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「金持ちとラザロ」

2007年9月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 16章19節~31節

施しの勧め?

 今日の福音書朗読で読まれたのはたいへん恐ろしい話でした。死後の世界をこのように語るイエス様のたとえ話は他に見あたりません。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」その金持ちが、死んで葬られた後、死後の世界で苦しみ苛まれることになったという話しです。

 皆さんは、今日の聖書箇所を聞いて何を思いましたか。「ぜいたくに遊び暮らしていた」という表現は、やはり悪いことを連想させますから、死後に裁かれたということは、何となく分かるような気もいたします。しかし、もう一方で、やはりよく分からない。そう思われた方も、少なくなかったのではないでしょうか。というのも、実際にはこの金持ちが悪人だったとは書かれていないからです。「ぜいたくに遊び暮らした」ということは必ずしも不道徳なことに金をつぎ込んだことを意味しませんし、彼の富が貧しい人々を不当に搾取することによって築かれたものであるとも書かれていません。彼は遊び暮らすことができたし、働かなくてよかった。なぜかと言えばお金があったから。要するにそれだけのことです。ではなぜ死後に苦しむことになったのでしょうか。

 そこで目に留まるのが、金持ちの門前にラザロという貧しい人がいたという話です。その貧しい人は貧しいまま死んでしまいました。すると、この金持ちが死後苦しむことになったのは、多くの富を持ちながら、貧しい人を助けなかったからだ、ということになるでしょう。自分はぜいたくに遊び暮らしていながら、貧しい人のためには金を使わなかったから。確かにそれは悪いことのように思います。それゆえに死後には苦しむことになるのだと言われれば、もっともだとも思えます。

 そうしますとイエス様は、「自分の楽しみだけのために富を使うな。ぜいたくをするな。貧しい者を助けよ。施しをせよ。そうでないと、この金持ちのように死後苦しい目に遭うぞ」ということを教えるためにこのたとえ話をしたのでしょうか。しかし、このたとえが語られた場面を考えますと、そうとは思えないのです。

 少し前に遡って14節を御覧ください。「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」(14節)。これがそもそもの発端です。彼らに対してイエス様が語られたのが、今日のお話なのです。問題はこの「金に執着するファリサイ派の人々」という表現です。皆さんはどのような人々を想像しますか。自分と家族のためには金を貯め込むが、他の人のためにはびた一文使おうとしない。むしろ金をもらうことばかりを考えている人。そのようなイメージでしょうか。ところが、彼らはそのような人々ではないのです。なぜなら、ファリサイ派の人たちが宗教的な義務として実践してきた「正しい行い」の中には「施し」も含まれているからです。金を持つ者が施しをすることは正しいことだと彼らは理解し、そのように行っていたのです。実際に心の中において金への執着があったかどうかは分かりません。ここに書いてあるように、多分、金への執着はあったのでしょう。しかし、ファリサイ派の人であるならば、少なくとも表向きには、絶対に施しなどしない我利我利亡者のように生活することはあり得なかったのです。

 ですから、今日のたとえに出てくる金持ちが、《施しなどしない人》という意味で登場しているなら、少なくともこれを聞いているファリサイ派の人には関係ないことになるのです。「施しをしないと死後苦しい目に遭うぞ」という教えなら、むしろファリサイ派の人たちにとっては歓迎なのです。自分の正しさを表明する機会になるからです。「わたしはちゃんと施しを実践しています」と。

関心を向けられる神

 では、イエス様の語られたこのたとえ話のポイントはどこにあるのでしょう。それは「施しをしなかったこと」にではなく、この金持ちの「無関心」にあるのです。門前にいたラザロは、食物が与えられなかっただけではありません。追い払われさえもしなかったのです。「あっちへ行け」とさえ言われなかったのです。このラザロという人は誰にも心にかけられることはなかった。このラザロに関心を持ったのは犬だけだったと語られているのです。

 「助けないこと」と「無関心であること」は同じではありません。たとえ多額のお金を施したとしても、具体的に助けを与えたとしても、その人の苦しみそのもの、その人の存在そのものに無関心であるということは、あり得るからです。マザーテレサが繰り返し口にしていた有名な言葉があります。「愛の反対は憎しみと思うかもしれませんが、実は無関心なのです。 憎む対象にすらならない無関心なのです。」そうです、ここに強烈に描き出されているのは、そのような愛の対極にある無関心なのです。その意味において、この金持ちの話は、これを聞いていたファリサイ派の人たちにも、またここにいる私たちにも無関係ではありません。わたしは貧しいからこのたとえ話は無関係、とは言えないのです。貧しい人が他の貧しい人に対して無関心であるということはあり得るではありませんか。

 しかし、このたとえ話に金持ちの「無関心」だけを読み取るならばまだ十分ではありません。人の「無関心」だけではなく、ここには神様の「関心」もまた語られているのです。犬にしか顧みられなかったラザロ。ひとりぼっちで死んでいき、葬られることすらなかったラザロ。誰からも関心を向けられなかったラザロ。しかし、そのラザロに目を留めている方がおられたのです。関心を寄せる方がおられたのです。神様です。「天使たちによって…連れて行かれた」と書かれていますでしょう。それは、要するに神様によって連れて行かれたということなのです。

 では、この金持ちについてはどうなのでしょう。神様はこの金持ちには関心がなかった?いいえ、神様はこの人にも大きな関心を向けておられました。この人が裁かれたとはそういうことです。神様はこの人が生きている間に良いものをもらっていたことを知っているのです。その良いものをどのように用いるか、他の人との関わりでどのように用いるかに関心を向けておられたのです。この人が他の人に対してどのように関心を寄せ、どのように共に生きるのか、それは神様の関心事だったのです。神様はラザロを顧みられ、そしてこの金持ちをも顧みられました。人が与えられた境遇においてどのように一生を全うするのかということは、神様にとってどうでもよいことではないのです。

 そしてさらに重要なことは、このたとえ話を誰が語っているのか、ということです。まさに人間に対する神の関心、神の愛が形を取って現れたイエス様が、このたとえ話を語っているのです。この地上において数十年ばかり生きる私たちのちっぽけな人生。それは神の目に重く尊いものなのです。ですから、神は私たちが生きるこの世界に、罪に満ちたこの世界に、独り子さえ送られたのです。私たちの罪が赦され、この地上において私たちが神と共に生きることができるように、御子を十字架にかけられたのです。イエス様は、御自分の存在が、まさにそのような神の関心の現れであり、神の愛の現れであることを知っておられるのです。

 このたとえ話は、そのような御方によって語られたものです。ならば、これは単に「死後苦しみたくなかったら、生きている間に善い行いをせよ。施しをせよ」といった類の話でないことは明らかです。そのことを良く示しているのが、このたとえ話の続きの部分です。

聖書に耳を傾けよ

 27節以下を御覧ください。金持ちはラザロと共にいる信仰の父アブラハムに向かって叫びます。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。しかし、アブラハムは言うのです。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」モーセの律法の書と預言者の書を彼らは持っている。つまり彼らは聖書を持っているではないか。聖書の言葉が既に与えられているではないか、ということです。これに対して、金持ちはなおも食い下がります。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。しかし、これを聞いたアブラハムは彼に言いました。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)。

 死後の世界を知っている者が生き返って、死後の世界の苦しみや祝福を語るならば、それを聞いて人は悔い改めるだろうとこの金持ちは考えました。しかし、本当にそうなのでしょうか。そうではないとアブラハムは言っているのであり、このたとえ話をしているイエス様もそう言っておられるのです。

 先にも申しましたように、この場合の問題は愛の対極にある無関心だったわけです。ですから、悔い改めとは関心を持つ者となり、愛する者となるということです。しかし、死んだらどうなるかを知らされれば、本当に人は悔い改めるのでしょうか。死んだ後に苦しい場所に行くことになるぞと知らされたら、本当に人は他の人に関心を持ち、愛を持つようになるのでしょうか。そうではないでしょう。

 実際、これを聞いているファリサイ派の人は、誰かから言われなくても死後の世界を既に信じていたのです。実際イエス様はファリサイ派が信じていた死後の世界の話を用いて、このたとえを語っているのです。人によって死後に行く場所が分かれるというのは、他ならぬファリサイ派の人たちが信じていたことなのです。だから、正しい人間が行くところに行きたくて、アブラハムがいるところに行きたくて、宗教的な義務である施しも実践していたのです。しかし、そのようなところから、本当に他者への関心や愛が生まれたのでしょうか。いいえ、そうはならなかったのです。施しをしたとしても、考えているのは自分の救いのことだけなのです。ですから、救われるために宗教的な義務はきっちりと果たし、施しだってするのだけれど、例えば、病気で長い間苦しんできた人がイエス様によって癒されても、悪霊に憑かれていた人がイエス様によって解放されても、神に背いて生きてきた人が神に立ち帰っても、そこで一緒に喜べないのです。関心がない。愛がない。

 そのように、他の人への関心や愛は、死後の世界に対する恐怖などから生まれることはありません。たとえ死後の世界から人が戻っても、それによって悔い改めなど起こらないのです。ですから、――ここが大事なのですが――今日お読みしたイエス様のたとえ話も、単に死後の世界を語るものとして読まれてはならないのです。ましてや、死後の世界に対する恐怖を煽るものとして読まれてはならないのです。そこから本当の悔い改めなど起こるはずがないからです。せいぜいそこから起こるのは、死後の苦しみをどうしたら免れるかという利己的な関心ぐらいです。

 アブラハムは言いました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と。聖書を持っているではないか。聖書に耳を傾けよと言うのです。聖書が語っているのは、死後の世界の話ではありません。聖書が語っているのは、今この地上に生きている私たちに対して、関心をもって徹底的に関わりたもう神様の愛です。ですから、聖書は究極的には神の愛そのものであるイエス・キリストを指し示す書物なのです。

 この聖書の言葉が、そして聖書が指し示すイエス・キリストこそが、私たちを真の悔い改めへと導くのです。自分の存在が尊ばれていることを知ってこそ、他の人の存在を尊べるようになるのでしょう。自分が愛されていることを知ってこそ、隣人に向かっての愛の一歩を踏み出せるようになるのでしょう。今日もここにおいて聖書の言葉が読まれました。私たちが聞くべき言葉が語られました。既に私たちの内に神の良き御業は始まっています。神は今も私たちに関心をもって関わっていてくださいます。神はイエス・キリストをこの地上に生きる私たちに賜るほどに、この世を、私たちを愛してくださいました。この福音こそが、私たちを「無関心」という冷たい牢獄から解き放つのです。

 
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