「嘆きの谷を泉とする」
2007年9月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編 84編
嘆きの谷を通るときも
本日の第一朗読では詩編84編をお読みしました。この中の、特に6節から8節までを心に留めたいと思います。もう一度お読みします。
「いかに幸いなことでしょう。
あなたによって勇気を出し、
心に広い道を見ている人は。
嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。
雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
彼らはいよいよ力を増して進み
ついに、シオンで神にまみえるでしょう」(84:6‐8)。
詩編84編全体では「いかに幸いなことでしょう」という言葉が三度にわたって繰り返されています。まことに幸いを知る人の歌であると言ってよいでしょう。この人は、どのような人を幸いな人と呼んでいるのでしょう。今お読みしましたところには、「あなた(神)によって勇気を出し、心に広い道を見ている人は」幸いだとうたっています。しかし、これだけではよく分かりません。その次の言葉に行きますと、もう少し分かりやすいと思います。幸いな人――その人は「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」人です。まず、こちらから見ておきましょう。
「嘆きの谷」という言葉が、以前用いていた口語訳聖書ではどう訳されていたかを覚えていますでしょうか。実は、ここは「バカの谷」と訳されていたのです。私は子供の時から、教会でこの詩編の箇所を耳にする度に、「バカの谷ってなんだろうなあ」と思ったものです。実は、その「バカ」というのは、バルサムの木のことなのです。乾燥地に生える低木の一種です。ですから、バカの谷というのは、意味合いとしては「乾燥した谷」ということなのでしょう。ところが面白いことに、綴りは違うのですが、発音が殆ど変わらない単語があるのです。それは「泣く」という意味なのです。そのようにいわば掛詞になっているのです。確かに、巡礼の旅をする者にとっては、乾燥しきった谷を通る道は、それこそ泣きたいような辛い道でもあったのかもしれません。ですから「嘆きの谷」でもあるのです。
しかしこの詩人は、そのような「バカの谷――嘆きの谷」を通らない人は幸せな人だ、とは言ってはいないのです。幸せな人は、そのような嘆きの谷を通る時も、そこを泉とすることのできる人なのだ、と言うのです。
当時、エルサレムへと巡礼の旅をした人たちが、必ず「嘆きの谷」とも言うべきところを通らなくてはならなかったように、私たちが生きていく時には、必ず乾いた地、嘆きの谷を通らなくてはならないのでしょう。乾いた荒れ地を行かなくてはならないから不幸なのだと思っている人は、いつまで経っても不幸のままであるに違いありません。乾いた谷を通らなくてはならないから、心豊かに生きられないのだ、と思っている人はいつまで経っても心がカサカサのままでしょう。しかし、本当は荒れ地を行かなくてはならないことが不幸なのではないのです。そこを泉とすることができないことこそ、実に不幸なことなのです。
時田直也さんというクリスチャンのバリトン歌手がいます。彼はもともと神戸に住んでいたのですが、阪神大震災の際に被災して、篠山に仮住まいしていました。その篠山における開拓伝道にわたしが関わっていた関係でお出会いし、教会にもお招きして歌っていただいたことがあります。実は、彼は全く目が見えません。生後半年で未熟児網膜症になられたからです。そんな彼が繰り返し口にしていた言葉がありました。「目が見えないことは不便ではあるが決して不幸ではない」。――時田さんが教会に来てくださった日の礼拝で読まれた聖書の言葉が、この詩編84編でした。そして、その日の午後、讃美の歌声と共に、彼自身の嘆きの谷を泉としてきた人生を語ってくださいました。
私たちの人生において決定的に重要なことは、嘆きの谷を通るか通らないかということではありません。真に人生を決定づけるのは、そこを泉湧くところとすることができるかどうかということなのです。
心に広い道を見ている人
では、どうしたら、嘆きの谷を泉とすることができるのでしょうか。そこで、もう一度6節に戻りたいと思います。こう書かれていました。「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。」この「広い道」とはエルサレムの神殿へと通じる道のことです。その人は神殿へと思いを馳せる巡礼者なのです。神殿へと向かう巡礼者は、嘆きの谷を泉とする、というのです。これは何を意味するのでしょうか。
この人が言っていることを理解するためには、彼自身がどのように生きてきたのか、ということをもう少し考えてみる必要があります。この人がどのような思いをもって生きてきたかが2節以下に次のようにうたわれています。
「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。
主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。
命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り
つばめは巣をかけて、雛を置いています。
万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
いかに幸いなことでしょう
あなたの家に住むことができるなら
まして、あなたを賛美することができるなら」(2‐5節)。
「あなたのいますところ」と言われ、「主の庭」と言われているのは、具体的にはエルサレムの神殿であり、その前庭です。彼は、魂が絶え入るばかりに、気絶するほどに、主の庭を慕うのです。それは、当然のことながら、神殿そのものを求めているのではありません。彼が求めているのは神様御自身です。魂が絶え入るばかりに神様を求めているのです。神殿は神を礼拝する場所です。ですから、神を求めるとは、具体的には、神を礼拝することです。彼は神様を慕い求め、神様を礼拝することを至上の喜びとしていた人なのです。
この人は「神様を」求めていたのであって、単に「神様がくださる何か」を求めていたのではないということを私たちは心に留めるべきでしょう。もちろん、神様は良きもので私たちを満たしてくださいます。この詩編の12節にも、「完全な道を歩く人に主は与え、良いものを拒もうとはなさいません」と書かれています。この人も、そのことはよく知っているのです。にもかかわらず、彼が第一に求めているのは、他ならぬ主御自身だったのです。
なぜなら、それは「命の神」だからです。生きておられる神であり、また人を生かす神、命を与える神、命の源なる神だからです。喉が渇いている時には、一杯の水を欲するものです。しかし、一杯の水を求めること以上に大事なことは、泉そのものを求めることなのです。人生において当面必要な何かを神に求めること、それは悪いことではありません。しかし、本当に大事なことは、命の源そのものを求めることなのです。神を知ることを求め、真に神を礼拝し、神との生きた交わりに生きることを求めることこそ、最も大事なことなのです。
「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」そのように彼は言います。「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人」とは、そのように神を慕い求める人です。神を礼拝する喜びを知っている人です。命の源を求め、神との交わりの中で真の命に満たされて生きる喜びを知っている人です。その喜びを持っているならば、もはや自分が乾いた地を歩いているかどうか、嘆きの谷を歩いているかどうかが人生を決定するのではないのです。なぜなら命の水は源なる神から来るからです。そのような人こそ、嘆きの谷を歩くときも、そこを泉湧くところとしながら歩み続けることができるのです。
ついにシオンで神にまみえるでしょう
そして、さらにこう書かれています。「彼らは いよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえるでしょう」(8節)。巡礼者たちは長い旅路に弱ってしまうことはありません。乾いた地は彼らを弱らせるものとはなりません。かえって、目指す神殿が近づくにつれ、いよいよ力を増して進むのです。
私たちの一週間の生活は、ここに描かれているような巡礼の旅になぞらえることができます。私たちの生活は、日曜日の礼拝によって一週間の長さに区切られております。それは、礼拝から礼拝へと向かう巡礼の旅なのです。礼拝を重んじるということは、その他の日を軽んじることではありません。いにしえの巡礼者は礼拝の喜びを知る故に、旅路が進むにつれていよいよ力を増して進んだのです。同様に、私たちも、主を礼拝することを学び、その喜びを知れば知るほど、週日の6日間をより力強く歩むことができるはずなのです。多忙な現代人が一週間の生活に疲れ果てて日曜日を迎えるということも珍しくはありません。しかし、だからこそ、礼拝へと向かい、ますます力を増して進むという生き方を体得していくことが大きな意味を持つのです。
さらにまた、私たちの一生も、ここに書かれている巡礼の旅路になぞらえることができるでしょう。この人は5節でこう言っています。「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら」(5節)。そうです。その「いかに幸いなことでしょう」ということが、やがて現実となるのです。今日の福音書朗読において、イエス様はこのように言っておられました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:1‐3)。
イエス様は、場所を用意しに行ってくださいました。イエス様が十字架にかかってくださったとはそういうことです。罪深い私たちが、なおも罪を赦されて、父なる神にまみえ、この地上の神殿ではなく、天にあるまことの父の家に住まうことができるように、イエス様は十字架にかかってくださったのです。
この世における週毎の礼拝は、天にあるまことの神の家における完全なる礼拝の雛形に過ぎません。やがて、私たちは本当に神を知り、神にまみえる時が来るのです。その時には、この詩人が「いかに幸いなことでしょう」と言っていた言葉に心から同意し、「本当にそのとおりだ!」と思うことでしょう。
そのように、最終的に神にまみえるその日を目指して生きている人は、この地上の生涯を、単に衰えゆく人として、朽ちていく人として生きることはありません。もちろん、体は弱り、衰え、機能は低下していくのでしょう。しかし、パウロが言う如く、たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新しくされていくのです(2コリント4:16)。まさに、「いよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう」ということが私たちの人生においても実現するのです。いかに幸いなことでしょう!