「ギデオンの戦い」
2007年10月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 士師記7章1節~8節、16節~23節
貧しく弱くなさる神 今日の第一朗読では、ギデオンの物語の一部が読まれました。旧約聖書の中でも良く知られている、とても印象的な物語です。この物語は6章から始まっていますので、まずその導入の部分を読んでおくことにしましょう。「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された」(6:1)。これがそもそもの発端です。士師記には、「主の目に悪とされることを行った」という言葉が繰り返し繰り返し出てきます。ところで「主の目に悪とされること」とは何を指して言っているのでしょう。この表現が士師記に最初に出てくるのは2章11節です。そこにはこう書かれています。「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった」。そのように、「主の目に悪とされること」とはバアル礼拝のことなのです。
バアルとは、カナンの先住民が拝んでいた豊穣神です。豊作と多産と繁栄の神様です。もともとイスラエルの民は羊を飼いながら移動する半遊牧民族でした。しかし、そのイスラエルの民がカナンに定住し、農耕を営むようになりますと、そこで礼拝されていた豊穣神、豊作と繁栄の神に心惹かれることとなったのです。分かるような気がしませんか。
しかし、豊作と繁栄の神が拝まれるようになるということは何を意味するでしょうか。当然のことながら、そこでは豊かになること、数が増すこと、強くなること、大きくなることが尊ばれるようになり、そのような社会が形づくられることになります。そこでは豊かな人、力ある人が尊ばれるのです。皆が豊かさを求めているのですから、当然そうなりますでしょう。すると豊かな人、力ある人は、ますます豊かになり力ある者となることを求めます。貧しい人、弱い人を踏みにじってでも、ますます豊かにそして力ある者になっていきます。繁栄の神、すなわち人間の欲望の投影である神が拝まれるならば、そうなっていくのです。そして、イスラエルは自分たちがかつてエジプトの奴隷であったことを忘れていくことでしょう。奴隷であったものが、ただ主の憐れみによって救い出されたのだということを忘れるでしょう。そして、憐れまれたことを忘れた民族は、互いの間における憐れみをも忘れることとなるでしょう。
しかし、主はイスラエルがそのような民となることを望まれませんでした。そこで主はどうしたのでしょうか。イスラエルを貧しくしたのです。弱くし、踏みにじられる立場に彼らを置かれたのです。「ミディアン人の手に渡された」と書かれているとおりです。
ミディアン人とは、遊牧民です。駱駝に乗っている人たちです。そのような遊牧民であるミディアン人や、同じく遊牧民であるアマレク人が大挙して襲来し、食べ物を奪い去り、土地を荒らしていくのです。「彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった」(6:5)と書かれています。そのようにして、イスラエルは貧しく弱くなっていきました。そこでついに彼らは叫んだのです。「イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ」(6:6)。
彼らは繁栄の神に助けを求めたのではなく、主に助けを求めて叫んだのです。「主」とは、その後に預言者が語っていますように、彼らをエジプトから導き上り、奴隷の家から導き出してくださった神様です。そのように弱い者、小さい者を憐れみ給う神様であり、踏みにじられている者を決して軽んじられない神様です。彼らは原点に帰って、奴隷であった民をエジプトから導き出された主なる神に助けを求めたのです。苦しみの中から憐れみを求めて叫び求める祈りを主は聞かれました。そこで主は彼らを救うために一人の人を選ばれたのです。その人こそギデオンです。
勇者よ、主はあなたと共におられます
ギデオンとはいかなる人物でしょう。彼自身が言っているように、ギデオンの一族はマナセという部族の中で最も貧弱であり、その中の一家族の中でも彼は最も年下の者だったのです(6:15)。しかも、6章11節にはこう書かれています。「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。」酒ぶねとは岩をくり抜いて作った穴です。そんな風の通らないような所でちまちまと小麦を打っていて、うまく脱穀できるはずがありません。しかし、そうでもせずにはいられないほど、彼はビクビクしていたということでしょう。これこそが神の選ばれた人物です。この男に対して神は御使いを通してこう呼びかけました。「勇者よ!」まさに悪いジョークとしか言いようがありません。どう見ても勇者ではないのですから。
しかし、神は大真面目なのです。神が彼を「勇者」と呼んだのは、彼が強いからでも勇敢であるからでもありません。大事なのは、その呼びかけの後の一言です。「主はあなたと共におられます」。主が共におられるゆえに、彼は勇者となるのです。主は14節で彼にこう言っています。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか」(6:14)。
かくしてこの“勇者”は、とてつもなく大きな重荷を与えられることとなりました。背負えば押しつぶされてしまうような重荷です。しかし、皆さんにも思い当たることがありませんか。神様は確かに時としてこのようなことをなさいます。神はその人の生来の力をもってはとても負えないような重荷を与えられることがあるのです。もう負いきれません、と叫ばざるを得ない。現実を見れば押しつぶされてしまう。そのようなことが確かにありますでしょう。
しかし、神様が負いなさいと言って重荷を与えられる時、そこには前提があるのです。「わたしが共にいるから」という前提です。かつてモーセがエジプトからイスラエルを導き出すという大きな務めを与えられた時もそうでした。主は言われたのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト3:12)と。ならばそこで大事なのは、強くなることではないのです。共にいてくださる主への信頼なのです。信仰なのです。
ギデオンはできると思ったからではなく、信仰をもって主の言葉を受け止めたのです。「あなたのその力をもって行くがよい」と言われても、自分の力などたかが知れているでしょう。ただ共にいてくださる主のみが頼りです。小さき者を憐れみ給う主こそが頼りなのです。ですから、ギデオンはそこに主のための祭壇を築き(6:24)、そしてその夜、バアルの祭壇を打ち壊したのです(同25節以下)。
あなたの民は多すぎる
折しもミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が皆結束してヨルダン川を渡って来て、イズレエルの平野に陣を敷きました。その総数は後に記されていますが(8:10)十三万五千人にも上りました。どう考えても太刀打ちできません。しかし、主が遣わされたのです。ギデオンは闘うことを決意します。彼はついに角笛を鳴らしました。
まずギデオンの身内であるアビエゼルの氏族が集まってきます。ギデオンは必死でした。自分が属するマナセの部族の隅々にまで使者を送り、人々を集めました。さらには北方の部族であるアシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を遣わしました。こうして戦いに備えて人々をかき集めたのです。その数三万二千人。いまだ相手の数には遠く及びません。しかし、それでもギデオンは諦めませんでした。今日お読みした朗読の箇所にはこう書かれています。「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった」(1節)。彼らは、三万二千人しかいないのに、それでも進んで行ったのです。
しかし、そこで驚くべきことが起こります。「主はギデオンに言われた。『あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。』こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った」(2‐3節)。いくらなんでもあんまりではないですか!ただでさえ少ないのです。それだってギデオンが必死でかき集めた人数だったのです。その人数を主は三分の一以下にしてしまわれました。
ところが主はさらに言われます。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない」(4節)。そして、水辺に下った時、常に戦える用意をしながら水を手にすくってすすった者だけを残したのです。戦いを忘れ、膝をついて水を飲んだ者は帰らせました。残ったのはたった三百人。ギデオンがせっかく三万人以上集めたのに。
与えられた重荷は負わなくてはならない。与えられた使命は成し遂げなくてはならない。だから一生懸命に計画を立て、工夫して努力して、なんとかやり抜こうとしているのでしょう。その計画をよりによって神様が無茶苦茶にしてしまいました。これまでの努力は水の泡です。――しかし、そのようなことは、私たちにもありますでしょう。せっかく集めたものを散らされてしまうようなことが起こります。せっかく積み上げてきたものが崩れてしまうようなことが起こります。その時に、やっぱり神様がうらめしくなる。なんでですか、と言いたくなる。そういうこと、ありませんか。
しかし、神様は言われるのです。「あなたが頑張って、あなたがかき集めて、あなたが積み上げて、それで乗り越えたならば、心がおごり、『自分の手で救いを勝ち取った』と言うだろう」と。そして、心のどこかで思うに違いありません。「やっぱりモノを言うのは数だ、富だ、力だ。それによって救いを勝ち取ったのだ」と。そして、イスラエルにしても、私たちにしても、そのようなおごる心は、結局はバアル礼拝の類にしか向かないのです。繁栄の神しか求めなくなるのです。
それゆえに、主は三万二千人を三百人に減少させます。そして、彼らを通して御自分が主であることを現されるのです。すなわち、奴隷の民をエジプトから導き出された神であること、苦しんでいる小さき者、弱き者を決して軽んじられない神であることを現されるのです。
その三百人はどうしたのでしょう。彼らは夜中に三つの小隊に分かれ、角笛と空の水がめを持って出て行きました。松明の光を水がめで隠しながら、気付かれないように敵陣を包囲する形で近づいたのです。そして、一斉に角笛を吹き、水がめを割って大きな音を出し、松明をかざして角笛を吹き続けたのです。この奇襲攻撃に敵陣は大混乱に陥りました。そして、結局かの一五万五千の大軍は三百人の前に敗走したのです。
この世の目から見るならば、ギデオンの知恵の勝利。ギデオンの作戦勝ちと言えるでしょう。しかし、聖書はそう言っていません。「主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ…」(22節)と書かれているのです。本当に闘われたのは主御自身でした。自分が一生懸命集めた人々を神様によって散らされてしまったギデオンには分かっていたはずです。これは主の知恵であり、主の勝利である。主は小さき我らを顧みてくださった。徹底的に弱くされたところにこそ、主の偉大な力が現されたのだ、と。