「光あれ」
2007年10月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記1章1節~5節、ヨハネによる福音書1章1節~14節
地は混沌であり
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(1:3)。その前の節において、「光あれ」と神が言われる前の状態が次のように描写されています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(2節)。「混沌」という言葉は、以前私どもが用いていた聖書協会訳では「形なく、むなしく」と訳されていました。二つの言葉からなる熟語です。旧約聖書に三回だけ出てきます。地は形なく、むなしく、秩序もなく、存在の意味もない。まさに底なしの深みを闇が覆っているような虚無の世界。聖書は「地」――すなわちこの世界――の初めの状態を、そのような言葉をもって表現しているのです。
そのような混沌と闇の世界に神が語りかけるのです。「光あれ」と語られる。すると光があった。そこから全く新しいことが始まるのです。闇が退いた後に、そこに一つ一つの形が生まれてくるのです。一つ一つの秩序が生まれてくるのです。ここに書かれているのはそのような話です。「神は言われた」「そのようになった」が繰り返される内に、混沌の世界が神の栄光の表現である神の世界となっていくのです。
さて、お読みしましたとおり、これは世界の初めについての物語です。しかし、聖書の言葉が本当に語ろうとしているのは、単に《昔々のお話》ではありません。そうではなくて、この物語を読んでいる人に――それがいつの時代の人であっても――その人生に直接関わっている話をしているのです。その人の人生を左右することを聖書は語っているのです。なぜなら、この「地」をどう見るか、この世界をどう見るかによって、その人の生き方は定まってくるからです。「地は混沌であり暗闇であった。そこに神は光あれと言われた。すると光があった」――ここには、私たちが生きている「地」をどう見るか、この目に見える世界をどう見るかということについて、聖書の強烈な主張が言い表されているのです。
それは、この世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えてくださったのは神なのだということです。神の言葉と神の御業がなければ、この世界はもともと混沌であり闇でしかなかったのだ、ということです。そして最も重要なことは、今述べたことの当然の帰結となるわけですが、神から離れてしまうならば、この世界は初めの混沌と暗黒に戻らざるを得ないのだ、ということです。神が光を与えたのですから。神が秩序を与え、意味を与えたのですから。その神から離れてしまうならば、一番最初に書かれていた、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という状態に逆戻りしてしまうことになるのです。
今申し上げたことは、聖書の別の箇所において、もっとあからさまに語られております。今から二千五百年以上も前、紀元前七世紀から六世紀にかけて、そのメッセージを人々に激しく語った一人の人物がいたのです。その人の名はエレミヤと言います。彼の言葉は旧約聖書のエレミヤ書に書き記されています。
エレミヤ書4章22節を御覧ください。神の言葉を退け、神に背を向け、自らの罪を罪として認めず、悔い改めることを知らないイスラエルの民に対して、神はエレミヤを通して次のように語られました。「まことに、わたしの民は無知だ。わたしを知ろうとせず、愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく、善を行うことを知らない」(エレミヤ4:22)と。そして、神を知ろうとしない民にやがて訪れる恐るべき結末を、エレミヤは既に目の前に見ているかのように、このように語っています。「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。わたしは見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた」(同23‐26節)。
ここに書かれています「大地は混沌とし」という表現に見られるのは、先ほど創世記に見た「地は混沌――形なく、むなしく」という言葉なのです。旧約聖書に三回出てきますと言いましたが、その一つです。地は混沌としていた。そのような大地を「わたしは見た」と彼は言うのです。地は形なく、むなしくなり、光を失って真っ暗闇になってしまうことをエレミヤは見ていたのです。この世界に秩序を与え意味を与える神を離れるなら、そのように神に背いた世界はやがて確実に崩壊し、暗闇の中に落ちていくことを、エレミヤは心の目をもって見ていたのです。
そして、エレミヤの見た幻と、彼の語った主の言葉が真実であることを、イスラエルの民はやがて自らの生活において経験することとなりました。ユダの王国は崩壊し、人々が依り頼んでいた神殿は焼き払われ、エルサレムの城壁は崩されて瓦礫の山となり、主だった人々はバビロンに連れ去られ捕囚となりました。「大地は混沌とし、空には光がなかった。」――確かに、人々は現実にそのような世界を見ることとなりました。「大地は混沌とし、空には光がなかった」――その言葉はまさに彼らの人生における実感だったのです。そのような人々にとって、あの天地創造物語は、単なる遠い昔話やおとぎ話ではありませんでした。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」。そう語る初めの状態の描写は、まさに彼らの生きている世界の描写、彼らの生活の描写に他ならなかったのです。
さて、《彼ら》の話をしてきました。ではそれから二千五百年以上後の《私たち》はどうなのでしょう。現代の多くの人にとって、この創世記の物語は、あまりにも原始的な、あまりにも素朴な物語に聞こえるに違いありません。しかし、いったい私たちは「地は混沌であった」という言葉を、簡単に聞き流すことができるのでしょうか。否、むしろ「混沌」という言葉こそが、しばしば私たち個人の人生にせよ、家庭生活にせよ、社会のありようにせよ、その現実を言い表すのに最も相応しい言葉となっているのではないでしょうか。実際私たちは、「地は混沌であった」という言葉を、それこそ文字通り全地について、すなわち地球規模において目にし始めているのではないでしょうか。「闇が深淵の面にあり」という言葉についてはどうでしょうか。もはや這い上がることのできない深い淵、その上をまったく光のない暗闇が覆っている世界。それはまさに、私たちが目にしている世界を描写する最も適切な言葉ではないでしょうか。今から二千五百年以上前にせよ、この現代にせよ、神を見失った世界の有様は、「混沌」と「闇」という言葉をもってしか表現され得ないのです。
二度目の「光あれ」
しかし、そのように「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という言葉が自分自身との関わりにおいて読まれ、天地創造の物語がまさに《私たちの物語》として読まれる時にこそ、続く3節の言葉が私たちにとって大きな意味を持つのです。その混沌と闇の中に神の言葉が響き渡るのです、「光あれ」と。その「光あれ」という言葉が、私たちにも力強く迫り来る言葉となるのです。
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(3節)。そこから神の御業が始まりました。混沌と闇の状態を決定的に変えてしまう神の御業が始まりました。そしてこの後、物語は実に秩序正しく進んでいきます。「神は言われた」「そのようになった」「神はこれを見て、良しとされた」という言葉の繰り返しの中で、神の良しとされる秩序ある世界が造り出されていくのです。想像して見てください。この単純な繰り返しによる物語は、バビロンに連れ去られた民、混沌と暗闇を見ていた人々にとって、どれほど大きな慰めと希望を与える物語であったことでしょう。
先ほど、「この世界に秩序と意味を与える神から離れてしまえば、この世界は初めの混沌に戻らざるを得ないのだ、という主張がここにある」と申しました。しかし、本当はもっと大きなことが語られているのです。さらに大きなメッセージがあるのです。それは「神が初めにこの世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えたのだから、混沌となった世界にも再び形を与え、秩序を与え、意味を与えることがおできになるはずだ」というメッセージです。世界の創造の物語は、神が《世界を再創造することもおできになる》ことを語る物語でもあるのです。
あの「初め」において、混沌とした大地、闇が深淵を覆っているような世界を、神はそのまま捨てて置かれませんでした。ならば、今のこの世界も、この国も、神は混沌と暗闇の中に、そのまま捨てて置かれるはずがありません。私たちの家庭も、私たちの人生も、神は混沌と暗闇の中に、そのまま捨てて置かれるはずがありません。神が語られるならば、神が「光あれ」と言われるならば、そこには光がもたらされるのです。光が来るなら、暗闇は逃げていくのです。そこには新しい秩序が生まれ、新しく意味が生まれるのです。新しい創造がそこで起こるのです。そこにこそ彼らの希望はあったし、そこにこそ私たちの希望もあるのです。
そして事実、神はこの世界に向かって、もう一度、決定的な仕方で、「光あれ」と語られたのです。そのことを私たちに伝えているのが、今日の福音書朗読で読まれた聖書の言葉です。ヨハネによる福音書の冒頭の言葉です。
この箇所が創世記の天地創造物語を念頭に置いて書かれていることは一目瞭然です。ここでキリストは「言」と呼ばれています。そして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と語られているのです。言は人間となって、ナザレのイエスという人間として、この地上を歩まれました。すなわち、そのようにして神は、最終的に決定的な仕方で語られたのです。父なる神と一つである御子なる神をこの世界に送られることによって、神はこの世界に語られたのです。かつてこの世界の創造にたずさわった《言》が、神に背いて混沌となった世界に来られました。その言の内には命がありました。神の命がありました。そして、「命は人間を照らす光であった」と書かれています。そうです、あの時と同じ「光」です。いわば、神はあの初めの時と同じように、もう一度「光あれ」と言って、御子をこの世界に遣わされたのです。
そして、神が「光あれ」と語られたのですから、既にこの地上に光がもたらされているのです。イエス様はこう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。光は既に与えられているのです。ですから、イエス様と共にあるならば、その人は命の光を持つのです。もはや混沌の暗闇の中を生きていく必要はないのです。
先ほど、「世界の創造の物語は、神が《世界を再創造することもおできになる》ことを示している」と申しました。神は二度目の「光あれ」を語られました。ですから新しい創造の御業は既に始まっているのです。馬小屋の中で生まれ、あのゴルゴタの十字架の上で死なれ、空になったあの墓において復活され、あのオリーブ山から天に挙げられた、あの御方を通して神が語られた「光あれ」。そこから新しい創造は始まっているのです。パウロもこう言っています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)と。そのような新しい創造がキリストの到来と共に始まっているならば、それは完成へと向かっているのです。そのキリストが私たちにも宣べ伝えられました。光なるキリストが私たちの人生にもたらされました。キリストに結ばれた私たちにおいても新しい創造が始まっています。そして、その善き神の御業は完成へと向かっているのです。