「赦された人」
2007年10月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィレモンへの手紙
逃亡奴隷オネシモ
本日の第2朗読では、フィレモンへの手紙というパウロが書いた短い手紙をお読みしました。これは「獄中書簡」と呼ばれるものの一つです。パウロが監禁されていた時に書かれたものです。ですから冒頭において自分自身を「キリスト・イエスの囚人パウロ」と呼んでいるのです。このような手紙は他に三つあります。フィリピの信徒への手紙、エフェソへの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙です。その中でこの手紙と関係の深いのはコロサイの信徒への手紙です。
そのように獄中に監禁されていたパウロのもとにオネシモという人物がいました。彼はパウロを通してイエス・キリストを知り、信仰を持った人です。10節に「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」と呼ばれているのは、そのような意味です。しかし、実のところを言いますと、彼は逃亡者なのです。主人のもとから逃亡した奴隷です。当時のローマ社会はまさに奴隷によって成り立っていると言えるほどに奴隷が多かったのですが、彼もまたその一人でした。そのオネシモが、主人のものを盗んだか、あるいは多大な損害を与えたかして、そのまま逃げたのです。罪を犯した逃亡奴隷が捕まったなら、そこには厳しい処罰が待っています。処刑されることさえあり得ます。だから彼は逃げた。必死で逃げて、逃げて、逃げ通したのです。しかし、その末に、どういうわけか監禁中のパウロと出会い、そこでキリスト者となったのです。
オネシモは、キリスト者としてしばらくの間、監禁中のパウロの身の回りの世話をしていたのでしょう。それはパウロにとっても有り難いことであったに違いありません。しかし、パウロはオネシモを送り返つもりでいたのです。彼の主人がいる町――コロサイへ。コロサイの信徒への手紙4章7節以下を御覧ください。「わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう」(コロサイ4:7‐9)。そのようにパウロはティキコと共にオネシモをコロサイへ送ります。
「あなたがたの一人」とパウロは書いています。コロサイの信徒たちに対して、「このオネシモという人物はあなたがたの一人、あなたがたの兄弟であり仲間なんだよ」と言っているのです。そのコロサイの信徒たちの一人であり、集会のための家を提供していた人がいました。名をフィレモンと言います。彼が、そうです彼こそが、逃亡奴隷オネシモから損害を受けた当の本人、オネシモの主人です。
今日お読みしましたフィレモンへの手紙は、そのようなフィレモンのもとにオネシモを送り返すための手紙です。
赦しと和解
この手紙全体を読んでまず感じることは、パウロがとにかく必死だということです。「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが」(8‐9節)。このような訴えから始まって、その後、考え得るありとあらゆる説得の方法を用いて、一生懸命に言葉を選びながら、なんとかフィレモンがオネシモを赦して受け入れるように説き勧めているのです。18節に至っては、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう」(18‐19節)とまで言っています。
ここまでパウロが必死に説得しようとしているのは、フィレモンがオネシモを受け入れるということが、極めて困難であることを予想しているからでしょう。フィレモンはキリスト者なのだから、しかもコロサイの信徒たちの中では中心的な人物なのだから、当然彼はオネシモを赦すだろう、などと考えてはならないのです。なぜなら、当時の社会においては、犯罪を犯した奴隷を厳しく罰することは、むしろ主人の義務とされていたからです。逃亡奴隷が主人のもとに送り返された時に、赦されて受け入れられるということは、本来あり得ないことだったのです。ですから、これはパウロにとっても、またオネシモにとっても、いわば大きな賭けであったに違いありません。
そこまでしてパウロはオネシモをフィレモンのもとに送り返そうとしていた。なぜでしょう。オネシモもまた同意してフィレモンのいるコロサイに帰ろうとしていたのです。なぜでしょう。そのことを私たちはよく考えたいと思うのです。
先にも申しましたように、フィレモンのもとから逃げたオネシモが、どのような経緯によってかは知りませんが、パウロと出会うことになりました。パウロは、逃亡者オネシモに、罪の赦しの福音を語ったのでしょう。神はあなたを愛しておられる。神はあなたを赦してくださる。イエス・キリストはあなたのために十字架にかかってくださった。罪の贖いは既に成し遂げられた。あなたはキリストを信じて、罪の赦しを受け、神と共に生きることができる。新しく生きることができる。――オネシモは、罪の贖いとして十字架にかかってくださったキリストを信じ、バプテスマを受け、罪の赦しを受け、新しく生まれた者として神に仕え、人に仕えていたのです。
そうです、確かにオネシモは神に赦され、神との間に平和を得たのです。神との関係は正されました。しかし、それがすべてではないのです。まだ残っていることがあるのです。神との関係が回復されれば、人との関係は壊れたままで良いのか。パウロはそうは考えませんでした。確かに神の赦しは既にオネシモに与えられました。一方的な神の恵みによって神との和解が与えられました。しかし、神との和解が与えられるならば、今度はそれが人と人との和解という目に見える実を結ぶようになることを、神様は望んでおられるのです。そのために、オネシモはフィレモンのもとにどうしても帰らなくてはならないし、既に神の赦しを受けてキリスト者とされているフィレモンは、オネシモを赦すという困難な課題と向き合わなくてはならないのです。
実際、聖書には神の赦しのみならず、人の赦しについて繰り返し語られていますでしょう。今日の福音書朗読においてもそうです。イエス様は言われました。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:3‐4)。「そんなムチャな!そんなことできるか!」と思いますでしょう。特に、許し難い人の顔がチラチラ思い浮かぶならなおさらです。あるいは、「そんなに何度も赦したら、本人のためにならない」などと言いたくなるのではありませんか。しかし、どうですか。神様はあなたに対して、「3度以上赦すとあなたのためにならない」と言って赦すことを打ち切りましたでしょうか。今日、この後に私たちは聖餐にあずかりますが、悔い改めて罪の赦しを求めながら前に出て行くことは、これで何度目でしょうか。神様の赦しは打ち切られましたでしょうか。
確かに難しい。赦すことは本当に難しいと思います。しかし、神が私たちに与えてくださった赦しが、私たちの間の赦しとして目に見える実を結ぶことを、神は望んでおられるのです。そのように神の赦しと和解を、私たちの間に目に見える形にすることは、キリストを信じる者がどうしても向き合わなくてはならない課題なのです。オネシモはフィレモンに会わなくてはならないし、フィレモンはオネシモを赦すという課題と向き合わねばならないのです。
さて、フィレモンはどうしたのでしょう。オネシモは赦されたのでしょうか。パウロが望んでいるように、オネシモは愛する兄弟として受け入れられたのでしょうか。この手紙が残っているということは、しかも聖書の中に残っているということは、何を意味しますか。オネシモはフィレモンによって赦され、愛する兄弟として受け入れられ、コロサイの信徒たちにも彼らの一人として受け入れられたことを意味するのでしょう。この小さい手紙は、まさに神の赦し、神と人との和解というものが、人の赦し、人と人との和解という形で実を結ぶことを証しする手紙でもあるのです。
執り成し
そして、さらにもう一つ見落としてはならないことがあります。パウロと彼の手紙が果たした役割です。すなわち《執り成し》です。この赦しも和解も、この《執り成し》なくして実現しなかったわけですから。
先にも引用しましたが、パウロはフィレモンに対して、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう」(18‐19節)とまで言っています。その直前には、「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」と言っているのです。そのように、オネシモを「わたしの心」(12節)とまで言うパウロの、その執り成しの言葉の一つ一つを読みます時に、そこに《キリストの執り成し》が重なって見えてまいります。それはある意味では当然のことであるとも言えます。パウロをそこまで突き動かしているのは、パウロのために執り成したもうキリストの愛に他ならないのですから。
パウロが果たした役割、執り成しの役割というものは、いわばキリストの執り成しが生み出した目に見える実りに他ならないのです。私たちのために執り成したもう主は、私たちがそのような実を結ぶことを願っておられるのです。すなわち、キリストの執り成しによって神との間に平和をいただいた人は、今度は人と人との間に平和を実現する者となることが期待されているのです。
そのようにして、執り成された人、赦された人であるオネシモは、その後どうなったのでしょう。聖書の中に彼の名前は、先に引用したコロサイの信徒への手紙にしか出てこないのですが、実は紀元2世紀にアンティオキアの監督イグナティオスによってエフェソの教会に宛てた手紙の中に彼の名前が出てまいります。「オネシモス(オネシモ)は言い尽くせぬ愛の人、肉においてはあなた方の監督であり、私はあなた方がイエス・キリストに従って彼を愛し、皆彼のようになることを、お祈りしております。あなた方を恵み、こんな監督を持つにふさわしくして下さった方はほむべきかな。」
神の恵みは、罪を犯して逃げ回っていた奴隷を造りかえて、「言い尽くせぬ愛の人」にし、エフェソの教会の監督としたのでした。実に神の御業は、人間の想像を遙かに超える仕方で進められます。しかしそれはまた、神の赦しが、キリストの執り成しが、人の赦しや人の執り成しという目に見える実を結ぶことを通して進めらるのです。私たちの内に、神との和解の実が結ばれること、それがたとえ小さい実であっても、私たちが赦すこと、私たちが執り成すことは、神のご計画においては、決して小さなことではないのです。