に表すということに他ならないのです。さて、彼らはどうしたでしょうか。彼らは信じたのです。そして実際に出発したのです。すると途中で癒された。まさに信じたとおりになったのでした。

 このように信仰に伴って神の御業が現れたという話は、聖書の中に数多く見出すことができます。今日の物語に恐らく最も近いのは、列王記に記されているナアマン将軍の癒しの物語でしょう。

 列王記下の5章にアラムの王の軍司令官ナアマンという人物が出てきます。彼はこの十人と同じ、重い皮膚病を患っていた人でした。彼はイスラエルにいる預言者のことを耳にし、癒しを求めて預言者エリシャのもとに赴きます。彼はエリシャが出てきて患部に手を置き、主に祈って癒してくれるものと期待していました。しかし、ナアマンが家の入口に着くと、エリシャは使いの者をよこしてこう言ったのです。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ナアマンはこの言葉に憤慨し、立ち去ろうとしました。しかし、家来にいさめられ、預言者の言葉通り下って行ってヨルダン川に身を浸したのです。彼は信じて、その信仰を行動に移しました。「すると彼の体は元に戻り、清くなった」と書かれております。こうして彼の病は癒されたのでした。

 このような旧約聖書の物語が彼らの念頭にあったのかも知れません。彼らはあのナアマンと同じように信頼して従ったのです。そして、信仰によって行動を起こした時に、確かに神の御力を経験したのです。同じことは私たちについても言うことができます。信じたなら一歩踏み出すことが重要なのです。信頼を行動に移すことが大事なのです。どんなに聖書を学んでも、神学的な知識を身に付けても、傍観者のように自分の身を外に置いている限り、生ける神のリアリティを経験することはできません。私たちもまた、主に信頼し、主に従って歩み出していく時に、生ける神の御業を見ることになるのです。これが今日、この箇所から聞き取るべき第一のメッセージです。

賛美しながら戻って来た人

 しかし、今日の聖書箇所のメッセージがそれだけであるならば、この物語は14節で終わってよいはずです。癒されたところで終わってよいのです。しかし、ルカはその先を書き記しました。私たちが決して見落としてはならない、もう一つの大切な事柄があるからです。

 ルカは物語を続けます。ひとりの人が大声で神を賛美しながら戻ってきました。その人はサマリア人でした。ほかの九人はどうしたのでしょうか。当然のことながら、言われたとおり祭司のところに体を見せにいったのです。しかし、主はこのことに驚いてこう言われました。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」と。

 おかしいと思いませんか。「何を言っておられるのですか、イエスさま。あなたが祭司のところに行けと言ったから彼らは従順に祭司のところに行ったのではないですか。」そう言いたくなりませんか。彼らは先にも申しましたように、主の言葉に従って出発したのです。必ず癒されると信じて進んだのです。そして、事実、彼らの信じたとおりになったのです。ならば、あとは主が言われたように、祭司に見せて、手続きをして、社会に復帰する必要があるのでしょう。彼らのどこがいけないのでしょう。

 むしろ私たちはここで、なぜあのサマリア人が祭司のところに行かないで帰ってきたのかを考えなくてはならないのだと思います。何のために帰ってきたのでしょう。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(15‐16節)。そのように、彼はイエスに感謝するために帰って来たのです。そのようにイエス様に感謝したいと思ったのは、十人の内のたった一人でした。それは不思議なことでしょうか。いいえ、そうでもないと思います。私たちだったらどうでしょう。やはり帰って来ないのではないでしょうか。

 この物語の中に自分を置いて、もう一度この物語を振り返ってみたいと思います。私たちは遠くに立って「どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいます。イエス様はその声を聞きました。しかし、イエス様は私たちが期待していたようなことは何もしてくれませんでした。ただ祭司たちのところへ行くように指示しただけです。私たちに、信じて行動することを求めたのです。私たちは考えます。迷います。悩みます。しかし、最終的に決断します。ともかくイエス様の言うことを信じて、神に信頼して出発します。

 さて、人の言葉を信じたにせよ、あるいは人の言葉を通して神を信じたにせよ、自分が信じて行動を起こした時、私たちはどんなことを考えるでしょうか。普通は信じたことに対する何らかの《報い》を期待するのではないでしょうか。そこである種の取り引きが始まります。私は信じました。だから報いてくださいね。真面目に信じます。一生懸命に信じます。熱心に信じます。だから助けてくださいね。望みをかなえてくださいね。そのように、信仰に対する報いを求めます。ですから、報われなければ、「真面目に信仰してたのに!」と腹を立てることがあるかもしれないし、「わたしの信心が足りないから」と反省するかもしれません。いずれにせよ、自分の信仰を差し出すならば、神様が相当分の報いを与えてくださるという考えが根底にあるわけです。

 そのようにイエス様の言葉を信じて、神を信じて、祭司たちのところに出発した私たちの信仰は果たして報われましたでしょうか。見事に報われたと言えるでしょう。私たちは祭司たちのところへ行く途中で癒されたのですから。びっくりしました。大喜びです。「ああ、あのイエスという先生の言うことを信じてよかった。神に信頼して良かった!」私たちは《自分の信仰の報い》として、望んでいたものを得て、大喜びです。そのように報いを得て、祭司たちのところに向かいます。これがこの物語で起こっていることです。

 しかし、そこに一人だけ、たった一人だけですが、とてつもなく大きな事実に気付いてしまった人がいたのです。――なんと神が、この私を顧みていてくださる。神が、こんな私を愛していてくださる。私の人生に関わってくださる。それはいかに驚くべきことであるか!考えてみれば、そうでしょう。天地の造り主なる神が、一人の人間を愛し、受け入れ、その苦しみを心にかけ、顧みてくださるということは、それはとてつもなく大きなことであるはずなのです。それは彼にとって病気が癒されたこと自体よりも重大なことだったのです。だから彼は、社会復帰のための手続きをすることも忘れて、一心に神を賛美し始めたのです。彼はただただ大声で神を賛美することしかできなかったのです。

 そして、大声で神を賛美しながら、彼は来た道を引き返して、イエス様のもとに戻っていきました。感謝するためでした。なぜですか。単に自分が癒されたからではありません。生ける神であり愛なる神に出会わせてくださったから。このように驚きと喜びをもって神を賛美する者と変えてくださった御方だから。そんなイエス様に感謝するために、また、その御方と共に父なる神を誉めたたえるために、彼は戻って来たのです。戻って来た彼にイエス様は言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。確かにこの人は救われました。そして、それは病気が癒されること以上のことでした。

 なぜこの話は14節で終わっていないのか。既に明らかであろうと思います。イエス様のみもとで感謝と喜びに溢れて神を賛美しているこの人の立っているところに、私たちもまた招かれているということです。

 先ほど、「私たちもまた、主に信頼し、主に従って歩み出していく時に、生ける神の御業を見ることになるのです。これが今日、この箇所から聞き取るべき第一のメッセージです」と申しました。しかしそれは、私たちが信じるならば、私たちが従うならば、神は私たちを愛して、私たちを顧みて、特別な御業を行ってくださる、という意味ではないのです。私たちが信じる前から、私たちが従う前から、神は私たちを愛していてくださるのです。その愛は既にあの十字架において完全に啓示されているのです。

 私たちは自分の熱心な信仰によって、神の好意を獲得する必要はありません。私たちのちっぽけな信仰によって獲得できるような安っぽいものは、私たちに必要ではありません。私たちに必要なのは、信仰によって、愛なる神と出会い、生ける神の恵みに触れ、その大きさに驚き、ただただ神を誉めたたえる者となり、そして私たちの人生そのものが神への賛美となることなのです。これがこの箇所から聞き取るべき第二のメッセージです。

 
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