「思い悩みはどこから来るのか」
2007年8月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 12章13節~34節
「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(22節)。マタイによる福音書にも記されている、大変よく知られた主の御言葉です。「食べるもの」「着るもの」は、無いと困るものの代表です。無いと困る、不足すると困るもののことで、私たちはしばしば思い悩みます。無くなってからではなく、無くなる前から思い悩むわけです。誰もが「思い悩まないで生きたい」と願っています。しかし、もう一方で、思い悩まないで生きることは難しい。だから「思い悩むな」と繰り返されるイエス様の言葉は、誰の心にも忘れ難い印象を残します。そういう意味で、良く知られている御言葉です。しかし、私たちは「だから、言っておく」という小さな前置きを見落としてはなりません。その前に語られたことの続きだということです。主が語られた「思い悩むな」という言葉を聞く前に、聞いておかなくてはならないことがあるのです。
あらゆる貪欲に用心せよ
そこでまず13節以下を御覧ください。こう書かれています。「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである』」(13‐15節)。
ここで「群衆の一人」がしたことは、私たちの目には奇異に映りますが、当時の社会においては決して異常なことではありません。地域住民のトラブルを解決するために、ユダヤ教の教師が調停人の役割を果たすことはいくらでもあったからです。ですから、この人は他のラビに求めるべきことを、単にイエス様に求めたに過ぎません。さらに言えば、遺産相続に関しては律法にちゃんと規定があるのです。この人が「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と、訴えているところを見ると、律法によって保証されている彼の相続分を兄弟に騙し取られたということなのでしょう。
ですから、この人がしていることは、社会的に見たら間違っていることでも不当なことでもなかろうと思います。しかし、主はそこで調停人となることを拒否なさいました。いやそれだけでなく、この出来事を足がかりとして、「どんな貪欲にも注意せよ」と語られるのです。仮に場違いな訴えであったにせよ、この人が当然の権利を主張したことが、どうして「貪欲」の話につながることになるのでしょう。不思議です。
そうに考えますと、どうもイエス様はここで誰の目にも明らかな「貪欲」について語っているのではなさそうです。だから「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言っておられるのでしょう。誰の目にも明らかな貪欲ならば、あえて「用心しなさい」と言う必要はありません。「どんな貪欲」の中には、注意を払わないと分からない貪欲があるのです。イエス様は、ごく普通の日常的な事柄、全く当然に思える要求や主張の中にこそ潜む、私たちがしばしば気付かないような「貪欲」のことを考えておられるのです。それを明らかにするために、語られたのが、その後のたとえ話です。主はいささか極端な例を持ち出します。しかし、その極端さに目を向けてはなりません。むしろ、誰の内にもある普遍的な問題をそこに見なくてはならないのです。
16節以下を御覧ください。ある金持ちの家が豊作でした。この人が倉を建て替えることは、ある意味で当然のことでしょう。彼は殊更に貪欲な人でしょうか。いいえ、そうは見えないでしょう。彼の判断は極めて適切です。しかし、その彼に対して神は「愚かな者よ」と呼びかけられます。倉の再建計画を立てたその晩に、命を失うことになるからでしょうか。豊作も蓄えも無駄になってしまうからでしょうか。いや、そうではありません。実は、問題は彼の言葉の中に現れているのです。そこで語られる金持ちの言葉の特徴は、残念ながら新共同訳聖書では分かりません。あえて言葉を加えて訳すならば、彼はこう言っているのです。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。」そして思い巡らしてこう言います。「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに私の穀物や私の財産をみなしまい、私の魂に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」
お分かりでしょう。問題は、くどいほど繰り返されている「私の」という言葉にあるのです。そして極めつけは、19節の「自分に言ってやるのだ」――これは、今申しましたように、「私の魂に言ってやるのだ」という言葉です。「魂」とは、言い換えるならば「命」です。「魂」とも「命」とも訳せる。だから、これは「私の命に言ってやるのだ」ということです。彼はそう言っているのです。すると、この神様の語られた言葉の意味合いも分かってきます。この人は「私の命に言ってやるのだ」と言う。すると神様は言われるのです。「愚か者よ。お前が『私の命』と言っている、その『お前の命』とやらは、今夜取り上げられるぞ。」
財産は確かに「私のもの」に思えます。豊作で得た物も「私のもの」に思えます。しかし、「命」ほど「私のもの」と思いたいものはないでしょう。「私のもの」と主張したい。他の誰の手にも渡したくない。しっかりと自分の手で握りしめていたい。最後まで自分の支配のもとに置きたい。最後まで自分の思い通りになるものであって欲しい。最後まで「私のもの」であって欲しい。それが「命」です。でも、実際にはどうですか。思い通りにはならないでしょう。この世における「命」。この世における人生。「私のもの」ではないのです。私たちは本当は、分かっているのです。
では誰のものなのでしょう。神様のものです。それがこのたとえ話において神様の言葉によって表されていることなのです。「お前の命は取り上げられる」。――「取り上げる」と言いますと、何か不当なことを神様がしているような感じがしますが、これはもともと「要求する」という言葉です。「返しなさい」と要求することです。つまり、それは神様から一時的に託されていたものだ、ということです。私たちはその厳粛な事実を認めなくてはならないのです。この世における命は神から一時的に託されているものに過ぎない。その一時的に託されていた命を、では誰が支えていたのか。神様なのです。神様が神様のものをもって、本来神様のものである命を支えてくださっていたのです。しかし、彼はそれを認識しなかった。彼はその言葉において「私の、私の」を繰り返していたのです。
そこに人間の「貪欲」があるのだ、ということでしょう。一時的に託されているにすぎない《神のもの》を《私のもの》と主張して生きているところにこそ貪欲がある。しかし、「私の、私の」と言っていることは、この世の観点からするならば、たいていは不当なことではない。だから気付かないわけです。それゆえ、そのような貪欲に注意せよと主は言われたのです。
思い悩むな
それに続いて、「思い悩むな」という話が来るのです。「思い悩むな」という話は、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」という話に続いているのです。多くの人が悩みと心配を抱えております。しかし、多くの人は自分が貪欲だとは思っていないでしょう。悩んでいる人は、自分が必要以上の要求や願いを持っているなどとは思わないものなのです。そうしますと、22節の「だから言っておく」という言葉によって、主が貪欲の事柄と思い悩みを結びつけているところに、実は大事なメッセージがあるということが分かります。
主はここで「思い悩むな」と言われます。そして烏を養われる神について語られます。さらにさらに野原の花をソロモン以上に装われる神様のことを語っておられるのです。実は、ここで語られているのも、本質的には先のたとえで語られていることと同じなのです。主は烏に目を向けさせます。野原の花に目を向けさせます。野に出て見ればわかることがあるのです。種を蒔いたり、刈り入れをしたり、納屋や倉を造ったりしている人間社会に目を向けているととかく見えなくなってしまうものが、野に出て見れば見えてくる。そこには神様から食べ物を受けて生かされている鳥たちがいるのです。自ら労して紡ぐわけではないのに、ただ神によって美しく装われている野の花々があるのです。彼らの姿こそ、命や体はいったい誰のものであるのか、命と体を支えるすべてのものはもともと誰の所有であり、誰から来ているかを雄弁に物語っているのです。
そのように、父なる神は、汚れたものとされている烏さえも生かしていてくださる。烏にさえもある期間、この地上における命を託し、またその命を支えるために必要なものを与えていてくださる。ましてあなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか、と主は言われるのです。また父なる神は、一日で枯れてしまうような草をさえ装われる。まして、あなたがたにはなおさらのことである、と主は言われるのです。この命にもこの体にも父の慈愛のまなざしが向けられ、この地上の命とこの地上の体のために、神から与えられているものがあるのです。すべては神から来ているのです。しかし、先にも見ましたように、私たちはしばしばすべてが神から来ていることを忘れてしまう。神の慈愛によって養われていることを忘れてしまうのです。そして傲慢にも身の回りにあるものが本質的に自分に属するものであるかのように主張し始めるのです。この世の目には見えない、隠れた貪欲です。
そして、イエス様はその隠れた貪欲が思い悩みと深く結びついていることを良くご存じだったのです。先に申しましたように、私たちの思い悩みは「無いと困るもの」を巡っての悩みです。だから、思い悩みというものは「欠乏から来る」と考えているものです。必要なものが不足している、欠けているから思い悩んでいるのだと思っているのです。ここでイエス様が言っているような、食べ物や着る物の不足や欠乏だけではありません。ある時にはお金が足りない。時間が足りない。能力が足りない。夫の愛情が足りない。妻の愛情が足りない。助け手が足りない。周りの人々の思いやりが足りない。――それが思い悩みの種なのだと思っているのです。
しかし、本当は何かが欠けているところに問題があるのではないのです。そうではなくて、むしろ満ちているところに問題があるのです。何が満ちているか。「私の」という言葉が満ちているのです。「私」が満ちて「神」が欠けているのです。そこにこそあらゆる思い悩みの根っこがあるのです。だから主はここで「信仰の薄い者たちよ」と言われるのです。思い悩みに深く関わっているのは、実は周りの状況ではないのです。何かの不足ではないのです。そうではなくて、思い悩みに深く関わっているのは、神との関係であり信仰なのです。
このように、思い悩みは欠乏そのものから来るのではないので、不足しているものをひたすら求めても思い悩みの解決にはなりません。その不足が満たされても、別の不足によって思い悩むことになるでしょう。では、どうしたらよいのでしょう。まず求めるべきものがある、と主は言われるのです。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(31節)。
「神の国を求めなさい」。――「神の国」は遠いところにあるのではありません。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:21)と主は言われるのです。「神の国を求めなさい」。その直前には、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と書かれています。私たちの必要をご存じである神、その神を「わたしたちの父」として、すべてをこの父の手からいただいて、神の支配のもとに感謝して共に生きる生活。そのような父なる神の支配する救いの世界。ただ「神の国を求めなさい」と主は言われるのです。